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花の行く末(1)

 早駆けは全力で駆ける。

 ところどころに誠道会の人間とおぼしき黒服の男が立っている。男たちは駆ける少年に気づいた様子でこちらを見やる。が、少年は男たちが動くよりも早くにそこを駆け抜けていた。男たちももう仕事が済んでいるので、小汚い浮浪児が通り過ぎるのをさして気にかけない。

 花売りの家はすぐそばだ。最高速で疾駆する。

 にもかかわらず、花売りの家がとても遠くに感じられる。足を絡め取られたかのように遅い。郵便屋で何度も行き来した覚えのある道々が、もどかしいほどゆっくりと過ぎていく。家にたどりつくまで、これまでに遅刻した時間と同じだけかかるように思われてくる。

 早く彼女と二人きりになりたかった。


「二人きりになりたいね」

 約束を交わした日の別れ際、彼女がそう言った。

「これまでも二人で会ってなかったか」

「たまたま落ち合っていたのと約束を交わして会うのとではぜんぜん違う。そこんとこ、まだわからないかな」

 花売りは眉を曲げたまま立ち上がって早駆けを見下ろす。

「なんか上から目線のむかつく言い方だな」

「それはわたしが立っているからだ」

「さっき立ち上がったのはそのためか」

「早駆けが立っても、高いのはわたしのほうだけどね」

 最初に会ったときの生意気な花売りが戻って来たようだった。どちらが彼女の素なのか、早駆けにはまだわからない。どちらも彼女の本当なのかもしれない。早駆けはふっと小さく笑う。

「まあでも、二人になりたいってのはわかるぞ。ひとりになるのはいやだもんな……」

「愚連隊にいるのもそう思ってるから?」

 早駆けは間をおいて、「……まあな」と渋々うなずく。

 ひとりになるのがいやでなければ、なにかと見下げられてしまう愚連隊にいつまでも籍を置いているわけがない。とっとと見切りをつけて出ているはずだ。

 なぜかようにひとりを恐れるのか。

 孤児院を焼け出されて、愚連隊に拾われるまでひとりで過ごした飢寒の日々が、早駆けの脳裡(のうり)にしみついて離れないのだ。食い物を求めるためだけの行軍と寝場所のために繰り広げられる暗闘。浮浪者の世界にも上下があり、なんの経験もない彼は寝食を確保するのにさえ困苦した。新参の浮浪孤児にとって、そこは究極のひとりの世界だった。

 長い流浪の末、うらぶれた路地裏で西宮隊長に拾われていなければ、確実に野垂れ死んでいただろう。もっとも彼が長いと認識していた浮浪者生活はたった十日あまりにすぎなかったが。

 ところでもしも少年が生まれついての浮浪孤児だったならば、野垂れ死ぬのも消極な選択の一つとしてありえたかもしれない。しかし少年は孤児院での生活を知っていた。人と眠る温かい夜を知っているからこそ、またそうした生活に戻りたいと望んでしまう。温かい夜の幻覚を見てしまう寒い夜のなか、死にたくないとぶつぶつ呟いていたみじめな我が身を覚えている。

 ――死にたくない

「ひとりになんか、なりたくないよな」

 その言葉が返しのついた棘のように引っかかって抜けない。愚連隊を出てしまえばまたあんな日々に戻ってしまう。それだけはいやだった。

「二人なら、大丈夫?」

「誰でもいいってわけじゃない」

 ――あんたとなら……。違うな、あんたとがいい

 そう考えずにはいられなかった。もし、もしも、花売りと二人でいられるようになるのならば、愚連隊を足抜けするのもいいだろう。独りではないのだから、恐ろしさにも寂しさにも立ち向かえる。彼女との生活のうちには、きっとひとりではない温かな夜がはらまれている。

『女でもできたのか?』

 ふと、いつかの隊員の嘲罵(ちょうば)が思い出される。

 ――一緒になりたいなんて、まるでいい人になったみたいじゃないか

 その意味するところに思い当たり、たちまち耳まで真っ赤になるのが自分でもわかるほどだった。早駆けはとっさに唇を噛む。赤さをごまかせるわけでもないが、火の出るような顔面の熱さは痛みにまぎれた。蚊に刺された痕に爪を立てるようなものだ。

 ――そもそも、こいつとはまだそんな仲じゃないんだぞ

 では、いずれそうした仲になりたいのか。

 なりたいと思っていなければ、一緒になりたいなど夢想するわけがないではないか。

 早駆けの小さな体のうちを思慕の念が駆けめぐる。

 手にそっと温かな手が重ねられる。彼ははっとして少女を見る。押し黙ったままの花売りもまた顔を赤くしていた。

 手を通じて、「わたしとなら、どうかな」と問うているようでもあるし、「そうだよね」とただ同意しているだけのようでもある。しかしこのときの早駆けには、

 ――通じた

 と、確信めいて思えた。

 そう思いたかったのかもしれない。

 思い上がりでもいい。少年は手のひらを反して少女の手を握り返した。

 離しはすまいと、強く、熱く。言葉にしないでも通じてくれと。


 花売りの陋屋(ろうおく)の前になにか人だかりができている。早駆けの胸裡はいやな予感で埋め尽くされる。いやな予感はずっと前からあったではないか。この区画を含む一帯に見張りにつかされたときから。違う。朝に招集があって約束に間に合わないのが確定したときから。

