声なき騎士
──D.S.歌姫──
西の塔からもその夜の月の美しさはよく見えた。
藍色の空の中に白く輝く月。それを見上げる姫の横顔は白く、夜の中に冴えた。
藍色の夜空に、夕暮れに会った少年を思い出す。
「琴の君……琴の騎士」
藍色の目をした鈍色の鎧を纏う琴持ちの少年。よく似た人物を、姫は知っていた。姿を見たことはない。けれど、その琴の音はよく聴いていた。──この塔に入る以前の話だ。
「いいえ。彼が生きているはずがありません」
彼の──琴の騎士と呼ばれていた彼の琴の音を最後に聴いたのは、もう計り知れないほど昔の話なのだ。
姫は遠い日の記憶を辿る。あの琴の音を聴いたのは、まだ自分の歌声に呪いなど影も見当たらなかった頃──
今もまだ、ありありと思い出せる。城の中の灰色の壁。けれど、外からの音を隔てることはなく、歩いているとよく、外にいる兵士たちの声が聞こえた。
風が森の匂いを運んでくる、そんな一番外に近い廊下を歩いていると、壁の向こうから、琴の音が聞こえた。昼下がりにろーん、という特徴的なもの悲しい音色が、国の歌を紡いでいた。"夕べに明日明くる"や国歌、どれも姫の好きな歌ばかりで、姫はその音が聞こえてくるたび、足を止めていた。
壁に寄りかかり、耳を澄まして聞いていると、他の兵士がやってくる。
「なんだ、琴の騎士。また琴弾きなんてやっていたのか」
「まったく、俺たちは訓練で忙しいってのに、呑気なもんだよな」
兵たちの声には侮蔑の色が濃く滲んでいた。姫はお気に入りの音色を貶されているような気がして、よく兵に皮肉を送ったものだ。
「あら兵士さま、訓練でお忙しいとは、大変でございますね。他に人より秀でた才でもあれば、そんなご苦労、なさらずに済みますのに」
「ひ、姫君!」
姫の言葉に畏れるような兵の声が返ってくる。姫は心中でしてやったり、と思いながら続けた。
「兵士さま、琴は弾けますの?」
「い、いえ! 自分は恥ずかしながら、楽の才はないと言われまして……」
「じ、自分もでありますっ」
緊張した声で答えた兵士に込み上げてくる笑いをこらえながら、静かにそうですか、と返す。失礼なことを窺いました、と謝ると、あたふたと兵が謝り、去っていく。
琴の騎士は何も言わず、再び琴を弾いていた。礼の一つも、と思ったが、きらびやかな琴の音に、姫はそんなことはどうでもよくなった。
琴の騎士は寡黙な人なのだと姫は思っていた。兵に琴ばかり弾いて、とからかわれても、何も返さない。ただ、琴を爪弾く手を止め、黙って聞いているだけ。信じがたいほど寛容な人なのだと解釈していた。
まさか、声が出ないなんて思いもしなかった。
姫がその事実を知ったのは、あるとき兵士がいつものように投げつけた軽蔑の一言でだった。
「なんで琴なんか弾いてんだ? 歌う声もないくせに」
歌う声がない? ──姫にとっては衝撃的な事実だった。故に思わず、兵に問い返した。
「歌う声がない、とはどういうことですか?」
姫が壁の向こうにいることに驚く兵士。姫が答えを促すと、すぐに説明した。
「この琴を弾く騎士は、生まれてより一度も声を発したことがないのだとか。病か呪いかもわかりませんが、声を出さないのではなく、出せないのだと聞いております。故にこやつは人と"異なるもの"という意を込め、"異の騎士"と呼ばれているのです」
兵は聞いていないことまで丁寧に話す。それらの情報は姫に困惑と納得をもたらした。声が出ないなんて、何故? と、ああ、声が出せないからなのね、と。
姫が何と声をかけたらよいか迷っていると、短くろん、と琴の音がした。直後、向こう側にいた兵士が「琴の騎士!?」と慌てたように声を上げる。走り去る足音がした。
「こ、との……騎士?」
姫のか細い問いかけに、答える声はなかった。
その後、すぐに姫が取った行動といえば、王族としてはあり得ないものだった。数多の見張りの目をかいくぐり、城の外に一人で出ようとしたのだ。
当然、最後には止められた。門番の兵士に。
「姫様、一人でここから外に出ることはなりません」
至極まっとうな意見だったが、姫は全く聞く耳を持たない。姫は必死だったのだ。あの琴の音を聴きたいと、琴の騎士に会いたいと。
「なら貴方がついてきてください、門番さん。私は琴の騎士を探しているのです」
「コトの騎士、ですと?」
門番の眉がぴくりと跳ねる。姫は奇妙に思い、訊ねた。
「どうかしましたか?」
「いや……そのような者がいたか、と。何分、門番と騎士は交流がございませぬゆえ」
「そうなのですか」
このやりとりで少し頭の冷えた姫は、思案を巡らせた。
「では、外には出ません。その代わり、"琴の騎士"という人物について、調べておいてくださいませんか? 明日、またここに来ます」
「かしこまりました」
それから門番は毎日少しずつ、琴の騎士について調べてくれた。琴の騎士は姫と同じくらいの年頃で、両親は既に亡い。城の兵士だった彼の父親と仲の良かった楽師が彼を引き取ったのだという。声が出ないのも本当のようで、育てた楽師すら声を聞いたことはないのだとか。
一応、騎士としての訓練も受けているようだが、口が聞けないという特殊な事情と育ての親の楽師ですら目をみはるほどの琴の才を持っていたため、彼は一日のほとんどを琴弾きに費やしているのだという。
「わたくし、一度姿を見たのですが、普通の少年でしたよ。ただ、騎士らしい鎧は身につけているのに、武器を一切持っていないのが奇妙でしたが」
「そうですか。ありがとうございます」
琴の騎士を探そうと立ち去りかける姫に、門番は「もう一つ」と声をかけた。
「琴の騎士殿は、夕暮れに流れる"夕べに明日明くる"の伴奏をしておいでのようですよ」
「本当ですか?」
それは嬉しい報告だった。"夕べに明日明くる"は姫の一番好きな歌だ。そしてそれは数日後から、姫が毎夕歌うことになる曲だった。