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小さな宝飾品をルーペでのぞく男が一人。真剣な面立ちで細められた青い瞳は、一つの汚点も許さないとばかりに金とルビーでつくられたブローチとにらみ合っている。彼は時折頷いたり、少し唸ったりしながらあらゆる角度からブローチを眺めた。手のひらに乗せてみたり、親指と人差し指で摘んですこし日に当ててみたり。思う存分ブローチを眺め尽くした後に、男は丁寧にそれを小さな箱の中に仕舞った。うん、と満足そうに頷く。
「とても良いよ。流石だね」
にこり、と春の日のように穏やかな笑みを男から向けられて、男の側で男の動向を見守っていた少女がほっとしたように息をついた。少女は長く伸ばされた黒髪は後ろで一つに縛り上げていて、彼女は作業用の紺色の厚手のエプロンを身につけている。エプロンは削った金の粉にまみれて少々汚いが、彼女の作り上げたブローチは見事なほどに美しい。小さな箱にそっと収められたそれは、光を受けて燦然と輝いている。黄金の鳩を模したそのブローチをじっくりと見つめ、男はほう、と艶やかにため息をついた。
「うん、本当にきれいだなあ……やっぱり、石だけじゃあ綺麗といっても限度があるしね。身につけられてこその宝石。標本にもしないつもりなら、宝飾品にするのが一番……」
「ありがとうございます……!」
「君がここに来てくれてよかったよ、本当に! 運命の神様がいるなら今すぐ感謝したいところだね。僕の持ちうるすべての石を捧げても惜しくないくらい」
「そ、そんなにですか……?」
「そうだよ! だから、自信を持ってね、お嬢さん」
ふんわりと笑って少女の頭をなでる男性は、ブローチを納めた箱を手にすると、いつもの部屋へともっていく。そこには今まで作った宝飾品が綺麗に箱に収められて並んでいて、彼は時折それをこの店にやってくる商人と交渉し、売り渡す。
今度はいくらの値段が付くのだろう、と少女は少し思いながら、自分の手のひらを見てみた。ヤスリをずっと握っていたせいで所々には赤くヤスリの形が残っている。爪も少し削れてしまったみたいで、年頃の娘にしては少々不格好な形になっていた。
「でも、これが彫金師の勲章――よね、きっと」
不格好な爪はあとで整えるとして、と少女は座っていた椅子から立ち上がる。今日の仕事はこれで終わりだから、ある程度道具を片づけてしまおうと机に広がっていたヤスリをまとめる。
――少女は彫金師だ。
山奥にある“星のかけら”という宝飾品専門店の専属彫金師だ。専属彫金師――といっても彼女以外に彫金師はいないし、そもそも勤めているのは彼女と先ほどの男しかいないから、店の規模は推して知るべし、だ。
けれど、けっして潰れかけた店というわけでもなく、星のかけらは小さいながらも日々の食い扶持には困らないほどの稼ぎは出せていた。――客は大体が“冒険者”だけれど、まあ仕方がない。こんな奥地に一般人が来るわけはないし、外には狼やら飢えた熊だとか――何だか恐ろしい生き物がうろついていたりする。
ちなみに“冒険者”とは読んで字の如く、冒険を生業とする者たちの総称だ。未開拓の地に行ってみたり、はたまたどこかの国で起こった問題を解決してみたり、ありとあらゆる“冒険”をするのだと紫は聞いている。要するに危険が大好きな人たちのことだ――と紫は解釈した。あながち間違ってもいないだろう。
そんな人も寄りつかないような山奥にある宝飾品、“星のかけら”の店長はエルフの男。名はミルシェリトだが、ミルシェリトは“ミルシェ”というあだ名で呼んで欲しいとよく言っている。長いし、舌が回らないからね、と。
彼は勿忘草のような青い瞳に春の日を閉じこめたような金髪がトレードマークだ。エルフならではの神秘的な美しさに満ちた風貌は、男女問わずに見る者をうっとりさせる。
ミルシェリトは長い間、この店をひとりで切り盛りしていたのだが、そこに二月ほど前に転がり込んだのがこの少女――東雲紫だ。
紫が“星のかけら”に来るまでは、“星のかけら”は宝飾品専門店などではなく、宝石専門店だった。簡単に言うなら宝飾品として加工された宝石ではなく、研磨された宝石そのものを売りに出す店だった。つまりは、裸石を専門に扱う店だった、というわけだ。
ミルシェリトは宝石の研磨職人でもあったし、また裸石の鑑定士の資格も持っていたから、紫がいなくとも十分に店をやっていくことは可能だった。だというのに紫をわざわざ“星のかけら”で雇ったのには理由がある。
「――まさか、こっちで彫金師になるなんてねえ……」
