逃亡
都市の谷間を少年が駆け抜ける。
その後ろ姿めがけて、「待たねえか!」と怒声をあげて追いかけるのは二人の男。
「俺はなにもとっちゃいない!」
吠えるように叫ぶ少年に、男たちは、「なら止まれ!」と呼びかける。
少年は無言でこたえ、速力をあげようとした。すでに息は荒い。思ったほどに速さがあがらない。
身をきる風はひどく冷たかった。ぼろをまとっている身なれば、なおさら冬の空気は肌にしみよう。突き刺すような寒さはもはや痛みと変わりない。
足の裏もずきずきと痛む。路面の固いでこぼこが少年のか細い足を刺激するのみならず、割れた瓶やガラス片、壊れた木箱のささくれなどが、彼を傷つけようとたえず狙っている。薄っぺらな靴底などあって無きがごとしだ。
他方、後ろの男たちは厚手の服を着こみ、寒さなぞなんのその。分厚い靴を履いて、路地の荊棘をものともしない。運動選手さながらに手足をよく振って走っている。貧相な身体つきの少年とは異なり、着こんだ服の下の身体はよく引き締まっているに違いない。
単純な速さでいえば少年が勝っている。しかし装備の違いがその差を縮めていた。くわえて少年は路地の分岐や交叉に出くわすたびに、どちらへ進もうかと二の足を踏み、そのつど速度を落としてしまっている。彼は周辺の道をまだおぼろにしか記憶していなかった。幸いこれまで自ら行き止まりに飛びこむような目には陥っていない。が、錯綜する路地裏をうろ覚えのままに進んでいれば、いずれ袋のネズミとなるだろう。そうでなくても、腹の減った身ではいつまでも走りつづけられない。
当の腹だけは悠長なもので、逃げるさなかでも、ぐう、と鳴る。
逃げる者と追う者。差がおもむろに詰まっていく。
このままでは追いつかれてしまう。そんなことは逃げる少年がもっともよく理解している。男たちの声は先ほどよりずっと近い。
ほどなく前方に五叉路が現れた。どこへ進むか。
――行き止まりにだけは当たりたくないな……
迷っているうちにも男たちが迫り来る。
少年は手近な路地へ飛びこむ。
男たちもためらいなく同じ路地に入りこんだ。
曲がった路地の脇に誰かが座りこんでいた。
二人組の男はにたりと笑みを浮かべ、座りこむ者を取り囲む。
「いまさら諦めてももう遅いぞ。ただですむと思うなよ、汚いスリめ」
「さあ立て、お前がどこの誰なのか、仲間を吐いてもらうぞ」
苛立ちを隠しもしない男たち。しかし、
「お客さんですか?」
と応えたのは可憐な声だった。先まで男たちが聞いていた息があがった喘ぎ混じりの声ではない。ずっとそこに座っていなければ出せないような落ち着いた声だ。
「おふたり――」
少女は男を交互に見やった。自分を囲む威圧的な大人二人を前に、物怖じしたふうでもない。かえって男たちのほうが面食らった様子でぽかんとしていた。
「おふたりともですか? どれをお求めでしょう」
少女が木箱の上に置かれた品々を示す。男の一人は、はっとなにかに勘付いて、
「買いたいのは山々なんだが、残念ながらいまは仕事中の身でね……」
控えめに首を振ってあいまいな笑みを浮かべた。柔らかな物腰だ。横柄な調子はどこかへと消えてしまっている。もう一人は、「せめて休みの日にしろ」と苦々しげに言う。
「仕事中でも買って行く人はたくさんいますよ」
控えめにほほ笑む少女に、柔らかな態度の男が鼻の下を伸ばす。そうして上から下へとなぶるような視線で少女を品定め。
「それが簡単にできないのが俺たちの辛いところでね」
「それよりもさっき、薄汚い浮浪児がこの路地に入ってきたはずだが?」
見かねた相方が口を挟むと少女は手を叩いて、
「まぁ、小ぎれいな浮浪児がいれば見てみたい」
「話の腰を折るな! 見たかどうか聞いていんだ」
「知らないわ、お客さんじゃない人なんて」
