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約束(3)

「わたしね、別の仕事をしようとしたの。いまより稼ぎは悪くなってしまうけれど、そこはパパにもお仕事をしてもらって補おうって。親子で働くなんて珍しくもないでしょ。花売りだっていつまでも続けられるお仕事じゃないから。そんなふうに話したらパパは急に怒りだしたの。あとは早駆けが見たまんまだよ」

 少女はため息をついた。

「かなり勇気を出して提案したんだけどね、パパはわたしにずっと花売りを続けてほしいみたい。あの人は自分で手を動かしたくないんだよ」

「そのパパってやつはバカなんだな」早駆けは憤然と言いきる。「あんたが考えた話なら悪いもんじゃないに決まってるのに」

「しょせん子供が言うことだからね」

「いやがる子供に手を上げる親は最低だよ」

「それも路地裏じゃ珍しいものでもないでしょ。でも、そう言えるってことは早駆けはいいところで育ったんだね」

「いいところ、なのかな。孤児院だぜ」

「あ、そっちのほうがよっぽど手を上げられてそうだ」

「そんな場所もあるっていうな」孤児院に救貧院に癲狂(てんきょう)院。帝都民がけして入れられたくないところとして挙がる三つの院だ。「けどうちじゃそんなことはなかったよ」

 早駆けがきっぱり否定すると、少女は羨ましげに、

「わたしもそこがよかったな。そうしたら早駆けともっと早くに会えていたし、もっと賢くなれていたのになぁ……」

「賢くって、あんたが言うと嫌味に聞こえるな」

「早駆けにも同じこと言えるよ。お客さんより利口だ」

「俺は――」早駆けは少し口淀んで、「読み書き計算がちょっとできるぐらいだよ」

「それも孤児院で?」

「ちょっとだけな」

「路地裏じゃそのちょっともできない人のほうが多いのは知ってるよね?」

 早駆けは愚連隊の面々を思い浮かべる。喋りの威勢がよい者はきりがない。しかし口を封じられ、紙と鉛筆を前にしてなお能弁な者はどれだけいるだろうか。隊長に副長、日ノ出。彼が知っている範囲ではこの三人だけだ。読める人間はもう少し多いかもしれないが、それだって両の手で足りるぐらいだろう。戎の総数は両手両足を使っても足りないほどだというのに。

「立派な人になれるかもね」

「俺が立派になれんならあんたの末は碩学(せきがく)だな」

「花売りの碩学なんて世界で初めてかも」

 少女がくすりと笑う。つられて早駆けも口角をにゅっと曲げた。

「いいじゃねえか。碩学ってのは世界で初めてなにかをした人間の集まりだろ」

「先生の中でも特に頭がいい人たちの呼び名だよ。わたしが知ってるのは帝都の三大碩学ぐらいだけど」

「誰でもいいさ。けど、そいつらが俺たちの生活を変えてくれたか? 科学の恩恵だなんていうけど、それを実感できるのはましな生活をおくれる連中だけだよ。でもさ、路地裏を知ってるあんたが碩学になったら、俺たちみたいなのの生活も変わるって期待ができるよ」

 少女はふっと真顔に戻って首を横に振る。少年の胸がちくりと痛む。いらぬことを口にしたかもしれない。

「読み書き計算っていうのは、普通の家に生まれてきて初めて意味が生じるものなんだよ。たぶんわたしたちでは持て余してしまう力。持っていても生活は変えられない。なにも変えられないのなら、利口じゃないほうがよかった。あれこれ考えてしまうから痛い思いをしちゃう。不釣り合いな力を持っても苦しいだけだね、早駆け」

 同意を求めるような素振りの花売りに、早駆けはうなずきかねた。

 また沈黙が訪れて、支配と蹂躙を開始する。つないだ手の温かさだけが、そのなかで生を保っていた。

 早駆けが少し力をこめてから弱めると、花売りも同じように握って返してきた。交互に強めて弱めて、鼓動のように何度も規則的に繰り返す。

 あえかなつながりが支配と蹂躙に抗う。

「わたしが本当に恐いのはパパじゃない」

 ぽつりと少女。

「本当に恐いのは、媚びるような笑顔を浮かべて恐いのをごまかしてる自分。早駆けが指摘したわたし。パパに怒られてるときね、わたしは『怒られてるのはわたしじゃない』って考えてるの」

「……客の相手をするときも?」

 早駆けが聞くと、少女は逡巡して、うん、とうなずいて、

「『これはわたしじゃない。わたしの身体はただの入れ物』なんて考えてやり過ごしてる。きっとそんなときだろうね、媚びた笑いが浮かぶのは」

 彼女は仕事にも恐れをいだいているという。それがどのような恐れなのか、早駆けにはとても想像がつかなかった。彼女がそんな態度を一度も見せなかったからというのもあるし、花売りについても隠そうとはしなかったというのもある。しかし思い当たる節はあった。客との口づけを見られたときの少女の気まずそうな態度。あれは恐れている姿をふいに見られたのを隠そうとしていたのかもしれない。誰かに恐れている姿を見られてしまうのは、とても恥ずかしいことだから。

