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「……大丈夫か?」


 椅子に腰かけたままぼうっと窓の外を見つめている紫に、ロウシュが声をかける。心ここに在らず──といった様子で、まるで魂でも抜けているかのような有り様の紫は、ロウシュの声に「大丈夫です」と返すのみだった。ロウシュからすれば昨夜の一件はそう衝撃的なことでもなかったが、紫にとっては違うのだろう。


 聞けば、強盗に遭うのも、その強盗を気絶させたのも初めてだそうだ。さらに言うなら、人をああして殴ったこともなかったらしい。平和な場所で生まれてきたんだなとロウシュは考えた。自分とは大違いだ。


「ミルシェリトが今日にも帰ってくるだろうから」

「……はい」

「それまで休んだらどうだ」


 強盗を芯金で叩いた後に気絶してしまった紫は、すぐに目を覚ましたものの、不安や恐怖からか一睡もすることなく朝を迎えてしまった。初めてのことに神経が高ぶっていたのだろう。ぼうっとしているのはその寝不足のせいもあるのかもしれない。落ち着かせるためにいれたココアは、カップに半分ほど残ったまま机の上に置かれたままだ。もうすっかり冷めきっている。


 ロウシュは紫に付き合って一晩寝ずに過ごしたが、ロウシュとは違って紫の方は参っているように見える。一度旅に出てしまえば、野宿も寝ずの番も当たり前なロウシュと違い、紫は徹夜にも慣れてはいない。眠らなかったロウシュからすれば、眠れない紫は何だか可哀想にも見えた。

 「眠らない」のと「眠れない」のは別物だ。自分の意思に関わらず、体を休めたいのに休ませることができないのは苦痛だろう。


 念入りに縛った男は、使われていない一室に放り入れた。その上鍵をかけて閉じ込めたものの、やはり紫は落ち着かなさそうだった。眠れないのも無理もない。


「ユカリ。ここで寝ていても良い。……近くにいるから」


 嫌だったら出ていくと口にしたロウシュに、紫は首を振った。「いてください」とちいさい声が返る。「わかった」とロウシュは返して、ソファに横になった紫にブランケットを差し出す。ありがとうございます、と返された声は、やはりいつもより元気がない。


 しばらく眠れなさそうにもぞもぞと寝返りをうっていた紫だが、暖かい日が窓から差し込む頃にはようやく眠りにつけていた。悪夢にうなされることもなく、穏やかな寝息を立てていたのが救いだ。今は少しでも身体を休めてくれれば、とロウシュは思う。


 ロウシュやミシェルの予想通り、強盗は紫を騙して侵入したようだ。ウンディーネが身ぶりで伝えた通りならば、現在閉じ込めている強盗の男の他に吸血鬼がもう一人いたはずだ。吸血鬼ならば、ミルシェリトが張った【外敵避け】の結界くらいは剥がせるのかもしれない。


 何しろあれらは【闇に親しむもの】だ。それくらいのことはやってのけてしまう可能性がある。人が人の(ことわり)によって築き上げる魔法も、人の理の範囲外に長くとどまった【闇に親しむもの】ならば、それを崩すことも出来なくはないのかもしれない。加えて、吸血鬼とは大半が元人間である。人の(ことわり)を熟知した【闇に親しむもの】は、それだけで厄介な存在と言えた。人間の手の内を知っている化け物だからだ。


 ミルシェリトが紫に伝えたかどうかはわからないが、こういう時に使う彼の結界は、基本的には二段構えだ。外側に張る【外敵避け】と内側からしか解くことのできない【侵入不可】。針を使うのは【侵入不可】で、外側に薄く光の膜を作り上げるのが【外敵避け】だ。吸血鬼が【外敵避け】を剥がして綻ばせ、人間の男を使って紫に【侵入不可】の結界の綻びを作るように仕向けたのだろう。


