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この胸の(2)

「俺だってあんなの見たくなかったよ。あんたが……、さ」

 先に沈黙を割ったのは、気まずさに耐えかねた早駆けだった。

 彼自身、自分から口を開いたのに驚いていた。混乱からはなにひとつ生じなかった言葉だが、数日前から胸の奥に渦巻いている勢いに身を任せてしまえば、ぞんがい素直に引き出されてきた。

「花が見本だっていうけど、あんなふうに口を寄せるのが商品なのか」

 しばらくの間をおいて、少女がうなずいた。

 早駆けはぐっと奥歯を噛みしめる。胸の奥が痛む。女が男に口を寄せる。その意味ぐらいは知っている。男をすぐにでも殴ってやりたくなった。彼女も彼女だ。

 しかしふと、早駆けは自身もすでにそれを体験しているのを思い出す。五円で花を買う建前にした早駆けに花売りが言っていたこと。


『注文を入れただけじゃない』


『花売りの本当の意味、知りたい?』


「あんときの注文ってのは……」

「早駆けが意味を知ってると思ってたから」

「んなわけないだろ」

 狭い場所へ引きこまれ、耳元が吐息に触れ、ささやかれ、肌を優しく撫でられた。思い出すと胸から下がむずむずする。躊躇(ちゅうちょ)と期待が入り混じる熱気が、もやもやした胸の勢いと邂逅して大きなうねりとなって締め付ける。

 どれも頭の領野ではなかった。

 男に口を寄せる花売りの姿を思い返すと、得も言われぬ衝動が湧いてくる。

 ほんの数年前にも、彼はこのような衝動をいだいていた。

 貧民窟の孤児院にいたころ、顔を出すたびにお菓子や玩具を持って来てくれる、笑窪(えくぼ)が似合う年上の女性(ひと)がいた。院で育った先輩にあたる人だという。彼女が手土産を持って顔を出すのは、自身を育ててくれた孤児院への恩返しだったのだろう。

 お菓子や玩具は子供たちに平等に配られた。頑是(がんぜ)ない子供たちの間でときどき取り合いが発生したが、少年は同じ年頃の友人とともにそうした争いには加わらなかった。自分たちの境遇からすれば、なにか贈り物そのものがすでにありがたいことだと分かっていたからだ。

 そんな物わかりのよい彼にも得心がいかないものがあった。あの女性の笑窪だ。あれが他の子に向けられて浮かぶのを見るたび、悔しくなったり、取り合いに負けた気になったりして、ひどく胸が締め付けられた。悔しかった。

 贈り物なんかいらない。叶うならばあの笑窪を自分だけに向けてほしい。その思いを胸に仕舞いこんだまま数年。二度とあの女性とは会えない。少年を取り巻く環境が大きく変わったからだ。愚連隊の日々の中で、仕舞いこんだことさえいまのいままで忘れてしまうほどに。

 あの女性の笑窪と、花売りの行動が重なり合う。二人の顔は似ても似つかない。しかしその特徴ある魅力を、他の人に向けてほしくないという早駆けの衝動は共通している。

 衝動をなんと呼ぶのか。早駆けは当てはめるべき適切な語をまだ知らぬ。しかし胸から下腹にかけて、それは確かに存在していた。じれったさと温かさが噛みあって生じる締め付けが苦しい。どうすれば身を任せられるだろうか。解消できるだろうか。

「じゃあ、さ――」

 ――五円で花を買った俺だって、同じことを

 あわや口から出かかる。が、早駆けは辛うじて残っていた理性で衝動に歯止めをかけ、すんでのところで言葉を呑んだ。

『人は理性的であれ。衝動に身を任せてはいけない』

 孤児院ではそう教えられていた。たとえ歯止めをかけて苦しみが増すのだとしても、理性的に乗り越えられる方法を考えなければならない。衝動や情動だけで動くのは(けだもの)だ。(けだもの)(けもの)にも劣る()した存在だから、「だ」を付して呼び分けるのだという。

 そいつらは自然ではなく、人の世に大勢巣食っている。少年にとってもっとも身近なのは底抜けや他の隊員だ。勢いとその場の反応で動く彼らの浅ましさは、すぐに考えこんでしまう早駆けとは相容れない。

 ――だけど、くそ!