「『わたしじゃないわたし』なんて、意味わかんないよね」

「いやなことしてるんなら、誰だってそう考えるよ。俺だって……」

 ――愚連隊にいるのは〝僕〟じゃない

 何度そう思ったかしれない。犯罪など強要されなかった孤児院時代との落差に応ずるために、少年はそう考えて精神の均衡を保つしかなかった。

「早駆けも?」

「そりゃ、やりたくないこともやらされるからな。上の命令には逆らえないし、できないなんて言って抵抗もできない。俺がやりたくてやってるんじゃない。仕方ないって思いたくもなるよ」

「でも、そうやってごまかしてると恐くならない?」

「……どんなふうにさ?」

「ごまかしつづけていると、なにが恐かったのかすらわからなくなって、しまいには自分がなんだったのかもわからなくなりそうで……」

 自分は何者なのか。この問題には少年も際会している。

 愚連隊の早駆けか、孤児院にいた少年のなれの果てか。

 彼はこの違いを見出せないまま、惰性で愚連隊の早駆けをつづけている。もっともそれは己を欺いているというよりも、無辺の海原に放り投げられた漂流者が、愚連隊という流木をやみくもにつかんでいる状態に近い。見える範囲には島も岸も船もない。花は自分で咲く場所を選べないと花売りは言ったが、それと同じだ。漂流者は自分で流される先を選べない。環境と状況が気ままに行先を命ずる。

「俺にはもっと恐いことがあるからな」

「愚連隊の隊長?」

「違うよ。もっと恐いものだ――」

 黒い影と炎がちらちらと早駆けの脳裡(のうり)をかすめる。

 彼は少女のように瞞着(まんちゃく)に恐れを覚えていない。

 彼が恐れているのは一つの問いかけだ。

 愚連隊の早駆けか、孤児院にいた少年か。

 この問いに答えれば、自らの去来を自身で認めてしまうことになる。彼はそこに恐れを見いだしていた。自分が何者かわからない状態こそ、彼にとっては望ましいのだ。

「それは孤児院の――」と少女は言いさして、「話したくないことも、誰にでもあるよね」

 と口をつぐむ。彼女がそんなふうにあからさまな興味を示すのは珍しい。早駆けはその興味に応じたくなった。これまで彼女には愚連隊の早駆けの話ばかりをしていた。スリをやらされては失敗し、他の隊員を心底で見下している下っ端の話ばかりを。だからたまには違うことも話したくなる。なにより彼女が自分の過去に興味を向けてくれたのが嬉しい。

「ちょっと前に南部市で大火事があったのは知ってるか?」

 話してくれるの? と言いたげに、少女はおずおずと、「駅の近くが丸ごと焼けた暮れの大火なら」と応じた。

「あれで孤児院も焼けちゃったんだ」炎の中から黒い影が()い出てくる。大きな影が小さな影を炎に向かって突き出す。「〝僕〟が恐いのはそれ……」

 本当はもっと話すべき内容があった。しかし詳細を口にすれば、少年自身が浅からぬ痛手を受けてしまう。口数少ない概要はいまの彼が恐れに触れられる限界点だ。

 聡明な少女が、「そっか」と短くうなずく。

「恐かったんだね」

 それ以上は深く追及はしない。いつの間にか震えていた少年の手を強く握りしめながら、器用に半身を起こしてにじり寄る。

 茣蓙(ござ)の上に投げ出されていた少女の手が、少年の身体を撫ではじめた。

 早駆けは身を任せていた。自分でもいつそうしたのかわからない。

 身体が熱い。いっそう手の動きが意識される。

 手が、熱の芯を求めるように動いている。

 風の流れが変わったのか、どこからともなく薄黒い煤煙が漂ってきた。冬の空気に冷やされながら、空中で撹拌(かくはん)されてうっすらと溶け消えていく。臭いだけは尾を引いてとどまり、体内に入りこんで切なさを訴える。

 煙室を通った煙に特有の臭いで、早駆けは以前に嗅いだ少女の髪の臭いを思い出す。彼は酔ったような心地で少女に身を寄せて、髪に鼻を押し当てていた。

 髪は煤煙臭いが、しかしけして不快ではなく、かえって安心感を覚えるほどだ。路地裏で育った身には親しい臭いだからだろう。消えない過去の中の黒い影が少しだけ薄れる。そのまま消えてはくれない。いずれまた濃くなるだろう。しかしいっときとはいえ、薄まったことで早駆けは胸をなで下ろす。