さして関心もなさげに答える。その口ぶりには、あなたたちもお客さんじゃないならどうだっていい、という調子が含まれていた。
「仕事が上手くいけば買いに来るからさ、どうか教えてくれないかい――」
「どこへ行ったと聞いている! お前もしょっ引かれたいのか!」
なだめすかすように言う男を遮り、相方は威丈高に語気を荒げた。
「ちょ、ちょっと先輩……」
鼻の下を伸ばしていた男がとりなそうとするも、先輩と呼ばれた相方の男は足を大きく振って、商品の乗った小さな木箱を蹴り飛ばした。空の木箱がけたたましい音をたてて勢いよくひっくりかえる。その音に混じって、ひっ、と少女の小さな悲鳴が漏れ聞こえる。
「あっちの角を――」少女は路上に散った商品を見つめながら、路地のかなたの三叉路を指さす。「右のほうに逃げてった気がする」
「最初からそう言えばいいんだよ」
男は吐き捨ててかなたを見た。三叉路を右に曲った突き当りは大通りだ。人ごみに紛れられてしまうと後を追う手だてはない。スリごときを取り逃がしてしまうとは。こんなところで時間を食わなければ追いつけていたかもしれないのに。こみ上げてくる怒りを抑えきれなくなった男は、散らばった商品を憎々しげに踏みにじる。
「あ」と、少女が呻きとも吐息ともつかぬものを漏らす。それで少しは溜飲を下げたか、男はふんと鼻息を噴いた。
「花売り風情が生意気な口を聞きやがって」
感謝のかけらも向けずに示されたほうへ向かっていく。もう一人の男は呆気にとられていたが、「なにしてる、くだらんことでだいぶ時間を食ったぞ!」と怒鳴られ、すぐに先輩の後を追って消える。
あとに残されたのは散らされた商品と少女と――
少女はため息をついて、転がった木箱を引っ張ってきてもとの位置に据えつけた。
そうしてどこを見るともなくつぶやく。
「ね? 箱の中になんか隠れなくてよかったでしょう」
彼女が座っていた狭い街路――輪奐の隙間といったほうが近しい――のさらにその奥から少年がゆっくりと顔を出す。
「もう行ったよ。嘘なんかついてないから」
「……べ、別にそういうわけじゃねえけどよ」
「なら、さっと出てきたら?」
本当に男たちは去ったのか。少年はまだ警戒を解いていないようで、路地を左見右見す。
「やっぱりあなたを売ろうかな」
少女は相手の考えを推測して口にだす。途端に少年はびくっと肩を震わせた。図星を指されたのが丸分かりだった。そんな少年の態度がおかしくて、少女は肩を揺する。
「――なんてふうに考えているんじゃないか、って思った?」
「ち、違う!」
「ならもっと堂々とこっちに来たらいいのに。人の本性は口よりも身体に出るんだって知ってる?」
おそらく年齢がそう変わらないだろう少女にこうまで言われてしまっては、彼とてなけなしの自尊心を奮わせなくてはならない。おずおずと姿を現して少女の隣に立つ。それでもなお、居心地が悪そうな顔つきでいる。
「そりゃ、最初はあんたが連中と親しげに話してるのを見て怪しんださ……」
「なんだそんなこと」
言い訳めいた調子でぶつくさつぶやく少年の言を、少女はにべなく切り捨てる。
「真面目なとこに勤めている下っ端なんて誰もあんなものだよ。こっちがこんな商売だとわかればさ、下手に出て優しいところを見せたがる」
断定的な口ぶりに、少年はいまひとつ理解しかねると隣をうかがう。少女は路面をじっと見つめていた。つられて彼も視線を追う。
そこには廃水だか炭殻だか、都市の廃棄物をこすりつけたような、濃い暗褐色の塊が広がっている。その中にわずかながら彩りの残滓が見て取れた。おそらくは赤や紫、白に黄、だったのだろう。どの色も暗褐色の塊にまみれてひどくくすんで汚い。情熱の赤も、高貴の紫も、純潔の白も、活発の黄も、すっかりくたびれてしまっている。
