約束(1)
「郵便屋はこれでしまいだ。今日までご苦労だった早駆け」
フセ副長が封筒を受けとりながら言う。早駆けが郵便係に任ぜられてから二週間、その役目もいよいよご免だと。
告げられて受け入れるしかないのが下っ端の立場だ。
彼は気が重くなる思いで、「はあ」とうなずき返す。
しばらく遠ざかっていたスリにまた戻らないといけない。良心にまた麻酔を打たねばならない。いや、それ以上に麻酔を打ってこらえなければならないのは、周囲から浴びせられる悪罵に対してだ。
いずれにせよ愚連隊に身を置く以上は避けられない日々が戻ってくる。
「スリに戻るのは気が進まないか?」
「いえ、その――」
見透かすフセに早駆けはしどろもどろになる。戎のスリの元締めであるフセ副長に、後ろ向きな口はきけない。早駆けが言葉を濁していると、
「ま、そっちも一二週間ぐらい休んでもらうがな」
「え?」
フセの意外な宣言に早駆けは目を丸くする。ただしもちろん本当に休みとなるわけではないようで、
「明日から戎は別の仕事に取りかかる手筈だ」
「それは俺も加わるんでしょうか?」
「総出だ。だけど全員が動くのはもう四五日ぐらいあとになるだろう。ちょっとは自由にしてもいいが、いつ呼ばれてもいいように朝晩はここに居ろ」
具体的な内容を一つも明かさぬまま、フセは早駆けを退室させた。
階下の広間で暇を持て余した隊員たちが、変わらず飲み食いや遊興にふけっている。しかし享楽な雰囲気はほとんどない。どこかしら気だるさが漂っている。喧嘩にともなう昂奮や、犯罪に覚える快感といった類の刺激に事欠いているのだ。
ときどき些細なきっかけから隊員の間で諍いが起こるものの、それは彼らにとってはいつもの出来事である。外部から降って湧くような刺激を求めている隊員にとって、行動を制限されている現状は退屈の一言に尽きた。
「お前は今日もお出かけかぁ?」
さっさと広間を抜けて建物を出ようとした早駆けを、目ざといのが見つけてしつこい痰のような絡まり方をする。退屈を紛らわせられればそれでよい連中だから、機嫌が良いときには早駆けを歯牙にもかけない。彼らにとって早駆けは部屋の隅にあるシミみたいなものだ。手持ち無沙汰なときに限っていやに目についてしまい、なんだか目障りに感じられてくる。
「ここんところいっつもだよなぁ?」
「もしかして女でもできたのか?」
揶揄されてふっと花売りの姿が浮かぶ。その瞬間早駆けは、
「違うわ!」
思わず大きな声で反発してしまっていた。音声の大きさに、言い出しっぺの相手のほうがかえってひるんだ素振りをみせたほどだ。ほんの軽口のつもりで発したのだろう。しかし当の早駆けにとっては鋭い棘であった。早駆け自身その棘の鋭さと痛みに驚いていた。
「……なんだ、女であってるのか。かわいい子なら紹介してくれよ」
「どんなのでもお前にはもったいないだろ?」
連中は早駆けの予想外の反発に良い刺激の原因を嗅ぎ当てたらしく、いやらしい粘つきを発揮して下品に笑う。
早駆けは黙って戎の根拠を飛びだした。その背に汚い声が投げかけられるのはいつものこと。またそんな日々が、戻ってくる。
――あの子が俺の女?