 安心。それは彼女が言っていた媚びた笑顔と同種のものだ。恐れを和らげてくれるが、実態は己をごまかしているにすぎないと。

 ――安心なんてどこにもないんだ

 茫洋とする頭の中でそう感じてもいた。少女がもたらす安心は確かにそこにあるのに、安易にもたれかかるのも恐ろしい。帝都での安逸などいっときのものにすぎないと、早駆けは孤児院の焼失により一転した我が身を通して知っていた。

 少年の危惧を敏感に読み取ったか、少女の手が離れていく。代わって、

「ねえ、早駆け」と呼びかける。「あのままわたしを外に連れ出したら、どこへ連れて行く気だった?」

 咄嗟(とっさ)の行為に深い考えがあるわけではない。早駆けはただその場から離れるのを優先しただけだ。しかし彼は自然に、「遠くへ」と答えていた。

「近場はいやだもんね。でも、どこがいいだろう。早駆けが行こうという場所ならどこでも行けるよわたし。でも、どこに行っても、ひとりにだけはしないで……」

 その言葉に、早駆けは強く惹かれて俄然(がぜん)と身を起こす。なぜだろう。理由はわからない。ただ彼は少女の求めに応えるべく、

「森林公え――」言いかけてはっと気づく。以前に贈った花について、こいつは森林公園に咲いていると言っていた。そういうことを知っているぐらいだから、足を運んだもあるのだろう。

 そう考えた早駆けだったが、花売りはその考えを見抜いてにっと自然に笑う。

「いいね、森林公園。実は行ったことないんだ」

「じゃあ決まりだ。あそこならいくらでも花を仕入れられるだろう」

 言ってから早駆けはひやりとした。花売りを辞めようとしている彼女に、新しい見本を仕入れようとも取られかねない申し出は無神経にすぎたかもしれない。しかし彼女は気にしたふうでもない。

「森林公園の花は摘まないよ」

「そんな決まりが?」

「ううん、わたしがそうしたくないの。摘まれた花は枯れるだけだから。目鼻を楽しませるだけに持ち帰られた花はなにも残せない。花は自然の中にあってはじめて本物になれるの」

「本物の花、か。あの黄色いのと赤いのも咲いてるんだっけ。あれの本物ってのをあんたに贈れないのはちょっと残念だな」

「早駆けと見られるのなら、それが一番いい贈り物だよ。もちろん早駆けがわたしに買って来てくれたのも嬉しい。でも本物はもっと素敵に違いない」

 抽象的な逃避の話は、いつしか具体的な遠出の約束へと変わっていた。彼らがパパに抗える、たった一つの方法へ。

「そうだ」少女が朗らかに言う。「わたしの本当の名前もその時に教えよう」

「今じゃだめなのか?」

「象徴的な意味を込めたいの」

 という少女の言い分に早駆けは疑問符を浮かべる。

「お客さんは好きに私のことを呼ぶっていうのは前に言ったよね。本当の名前を知っているのは〝パパ〟ぐらい。それを早駆けにも教えるっていうことは、わたしは〝パパ〟の持ち物じゃないんだっていう意味を込めることになるんだよ」

 多分に儀式的な意味合いを含む行為を早駆けは理解しかねたが、彼女の名前をようやく聞けるという喜びがなによりも勝った。また彼は、少女が秘してきた名を明かすのだから、自身もなにか打ち明けないと不公平だとも考えた。

「俺も、あんたについてた嘘を謝るよ」

 彼はかつて少女に、前を見て駆けている、と口にした。しかし実際は、未来など見ずに、ただ過去と現在の狭間を猶予(たゆた)いながら流されて生きているにすぎない。そのことを謝罪しようというのだ。

 そしてこう付け加えようとも目論んでいた。彼女と一緒に前を向いて行きたいと。駆けなくてもいいから、ともに歩いていきたいと。

「早駆けがどんな嘘をついてたのかわかるのか。楽しみだな」

「楽しみなのか」

「本当の早駆けを見せてくれるってことだからね」

「そんなふうにも考えられるんだな」

 少女の発想に早駆けは目を白黒させた。

「考え方ひとつだよ。嘘はつかないけれど、本当のことも言わないって人もいる。そっちの方がよほどたちが悪いんだけどね」

「本当のことを言わないって、それは嘘と同じことだろ」

「んー、そのあたりは早駆けにはあんまり学んでほしくないかな」

「気になる言い方しやがって」

「ま、そのうちね」

 花売りがごまかすので早駆けはそれ以上は深く聞くのをやめた。

「訂正といえば、さっき早駆けは『いやなことしてる』って言ってたけどね、花売りもいやことばかりじゃないんだよ」

「そうなのか?」

「うん。だってこうして早駆けに出会えたんだから」

 彼女の自然な笑顔に力づけられる。そうした得た力は、彼女の笑顔がいつまでも続くためにふるわれるべきだ。早駆けはそう考えた。

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