プロローグ 4
男は森の中を歩いていた。別に、猟師を生業にしているわけではない。肩に背負うのは弓だし、腰のベルトには一振りの剣が収められている鞘が取り付けてあるけれど、彼は生き物を狩ることを目的として森を歩いているのではなかった。
彼が目的にして歩いているのは、宝石だ。
とはいっても、研磨済みの美しく光るものではなく、磨かれる前の、何だか擦れてしまった硝子のような欠片――原石の方だ。
出来れば岩盤から安全に原石を採取したいところだが、このあたりではごくたまに宝石を生やした生物――いわゆる魔物――も出てくる。そんな生物が出てきたときに狩れるようにと武器を持ち歩いているが、一応彼は狩人ではなく、“採掘”を生業とした“冒険者”だった。
宝石の原石がありそうなところを冒険して、その成果を知り合いの研磨職人のエルフに売りつけている。
今回もそのエルフに売りつけるために森の奥深くへと入り込んでいるのだが、どうやら彼の他にこの森を歩き回っている者がいるらしい。
別にそれはかまわないが、どうやらその“別の者”は森に不慣れな人間のようで。
森に詳しければ小枝を無造作に折るような歩き方はしないのだが――たまに人を襲う生き物が音に引き寄せられて近づいてくるからだ――件の人物は頓着せずに小枝を踏み折り歩いている。
何だか嫌な予感がして、男はその足跡を追った。
人の足跡らしきもののすぐ近くに、大型動物の足跡を見つけたからだ。
最初は偶然かとも思ったが、足跡をたどればすぐに知れた。
これは偶然ではなく、大型動物もまたこの足跡を追っているのだと。
念のために剣を鞘から抜く。
もし大型動物と遭遇してしまった場合、弓だと攻撃するときに少し時間が入るからだ。それだったら、剣で頭でも何でも一突きしてしまった方が楽だ。幸い、男にはそれが出来るだけの経験と敏捷さ、力があったのだから。
男が慎重に足跡を追っていれば、掠れた女の悲鳴のようなものが耳を打つ。普通の人間なら聞き逃していたところだが、男は狼並の聴力を持っている。女の声から距離を測り、一息に走り、大型動物――おそらく熊――の吐息もとらえた。
もう一度叫んでくれたら場所がすぐに知れるのだが、と男が考えていたときだ。その考えを呼んだかのように女の声が空気を引き裂く。
――まだ、死にたくない。
力強くはなかったが、心を打つ叫びだった。即座に場所を推測して走る。走り抜けた木々の先には、震える足でやっと立っている女と獲物を仕留めようとする熊の姿。作業着姿の女が何故ここにいるのかとも思ったが、男は女に背を向けて熊と向き合った。
熊と目を合わせるのは一瞬で良い。
熊の注意が女から、急に現れた男へと移ったところで、男は寸分違わず、一息の隙も与えず、熊の目に切りつけた。
ぐおお、とうなり声をあげて熊が体勢を崩す。崩れたところ、頭を一突きにすれば熊はぴくぴくと痙攣して、手負いの一撃すらなしにどう、と倒れた。
倒れた熊の脳天から剣を引き抜き、滴る血を振って払う。べとりとついた脂は後で拭えばいい。いつも通りだ。何の問題もない。
問題があるとするなら――この女だ。
安心したのか泣きじゃくる女に男は不機嫌そうな顔をする。
それは不機嫌な顔ではなく、女を心配するために作られた顔だったのだが――如何せん、顔立ちの厳しい男がそれをやったところでは――不機嫌そうに眉を寄せたようにしか見えなかった。
***
熊を一瞬で殺した――片づけた男は、剣についた血を一振りすると紫の元へと歩み寄ってくる。今度は自分があの目に遭うのかと熊に視線をずらせば、男は無言で紫に手をさしのべた。いつのまにか、紫はぺとんと地面に座っていたらしい。
涙を袖口で拭って、紫は男の手を取った。節の目立つ逞しい手だ。肉刺が潰れて治してはまた肉刺をつくる、というサイクルに陥ったのだろうか、手のひらは堅い。剣道部に高校生時代は所属していた紫には、それが剣を持つことで出来る肉刺なのだと、手の堅さなのだとすぐにわかった。彼女が手にしていたのは竹刀だが、彼が手にしているのは真剣だ。本物の剣。
「怪我は」
「ない、です」
そうか、と男は短く紡いだ。低い声は何だか慣れなくて、紫はつい距離を取ってしまう。
しばらく無言で立っていた紫を引っ張るように、男は紫の手を取って歩き出した。
「また熊に襲われたいのなら、俺の手を振り払え」
ぶっきらぼうで無愛想な言葉だが、紫を助けてくれたことに違いはない。ありがとうございますとやっとのことで口にして、紫は手を引かれるがままに男についていった。