 ときに彼らの獣性は、自然の獣そのものの驚くべき行動力を発する。単純さがもたらす力は明快で強い。早駆けは何度も度肝を抜かれた経験がある。

 もしも彼らのように振る舞えたら。

 潔く欲求を捨てきれるほど、少年は達観してもいない。男がされていたように――それはかつての自分が、年上の女性に望んでいたことでもある――花売りに笑顔を向けてもらいたいと望んでいる。

『また、お願いしますね』

 そう言って浮かべた少女の人懐っこい愛嬌を。

 ――いや、違うぞ

 あくまで理性に(くみ)しようと努めた彼は、自分が求めているものを見つめ直す。

 ――俺が欲しいのはあんな笑い方じゃない

「じゃあ、さ――誰にでもへつらうような顔も商品なんだな」

「うん」少女はあっさり返答したあと間をおいて、「……へつらい、か。その通りだね。だから見られたくなかったのかも。ううん、それも変な言い草だ。わたしだって、あの顔を何度も早駆けに向けていたんだから」

「俺も最初は客みたいなもんだったしな。だけどそうじゃない顔も……あった」

 自然な彼女の笑顔は男には向けられていなかった。早駆けは彼女が自然に浮かべる笑顔を知っている。花を贈ったときに見せた、慈しむようなほほ笑み。あれこそ早駆けが自分だけに向けてもらいたいと欲するものだ。

「やっぱり早駆けは優しいね」

 きょとんとしていた少女が、やがて肩を小さく揺すりだす。

 ぞんがいに早く、早駆けは求めていたものを見られた。しかし素直に喜ぶのも彼女の手前とても恥ずかしく、赤くなった頬をかいてごまかす。

「習い性っていったらいいのかな。……わかる?」

 花売りの問いに早駆けは、「くせみたいなもんだろ」と応じる。彼女はうなずいて視線を落とし、真面目な顔つきになってつづける。

「わたしが知ってる他の子もそうなんだけど、花売りをしているとね、まず覚えるのがあの笑い方なの。ぶすっとしているとお客さんは商品を買ってくれないし、お仕事の最中はなんでも笑って受け入れないと、不機嫌になってひどいことをする人が多いから。泣いているのが好きな変わった人もいるけど、それだって不満そうに泣いていてはだめで……」

 訥々(とつとつ)と語る少女の言葉に、少年は黙って耳を傾けていた。ひどいこと、の内容も聞けぬままに。

 でも、聞くまでもない。それは彼らの世界ではあまりに当たり前でありふれている。路地裏の子供で、顔に青あざをつけられなかった者は一人もいない。愚連隊でも、花売りでも、乞食でも、煙突掃除でも、ゴミ拾いでも、親の手伝いでも、どこにいたって数えきれないほどのひどい目に出くわす。

「あんなふうに笑っているとね、お客さんはそれを『愛嬌がある』って喜んでくれるの。でもね、あんな顔をしている間のわたしは喜んでなんかいない。そこは勘違いしてほしくない」

 少女は身体をかきいだいて身を震わせる。悚懼(しょうく)したようでもあるし、吹きこんだ風の寒さに身震いしたようでもある。

「変だよね、こっちの心は喜んでいないっていうのに、その笑顔を見たお客さんは喜んでくれるんだから。そういえばどこかの子が言っていたっけ、笑顔は女のいっとう大事な化粧だって。だけど、笑顔がどんなに綺麗になれる化粧だとしても――」

 少女がつと顔をあげる。目があって、早駆けははっと息をのむ。彼女の目にはとても強い力が宿っていた。力といっても獣性に由来するものではない。ぶら下げられた肉に我先にと飛びつかぬ心性、誇りある理知を秘めた瞳だった。

「『喜んでいない笑顔』は、もう早駆けには見せたくない……かな」

 早駆けはその大意をよく汲んだ。胸の締め付けがすっと失せ、変わって顔中がかっと熱くなる。ごまかせないほどの赤みが頬に差す。顔を背けたい。いやこのまま見つめてもいたい。背反する思いを抱えたまま、彼は花売りと視線をじっとりと交わし合う。

 射とめられた早駆けであったが、それでも頭を必死で回す。

「ひとつ聞かせてくれ」

「いっぱい聞きたいことがあるんじゃない?」

「ひとつでいいよ」

「本当に?」

「……じゃあふたつ」

「いいよ、ひとつ目は?」

「笑顔のことはわかった。じゃあさ、口を寄せるってのはどうなんだ。やっぱり好きでしてるんじゃないのか?」

「さっきも言ったけど、あれは商品だから」

 相手を見つめたまま花売りが言う。解ってほしい、わたしは望んでいない、というふうに。

 早駆けはしっかりとうなずき返した。彼女も本意でないのだ。それさえわかれば十分だった。深く追及する気はない。

 本人が望んでいなくとも、やらなければならないことというのは無数にある。早駆けだって犯罪に手を染めたくはない。孤児院ではそうした行為は悪と教えられていたし、彼の理性はいまもその教えを遵守しろと訴えている。しかし現実が理性を糊塗してしまう。