ふう、と紫はため息をつきながら、左手の小指につけたままのピンキーリングを撫でる。シルバーに紫色のキュービックジルコニアを留めただけのシンプルなリングだけれど、紫には思い入れのあるものだ。何しろ、初めて自分で作ったリングなのだから。
このリングを作ったとき、紫はまだ彫金用のヤスリを持つことにも慣れていなかったし、指輪を自分の手で作れるとは思っていなかった。
けれど、宝飾品を作りたかったからわざわざ専門学校に入り、彫金師への道を歩むことに決めたのだ。紫がその専門学校を卒業してからもう二ヶ月は経つだろう。卒業と同時に“星のかけら”に転がり込んだようなかたちになった紫だが、何も最初から“星のかけら”で働きたかったわけではない。それどころか、“このお店”の存在すら知らなかった。
紫は、ありていにいって異世界人だった。
不況が嘆かれる世の中、彫金師を目指しても雇ってくれる場所なぞ少数しかなく、紫は就職先を決めかねていた。そんな中、ある日うっかりこの世界にとばされたのが紫だ。
最初のうちは何が何だか全くわからず、とばされた先の森の中で野生動物におびえながらさまようという、日常ならまずあり得ない体験をしていたのだが、そこで一人の青年に保護されてこの“星のかけら”に連れてこられたのだ。
“星のかけら”に連れてこられた当初、ミルシェリトはあからさまに驚いた顔をして、紫をとりあえず休ませようと食事も寝床の用意もしてくれた。見ず知らずの、しかも素性もよくわからない人間によくそこまで出来るものだと紫も驚いてしまったが、ミルシェリトにはそんなことは関係なかったらしい。穏やかな顔つきをしている彼は性格まで穏やかで、数日間も森の中でさまよっていたという紫に同情し、紫の話も根気強く聞いてくれたものだった。
紫は最初こそ“ここは世界のどこかなのではないか”と甘い希望を抱いていたものの――何しろ彼女の育った国には“神隠し”なんて現象が言い伝えられていたくらいだ――ミルシェリトと話すうちにそれがただの希望であったことを知る。
ミルシェリトが紫に自己紹介したときに、彼は自分を“エルフ族のミルシェリト”だといったものだから、紫の困惑と言ったら無かった。
エルフといえば小説や映画などに出てくる、耳のとがったひとたち――くらいの認識しか紫にはなかったし、そもそもそれは架空の話でのことだ。現実にエルフなんて存在がいるはずが――と考えて、紫はふっと頭に浮かんだ仮定にぞっとした。
――もしかして、全く異なる世界にきたのでは?
ここが夢でないことくらいはもう理解していたし、夢でないとなるとあとはここが映画のセットの中か、または自分の知らない世界か――の二択くらいしか混乱した紫の頭には残っていなかった。紫は映画女優になった覚えはないから、映画のセットという話はまずあり得ない。
異世界なのではないかと気づき、目に見えて落ち込んだ紫にミルシェリトは慌てて、何かあったのか――と紫に訊ねた。バカにされるのを覚悟で、けれどこの穏やかなひとなら真剣に聞いてくれるかも――と紫は意を決して“おそらく異世界から来た”と言う話をミルシェリトにすれば、ミルシェリトは唸りながら「信じがたいけど」と紫の顔をじっと見つめたのだった。
「お嬢さんが嘘をついているようにはみえないんだなあ――。あのね、僕たちエルフは嘘を見抜くのを得意としてるんだけど、異世界から来たって言う話をしたときのお嬢さんの顔は嘘をついていなかった。……だから、本当のことなんだろうな……」
若いのに大変だねえ、とミルシェリトは本当に紫に同情したようで、紫以上に深刻な顔をしてむむむ、と唸り、何だか寧ろ申し訳なくなったのを紫は覚えている。
「ロウシュ……お嬢さんをここに連れてきた男の人は、それを知っている?」
紫を森で拾ったのは黒髪に緑の瞳を持つ青年だったが、彼は紫をここに預けるとさっさとどこかに行ってしまった。行動をともにした数日間でも彼が無口で無愛想なのを紫はよくよく知ることになったけれど、穏やかなミルシェリトの元に紫を連れてきてくれたのは彼が確かに優しい証だろう。森で出会ったのが彼だったことに紫は感謝したいくらいだ。
彼の名前はロウシュというのか。
紫は今度会ったらお礼を言わねば、と心の中に刻み込む。
「あっ……いえ、話していません……」
「そっか、まあ――ロウシュは顔も怖いし、無愛想だからなあ……ちょっと話しづらいかもね」
「でも、やさしいです」
「うん。優しい」
にこっと笑ったミルシェリトは、一つ聞きたいことがあるんだけれど、と紫の手を取って、紫がつけていたピンキーリングを指さした。
「この指輪の出所、教えて欲しいな」