 いやな予感というものは、的中するために存在しているようなものである。全ての事態がおよそ考えうる最悪の一点へと収束していく。きっといいほうへ裏切ってくれる。そんな希望すらただの引き立て役。

 速度を緩めた早駆けは、早歩きになって人垣へ近づいていく。それなりの距離を全速で駆けてきたが息切れは起こしていなかった。

 人垣といっても小さなものだ。くぐろうとする少年に気づいた男が脇へ寄って場所をあけてくれた。

「ここの人、やっぱりあれだったみたいですね」「娘を使って花を売っていたとか」「どうりで」「みかじめを納めなかったんだろう」「誰かが誠道会に垂れこんだのかね」「いや、向こうで調査して動いたらしい」

 野次馬の話し声を背に、早駆けは粗末な家の前に躍りでる。

 扉代わりの暖簾(のれん)がしだれている。人が出入りしている気色はない。

 貧民街では普通、近隣住人が夜逃げか失踪したとわかったら、隣近所の人々が押し入って金目の家財を我が物にしてしまう。たいていろくなものは残っていないのだが、それでも再利用できそうな目ぼしいものを漁りつくしていく。しかし花売りの家には誰も入っていない。なにも残さず消えたか、すでに盗られたあとなのかもしれない。

 ――いや、もしかすると中にまだいるからじゃ……

 そう考えて早駆けはさっと家に駆け入る。後ろで誰かがなにかを言った気がするが、少年の耳には入らない。

「……おい」

 小声で呼びかけてみる。入ってすぐの居間には誰もいない。

 水がめは割れ、缶詰も散乱している。夏ならば蠅がたかっていただろう。茣蓙(ござ)はところどころ踏みにじられ、めくれあがって地面が露出している。部屋の隅の藤籠もひっくり返って、中に入っていたぼろ着はきれいになくなっていた。

 早駆けは奥の一室に目を向ける。こちらも垂らした布が扉代わりになっていて、中をうかがい知ることはできない。

「おい、いるのか? 俺だ」

 もしかしたらパパのほうが出てくるかもしれないが、誰もいないよりはいいだろうと呼びかける。

 変わらず返事はない。早駆けは意を決して奥の部屋に踏みこんだ。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、狭い部屋の真ん中で大の字になった仰向けの男の姿だった。昼でも薄暗い部屋の中、薄い布団の上でぴくりともしない。

 早駆けは小さく一歩だけ男に近寄る。

 が、すぐにより大きな一歩で後じさってしまう。

 男の口の端には黒い液体がべったりとついていた。服も同じような色で黒ずんでいるし、布団も同じ色に染まっている。血だ。血まみれになって倒れ、完全に事切れていた。

 しかも男はあのパパである。

 大口を開けて白目をむいた顔は間抜け面の一瞬間を切り取ったようで、早駆けや花売りに見せていた怒りはどこからも読み取れない。死の間際に生じるであろう痛みや苦しみもなく、驚いたまま固まってしまっていた。

 早駆けはすぐに閉じたい目を左右へ必死に泳がせて、部屋の中を探る。もし彼女も近くに倒れていたら……。

 幸い室内にはパパしか倒れていなかった。だからといってほっと胸をなで下ろせない。目の前で人が死んでいるのだ。それもおそらくは殺されている。

 ぼろ着を盗んでいった連中はこの惨状を知っているのだろうか。いや、仮に知っていたとしても盗みをためらわなかったに違いない。今日死んだ他人よりも明日の自分。失踪者よりも死者のほうこそ衣服が無用。だから夜逃げした家から盗むよりも、死者が出た家から盗む方が有効活用としては理に適っている。彼らはきっとそう考えている。もちろん彼らは服欲しさに貧乏人を殺しはしない。

 殺人は誠道会のみかじめとの絡みだ。早駆けはそう思わずにはいられなかった。見張りに立っている間、ここでどんなやり取りがあったのかはわからない。だけどおそらくは揉めて、結果として殺されたのだ。野次馬たちの話も合わさって、想像できるのはそんな場面だけだった。

 早駆けは呆然としたまま身体を震わせていた。

 俺はここでどうすればいいのだろう。なにも手立てを考えられない。

 男の死体から少しでも遠ざかりたくてさらに後じさり、踏み違えて尻餅をついてしまった。地についた手が、固い感触のなにかに触れた。湿った地面とは違う硬質な触感だ。

 破れた藤籠の下に木の板が敷かれていた。早駆けが手をついた先の衝撃か、あるいは盗人が家の中を荒らしたときの弾みかで大きくずれている。木の板がもともと敷かれていたであろう板塀の下限が露出して、剥き出しの地面は掘ったように大きくえぐれていた。もとはえぐれた地面の段差をなくすために木の板を敷いて床にしていたのだろう。

 えぐれた地面の底に、なにか白いものがあるのに早駆けは気づいた。木の板と地面の隙間を利用して、パパが貴重品を隠していたのだろうか。貧民は秘密の隠し場所のひとつやふたつは持っているものだ。

 少年は手を伸ばして赤いそれを手に取った。赤いものにつられるようにして黄色いものもついてくる。

 金目のものではなかったが、早駆けにとってはそれ以上に大事なものだった。

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