森の中を庭かのように歩く男は迷いがない。男よりも体力がなかった紫は時折、地面に顔を出している木の根に足を取られたりもしたのだが、そのたびに黒髪の男は無言で紫を支えた。
お互いに無言。気まずいと言うよりは話す内容がないから無言、と言ったところだ。紫にいたっては話す余裕がない。
肩で息をし始めた紫を気遣ったのか、それとも自分が休みたかったのか。男は適当なところで木の根に腰を下ろした。
無言で男は背負っていた袋から水筒らしき筒を取り出すと、紫に突きつける。
しばらく黙り込んでみていた紫から筒を取って、男はふたを開けて一口飲む。それから、蓋を開けたまま紫に水筒を再びつきだした。
飲めと言うことなのだろうか、と紫は水筒を受け取り、一口だけ飲む。なにやら、お茶のようだった。花の良い香りがして、ほんのり甘い。
ありがとうございますと水筒を返した紫に、平気か、と言葉少なに男は問いかける。多分、と紫が答えて男は再び無言になった。
しばらく無言で佇んで、それから男はまた紫の手を引いて歩き出す。途中で二回ほど生物に――今度は紫の見たこともないような、頭から角を生やした狼のような奇妙な生物に襲われたが、その時も黒髪の男は剣を振るって生物を死に至らしめた。
何となく、紫の頭を掠る考えがある。
――ここは異世界なのではないか、と。
少なくとも日本には剣を携帯した男の人はいないし、世界にも頭から角を生やした狼なんていなかったはずだ。何もかもが現実離れしていて、紫には全てが初めて見るものにしか見えない。
そんな不安を抱えながら、紫は動物に怯えながら数日間、男に手を引いて貰って歩き続けることになった。
***
幸いながら、紫はそう悪くない野宿生活を送ることが出来ていた。男が野宿に慣れているというのが大きかっただろう。夜は火を焚きその近くで微睡み、食べるものは男が狩ってきた。男は常に無言で、けれど、紫が感謝を述べる度に「別に」と無愛想に答える。最初は怒っているのかとびくびくしたものだったけれど、その内にこれが普段の態度なのだと気づいた。
無愛想でも優しいのだ。
転んではすみませんすみませんと謝る紫を彼は責めなかったし、夜寝るときには必ず紫を火の当たる安全な、温かい場所に招いた。紫が眠る間男は起きていて、紫が起きたときに男は少し微睡んだ。ごめんなさいと紫が謝れば、やはり「別に」と男は言葉少なに返す。
女である紫を気づかってだろうか、川があれば乾いた布を手渡して彼はすっと姿を消した。言外に身を清めろと言われていることに紫は気づいて、布を水に浸して体と髪の汚れを拭ったものだ。拭った布を川でまた洗って、紫が服を着直した頃に彼は無言で戻ってきていた。
そう言うサイクルを四回ほど繰り返し、たどり着いたのは山小屋にも見える建物だ。“星のかけら”と記された看板には、宝石のようなものが描かれている。そんな場合ではないというのに紫の胸は高鳴って、その隣で男は扉を叩いていた。結構強めに。
真夜中だったというのに叩き起こされた家主はやはり怒ることもなく、男と――それから紫を見てひどく驚き、二人を引っ張るように家に招き入れた。紫には温かい風呂を勧め、紫が風呂から上がってくれば汚れた衣服の替わりに新品のような洗い立ての同じ衣服が用意されていた。何故、とも思ったが有り難くそれを身につけ、戻ったときには温かいシチューが用意されたテーブルに案内されて。
男はシチューを食べ終わったようで、「風呂を借りる」の一言の後に姿を消した。温かいシチューを涙ながらに頬張った紫に、家主のきれいな顔立ちの男は「頑張ったねえ」と優しく声をかけたのだった。その言葉はじわりと紫の心にしみこんで、紫の目からはこらえていた涙がこぼれ落ちた。シチューが少ししょっぱくなってしまったのは、涙のせいだ。
「彼から聞いたよ。森をさまよっていたんだってね。――今日はベッドを貸してあげるから、ゆっくりお休み」
有無をいわさぬ、けれど優しい仕草で、綺麗な金髪の端整な顔立ちの男は紫を寝台へと寝かせた。そのままぱたんと扉を閉じて、男が紫に眠りの挨拶をすると、紫は眠りの沼に引きずり込まれるようにして夢の世界へと誘われた。そうして紫は翌日まで何を考えることもなく眠ることが出来たのだ。
起きたときには彼女を助けた黒髪の青年の姿はなく、「彼なら出て行ったよ」と金髪の男性に言われたのみで。
お礼もまともに言えなかった――と落ち込む紫に、「どうして森なんかをさまよっていたんだい」と金髪の男性は優しくたずね。
その身に起こったことを全て話して――紫は、今“星のかけら”にいる。
恐ろしいほどののんびり更新になる予定 宝石が好きです