「でも、下手に出ても相手が思う通りにならないとわかればすぐに手を出す。花なんてどこにでも売っているから、言うことを聞かなければいつでもこんなふうにできるんだって、そんな肚の底が口よりも体で出てしまう」
その言葉で、少年はくすんだ色に混じるものの正体が、花であるとようやくわかった。少女の目前でこれ見よがしに踏みにじられた花々は、それほどまでに原型をとどめていなかった。踏まれた際に、男の靴に付着していた泥や汚水にまぶされてしまったのだろう、ただただ醜くいびつな姿をさらしている。蕊や茎はおろか、もっとも特徴的な花弁すらどこなのか見当がつからない。
その様はいかにもこの――仰々(ぎょうぎょう)しく〈蒸気都市〉などと呼ばれる――繁栄する都市の裏面で生きる、彼や彼女のような這う者の末路を物語っているかのようで。
この街に求められているのは燃料と食料と鋼鉄、そして労働力だ。花ではない。たとえいっとき花が求められるとしても、それはわずかな手慰みのために手折られたものとなる。翌日には萎れ、捨てられる。誰も見向きはしない。また欲しくなれば、新たな花を求めて手折ればよい。
――この子も俺もそんな花なのかもしれない
踏みにじられた花に自分と少女の姿を重ね合わせていた少年だが、やがて、いや、と否定する。
たとえいっときであっても、花ならば人の目を楽しませられるし、記憶にもとどまろう。しかし彼らはどうだ。そもそも人の目にはつかないのだし、なにか目についたとしても汚いものとして記憶に残そうとはしない。雑草と同じだ。歯牙にもかけられず踏みにじられる。それでも逞しゅう生長せんとすれば、(たとえば先ほどまでの彼のように)引き抜かれそうになる。往来にあって人目につけば、焼き払われて後にも残らない。もっともそれは彼だけに限らない。都市の下層民はみなそのようなものだ。
――陰に入ったら入ったで、大木の下生えになろうと陣地取りをしてやがる
しばし沈思していた少年だが、あまりにも無音の時間が長いのでふと隣を見る。そうして、自分を見つめていた少女をばっちり目が合った。花の残滓をじっと見つめていた視線が少年に注がれている。
少女の瞳は左右で少し大きさが違っていた。右のまぶたがやや厚ぼったく腫れていて眇められている。
――殴られた痕だ
それもよほど手ひどくやられたに違いない。少年は経験に照らしてすぐにそうと見抜く。しかし彼は眇目について聞こうとはしなかった。無関係の相手だ。込み入った事情は聞かないに限る。そんな習性が身についていた。
「それにしても警官に追われるなんて、いったいなにをしたの?」
沈黙を破ったのは少女だった。彼女も少年がどこを見ていたかは気づいているだろう。しかしそれには触れない。
「なんであいつらが警察だって?」
少年の驚きはすぐ顔に出る。
「しょっ引くなんて言葉を使っていたから、かな」
「そんなこと言ってたか」
「ぇえ」と少女は間の抜けたような返事をした。
「俺が警察に追われてるって知ってて助けてくれたのか」
「順番が違う。あなたをかくまった時はまだ相手が警察だなんて知らなかったのだから」
やり込めるような言いぐさが気になって、少年は眉根を寄せた。しかし相手は事実を指摘しているにすぎず、そういった意図は有していない。口調こそぞんざいであるが、路地裏では不断使いで通じるものだ。特に事情があるでもないのに丁寧に話す者がいれば、そちらのほうがよほど奇異の目を向けられる。たとえば少女が「それは順番が違っています」など慇懃に言おうものなら、それこそ少年はこけにされたと感じたに違いない。彼としては、あなた、という呼びかけでさえ丁寧だと感じるほどである。