 もう孤児院の子供ではない。愚連隊の隊員である以上、理性の訴えは跳ね除けなければやってはいけないし、良心にのっとることも不可能だ。彼は独力で生きていく(すべ)を知らない。そもそも組織を出る道筋さえ描けない。よしんば抜けたところで彼を待っているのは飢え死にだ。死因はそうであっても、組織を出るという行為は自らを殺すに等しい。自殺もまた、孤児院ではよくないものと教えられていた。人は生をまっとうしなければならないと。

 犯罪と自殺。現実と理性。(いまし)めの律が少年を縛る。

 彼は生きる道を選んだ。生きていくには仕方がない。他に方法がない。生存に舵をきり、良心に麻酔を打ちながら愚連隊に身を置いている。そこまでに選択の余地はなかった。

 花売りもきっと、選択に余地のない境遇に身を置いているに違いない。

「……ふたつ目は?」

「ハナコって聞こえたけど、名前を教えるのも商品なのか?」

 少年はまだ少女の名を明かされていない。もっと仲が深まったらと散々にじらされている。なのにあんな客が名を知っているとあっては面白くない。

「似たようなものかな」

 花売りは早駆けの嫉妬を看取して微苦笑を浮かべる。

「お客さんはみんな好き好きにわたしの名前を呼んでいく。あの人たちの中にそれぞれの理想化されたわたしがいるんだと思う。名前はその表象のひとつ。お客さんが喜ぶように振る舞い、理想の名前を与えられるのは、商品としてのわたしの在り方なんだろうね」

「んー?」

 早駆けは首をかしげる。すらすら答えた花売りがなにを言っているのか、いまひとつわからない。わからないなりに、彼はその意をかいつまんで、

「客が好き勝手に呼んでるってことか?」

「ま、そういうこと」

「そういうことなら難しく言わなくてもいいだろ」

「そう言う言い換えが上手くできないの。それに、早駆けならわかってくれると思っているから」

 臆面もなく言われ早駆けは、「む」とうなる。もはや顔が赤くなる隙間もないほどだ。

「わたしからもひとつ」切りかえす花売りに早駆けは無言で先を促す。

「いまね、五円分が尽きたかもしれない」

「そっか」

 短い返事に大きな落胆。

 あなたとの時間がここでおしまい。心地よい夢から無理やり覚まされるような言葉だった。覚めた後の現実に楽しい出来事などひとつもない。

「俺も五円であんたを買ったんだったな」

 しょせん自分も商品を手にしていた一人にすぎないのだ。金を支払われれば、彼女はそのすべてを商品にしてしまえるのだろう。

「そう、最初はね。……だけど早駆けはさ、それがなくても、会いに来てくれる?」

「どういうことだ?」

「いまのはわたし、難しく言ってないつもりなんだけどな」少女がふふ、と笑う。「あの五円がなくなっても、あんな仕事をしているとわかったあとでも、早駆けはこれまでみたく会いに来てくれるのかな、って」

 早駆けは一も二もなく何度も大きくうなずく。

「会いに行くよ。いままでも実際にそうだったしな。五円のことなんて忘れたぐらいだ」

「忘れてたんじゃん」

「……忘れたわけじゃない。忘れるほどだったってだけだ。大体そんなことどっちでもいいだろ」

「うん、どっちでもいいね。だけど早駆けが五円のことを忘れられるほどいい時間を過ごせたっていうのなら、とても嬉しいよ」

 そう言った少女の笑顔は混じりけのないもので、早駆けにとっては(まぶ)しいほどだった。

「これからもそういう時間を過ごしていきたいね」

「俺もだよ。毎日でも会いたいぐらいだ。会えない日はなんか胸がもやもやしてどうしようもないぐらいでさ、なんなんだろうな、あの息苦しい感じは」

 五円のやり取りを介さず出会う間柄。それはつまり花売りの商売とは関係のない、私的な交際へ発展したということだ。

 ただし早駆けはこの点を深くはとらえなかった。直感的に彼女との仲が深まったと手放しで喜んでいる。そこをこそ彼は理性でとらえるべきであったのだが。

「少し目をつむって早駆け」

 少女の言われた通りにした直後、額に柔らかいものが押し当てられた。

「……ちょ、な――」

 最初に会ったときにも同じことをされた。その感触と行為に驚き、早駆けはすぐに目を開けた。彼女はもう離れている。

「それの反対、かな」

 くすくす笑う花売りの大輪が目覚ましい。

 早駆けはどぎまぎするあまり、その意と彼女の名を聞きそびれた。

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