花売りの家へ向かう途上、早駆けは突き刺さった棘を慎重に抜こうとする。
ちょっかいを出した隊員が〝女〟に含意したものはわかる。しかし早駆けは、彼女との仲をいかがわしいものではないと断言できる。口を寄せられこそしたものの、あくまで五円のやり取りを前提とした商品としてだ。彼女が情実を示すためではなかった。
――おとといの別れ際のやつだって……
『それの反対、かな』
いまだに思い出すだけで赤くなる。早駆けは額を撫ぜた。
あの日の柔らかな感触がまだ残っているような気がして、消えないように指先でそっと優しく触れる。あの日から事あるごとにそうしていた。あれは支払った料金分の最後の商品だったのだろうか。
愛嬌のある笑顔も口を寄せるのも商品と言い切った彼女だから、そうでなければ説明がつかない。
では彼女が『それの反対』に込めた意味とはなんなのだろう。
表通りに出た早駆けは足取りを乱さず思考を連ねる。
商品の反対。
商品とは関係がない。
売り物ではない。
貴重なもの。
大事なもの。
口づけまでの流れと考え合わせると、早駆けの胸がもやもやしてしまうのは、大事なものだから、ということになる。
――彼女が大事、か
隊員が口にした下卑た関係ではないが、早駆けは彼女との仲をもっと深めたいと思っている。ただし深い仲へ発展させるには、互いに向き合う気持ちがなければいけないはずだ。
自分の気持ちは彼女に向いているだろうか。
向いていないわけがない。
彼女はどうなのだろう。五円のことを、商品のことを忘れられる時間を過ごしたいと言ったのだから、嫌われてはいないだろう。しかしもっと仲を深めたいとまで考えているのかどうかはわからない。
他人の気持ちなど、他人が考えて思いつくものではない。本人が心情を吐露するか、近くにいるときにみせる、ふとした言動や振る舞いの内から嗅ぎ当てるしかないのだ。
話しながらそれとなく聞き出してみるのもいいかもしれない。
いや、それは少しこすっからくはないだろうか。はっきりと聞いてみるべきだろう。だけど恥ずかしくもあるし、はっきり否定される可能性を考えると恐ろしくもある。
ならばやはり探りをいれてみるべきか。
答えの出ぬ堂々巡りのまま、早駆けは花売りと会ういつもの場所にやって来た。もう春先だというのに、寂れた路地の素っ気なさはいつだって冬を思わせる。
彼女は不在だった。
「おーい」と呼んでみるも応えはない。
呼びかけてすぐ、早駆けの脳裡に前の出来事がまざまざとよみがえる。花売りが見知らぬ男に近寄って……。軽い目まいと早まる鼓動。少し気分が悪くなった。
それでも早駆けは忍び足で狭い路地の入口に進み、陰からこっそり顔を出す。覗き見の趣味はない。彼女がいるかどうかだけでも確認しておきたかった。
糸くずのような通りには誰もいなかった。ささやき交わす声も聞こえない。建物をいくつか挟んだ大通りの喧騒がときどき風に乗って届くばかりだ。
路地の角の隅に木箱が置かれている。近くには他の木箱は見当たらない。花売りが使っているものと見ていいだろう。上にはなにも載っていない。花は商品の見本だということなので、席を外すときには持ち歩くか、どこかにしまっているのかもしれない。
もう一度誰もいないのを確認して、早駆けはいつもの場所を後にした。足は花売りの家へ向かっている。時間に縛られる郵便の役を解かれたのだから、彼女が来るまで路地で待っていてもいいのだが、彼はいますぐに彼女と話したくてたまらなかった。
あばら家はいつもの場所からそう遠くはない。花売りの先導で一度行ったきりだが、早駆けは一度も迷わず歩を進める。
早駆けは陋屋が並ぶ一画に出た。ここも戎の根城の近くにあるのと同じ貧民街だ。華やかな帝都の裏側には、こうした住居が気まぐれに生じる虫食いのように点綴している。
花売りの家に近づいた早駆けは、家の中の話し声がわずかに漏れているのに気づいた。
怒鳴る男の声と、その合間を縫うぼそぼそ声。
誰かが言い争っている。早駆けは直感した。
隊員同士が喧嘩の際に交わすような激しい応酬ではないが、剣呑さと険悪さが交ざりあっている。周りには他にもあばら家があるが、どこも外出中なのか誰も様子をうかがっている気配がない。
言い争っているのは間違いなく花売りの家だ。ぼそぼそ声が前に聞いた花売りのそれとそっくり同じなのだ。
――行くな
――行け
ふたつの相反する判断が、胸の奥で早駆けに訴える。
行けば、またこの前みたいに見たくもないものを見てしまうのではないか。だから行くなと訴えているのだろう。
しかし行かなければ、彼女が望んでいない行為を強要されるのを見過ごすことになりはしないか。この前の口を寄せていた男は花売りに無理強いしていて、それがいやだったと彼女も言っていた。ならばこの前みたいにひょっこり出ていって、中断させたほうが彼女のためになりはしないか。
「――それじゃあ商売の意味がねぇだろ!」
判断を付けかねてぐずぐずしていると、男の怒号がますます太くなった。
――無理やり何かさせられてるんだ!