逃げている事情を隠している彼が、相手の言動に過敏になっているのが実態だ。
「だけど突きだすこともできただろ」
ぞんざいなのは少年も同じ。ついついこういった聞き方となってしまうのは、それが彼らの地だからだ。
「俺が何者か知ってればなおさらそうしたんじゃないか?」
もったいぶった口調は、いっそ打ち明けて楽になりたいという思いと、悪ぶりたいので深長に振る舞おうとの心情がない交ぜになった結果だ。こうした人間は長く隠し事ができる質ではない。進んで秘密を明かしはないものの、根掘り葉掘りに質問を受けると、本人にその気はなくともずるずると漏らしてしまうのだ。尋問で狙い撃ちにしたい相手である。
「なにそれ?」少女が鼻で笑う。「一度かくまった相手を突き出したりなんかしたら、こっちまで具合の悪い扱いを受けてしまうじゃない」
「俺をかくまってくれた時点で、最初から隠し通す気でいてくれたってことだな。ありがたいよ」
「……どういたしまして、というのも変な話なんだけど?」
「じゃあさ、そもそもなんで俺を隠してくれたんだ」
「はぁ、質問ばっかり」
ため息をついた少女は木箱の脇に腰を下ろして、少年ににやりと笑いかける。人懐っこさを感じさせる愛嬌のある笑いだった。右の犬歯の上側が抜けていて、そこから赤いものがはみ出ている。内側から舌を押し当てているのだ。少年と同じくけして身綺麗な形はしていない。しかしむすっとしている少年と比べれば、愛嬌があるぶんいくらも上等に見える。
「そもそも、なんて言うならさ、そもそもあなたはなんで追われていたの」
直球に問われ、少年の中に話したい欲求が芽生えた。愛嬌のある笑いに惹きつけられた、というのもある。少年はほころばせかけた顔のまま、
「そ、そこまで言えるかよ」
「路地裏を逃げる身なんだから、話したくないなら別にいいけど」
よほど親しくならなければ相手の事情に立ち入って聞きはしない。下層民の暗黙の了解だ。自分をかかえるだけで精一杯なのだから、厄介を運んでくるかもしれない他人の事情を好んで聞き出そうとする愚か者はいない。ただし人の弱みに付けこめそうであったり、他人の醜聞であったりするならば話は変わってくるが。
「だろ? 互いにここで別れるのが身のためだ――」
「こっちも路地裏で花を売る身、きっと事情なんて似たり寄ったりだろうからね。愚連隊のスリさん?」
別れを切り出そうとする少年の言葉を遮って、少女が口を開く。
「な、なんでそれを?」
ひどく上ずった声で思わず聞き返す少年。自分は確かに愚連隊でスリをしていると、あからさまに正解を告げてしまっていたが、それに気づかないほどに彼はびっくりしていた。隠そうとしていた事情をあっさり少女に見抜かれていたのだから無理もない。
「さぁ、なんででしょう」
今度こそ少女の口調はやり込めるものに変わっていた。挑発的といってもよい。笑い方も相まって、男を誘惑しているようでもある。見事に誘いこまれ、少年に芽生えた話したい欲求がより強く疼いた。一方頭の片隅では、必死に〝ばれた〟原因を考えていた。といっても思い当たる節は一つしかない。
「それもあいつらが言ってたからか……」
「推し当ててみた。だけど聞かせてほしいな、あなたの話を」
とだけ言って、それ以上は追及しなかった。少年が話したいならそれを聞くし、いやなら話さなくてもいい。そんな姿勢だ。
――別に隠しておくことでもないのかな
どうせばれているのなら、という点が少年を後押しした。はぐらかす時期はとうに過ぎている。隠そうとしていたことを暴かれたのだ。意固地になって隠そうとすればするほど付けこませる羽目になる。ここは話せる部分だけ正直に話してしまい、弱みでもなんでもないと示してしまう方が得策だ。そう考えて少年は口を開く。
「俺は――」