行かないのは自分が見たくないからで、つまり自分の勝手である。
行くのは彼女が望まないことを打ち切らせるためで、つまり彼女のためである。
そう考えればどちらを取るかは自ずと判断がつく。
飛びこんだ家の中で、腕をつかまれている花売りの姿が真っ先に早駆けの目に飛びこんだ。
つかむ腕の元は知らない男だ。こちらに背を向けているが、この前の勤め人風の男とは別人だった。よれた服を着ており、荒っぽい人夫出しのような風体をしている。
花売りも男も目の前の相手に必死だ。すっと入ってきた早駆けには気づかないで、
「他のことができるわけないだろ! ずっとずっと花売りしか知らないお前には!」
「一緒にやっていこうって言ってるの」
「だからこれ以上苦労しろってのか。お前は俺を楽にさせなきゃいけないんだよ! お前のせいで俺はな……」
「なんでわたしが――」
男が手を振り上げる。拳が握られているのを早駆けは見た。彼があっと言う間もなく、男が腕を突き出す。張り手ならば音のひとつでも鳴るのだろうが、殴打では鈍い音さえ起こらない。
拳は花売りの頬と鼻筋の間に命中し、彼女の言葉が、「う」というくぐもりに上書きされる。その態度から加減されずに殴られたのだとわかる。少女は拘束されていないほうの手で鼻梁を覆う。
商品のやり取りをしているわけではなさそうだ。
「もう二度と馬鹿なことは言わないと約束しろ」
男が唸りながら少女を押し倒す。
このままではまた彼女がぶたれるかもしれない。
「やめろ!」
早駆けは叫びながら男の背に体当たりをかます。花売りを助けたい一心で自然と身体が動いていた。もっとも家に飛びこんだときから、彼はずっと彼女の身の安危を行動と思考の基準にしている。彼がそれを意識できていないだけで。
姿勢を崩した男が少女の横に倒れこむ。
なにが起こったのか。少女は驚きを浮かべていたが、やがて入ってきたのが誰か知って、さらに驚いた目顔を浮かべる。殴られたせいだろう、鼻血が唇のへりを縁どって細い筋を成していた。身体も大きく震えている。
早駆けは無言でうなずいて彼女の手を取る。男の手はほどかれていた。
「行こう!」
いましかない!
そんな少年の呼びかけに少女は首を震わせる。今度は少年が驚く番だった。
なんで。
そう聞き返す間もなく、少年は頬に強烈な熱さを感じていた。次の瞬間には床代わりの茣蓙の上にうつぶせに倒れこんで、ひりつく強烈な痛みを頬に覚えていた。
振り向いた男は、薄暗い室内でもわかるほどの赤い顔をしていて、浅黒い肌の印象が顔だけでかき消されるほどだ。
早駆けの鼻先をむっと酒臭さがかすめた。男の足元には酒瓶が転がっている。早駆けの見覚えのある銘は〈呑五郎〉。日ノ出がいつも口にしているものだ。ともかく酔えればいいという筋の人が愛飲している安酒だ。
男は酒瓶を早駆けの肩に叩きつけた。瓶は割れなかったが、浮き出た鎖骨に硬く鈍い痛みが走る。
「てめぇ、人ん家に入ってきて何様のつもりだ?」
言いながら再び瓶を振り上げる男の前に少女が躍り出る。
「やめてパパ!」
人ん家。
パパ。
たった二つの応酬で早駆けは混乱に陥った。しかし彼がどれほど混乱しても、目の前の事態は止まらずつづく。
「なんでてめぇがかばう! くそ汚ねぇ乞食だろうが!」
パパと呼ばれた男は、怒気そのままに花売りを横に突き飛ばす。勢いのままに倒れこんだ花売りの腰に男はさらに蹴りを入れた。
「やめて! やめてよっ! パパの大事な商品なんでしょわたし!」
悲痛な叫びとは裏腹に、少女は笑顔――あの媚びを売るような顔だ――を浮かべて男を見上げていた。
「その顔を俺に向けるな! 出てったあいつみてぇでいらいらすんだよ! とっととその汚いのを追い出せ! 知らん間に色気づきやがって!」
「あんな仕事だれだって色気づくわよ! だいたいあんただってその色気に――」
「だまれ!」
言葉を途絶えさせる強烈な拳が二発、花売りの腹部に入る。
「じゃ、じゃあ……ちょっと出てってよ」
お腹を抑えながら、ひるまずに言う少女の顔は苦痛に染められていた。しかしなお、表情には苦悶を押しのけてにじみ出る媚びが張り付いている。彼女はそれを花売りをしていて最初に覚える顔だと言っていた。染みついたものはどうあっても離れないのだろう。
一方で早駆けは確かに見ていた。少女の身体が震えているのを。身のうちに沸き立つ慟哭を抑えきれないのだろう。声を上げぬよう必死に抑えているのだ。
男ははたと拳を止めて酒瓶を壁に放り捨てる。
いや力づくで投げつけた。砕け散る瓶のつんざきに少年少女は目を閉じて身を竦める。殴る。切る。瓶はすぐ凶器になる。その痛みを一再ならず知っているからこそ、二人はびくついて縮こまってしまった。