 優しい陽に照らされた紫の睫毛の先が、薄く光っていた。顔にかかる黒髪を指先でそっとはらって、頭を撫でる。ほんとうに無事でよかったと、ロウシュは艶やかな髪をすいた。ほんのひとときかもしれないが、穏やかな時間がそこにあった。ロウシュはこの、穏やかな時間が好きだったのだ。なにもなかった自分にやっと与えられた、小さな幸せと静かな時間が。


「……やっと得られたものだから」


 ミルシェリトや紫も、そしてこの店も。

 家族ともいえるひとと、最近拾ってしまった珍しい同居人と。それからロウシュが帰ってくる場所。どれもまだきちんと残っている。ロウシュの手元に残っている。ならば、いままでと同じように穏やかな暮らしができるだろう。

 帰ってくれば、二人が迎えてくれることに慣れてしまったのだ。それを今更失いたくはない。ここは自分の居場所で、ロウシュにはここしかなかった。つい家を空けてしまうのも、「帰る場所がある」ことを実感できるからなのかもしれない。

 だから、そんな大切な毎日を壊したくはなかった。壊されたくはなかった。


 ふう、と小さく息をつき、すがるようにロウシュは自分の腕を撫でた。服の下に感じるのはバングルだ。幼い頃からずっと身に付けてきた、ロウシュのたったひとつの自分だけの持ち物。捨てられた自分に残されたたったひとつ。

 ムーンストーンの嵌まるそれを撫でているときは心が落ち着いた。昔はこうするのもただの気休めだったけれど、今では違う。


 これは【そういうもの(・・・・・・)】なのだとミルシェリトが昔教えてくれたのを覚えていたが、正直なところおまじない程度にしか受け止めていなかったのだ。心を落ち着けるお守りのようなもので、そういう「あやふやなもの」に頼ることしかできない自分が歯痒かった。けれど、紫が特別付与(ギフト)付きの宝飾品を作れるとしってから、ロウシュにとってこのバングルはただのお守りではなくなった。気休めではなく、【効果のあるもの(・・・・・・・)】なのだと。


「……いつか、君にも話さなくてはいけないな」


 今のところ、ロウシュとロウシュの育て親であるミルシェリトだけの秘密であるそれは、このまま紫がここで暮らしていくのであればきちんと話さなくてはいけないことだろう。そのときに紫はなんと言うだろうか。怖がるだろうか。


 ロウシュは自分の腕からバングルを抜き取り、紫の細い腕に通した。手を振ったらすぐに抜けてしまうだろうが、就寝中に腕を振ることもあるまい。せめてよく眠れるように、心が落ち着くようにとバングルのムーンストーンを撫でながら、「おやすみ」と囁いた。




***




「た、ただいまっ」


 珍しく扉をノックするのもなしに、ミルシェリトが帰ってくる。足音からして騒がしい。帰ってくるなり「ロウシュ!」と叫ばれたのも珍しかった。


「ミシェルから聞いたんだけど! 強盗だって!? 吸血鬼が一人、クルースニクに捕縛されたって! ここを狙ったやつらしいけど、ユカリはっ!?」

「無事だ。……今は寝ている。そこのソファで。……それから、使っていない部屋に人間の方を転がしておいた。吸血鬼と人間が組んで強盗に入ろうとしたらしいのは知っているか」


 ロウシュの問いかけにミルシェリトはうんうん! と勢いよくうなずく。びっくりしたんだから、とため息をついて「大変だったね」とロウシュを労った。


「吸血鬼と強盗のことは、ミシェルが教えてくれた。……ユカリも君も大丈夫だったってことだよね? 良かったよ……」


 紫が寝ているらしいことを知り、ミルシェリトはそうっと声の大きさを落とした。ソファで眠っているユカリに近づき、さしたる怪我もないことを確認して安堵の息をつく。


「よかった……! 気が気じゃなかったんだ、朝方ミシェルが慌てて来てくれたものだから。昨日の夜、ミシェルの知り合いのクルースニクがこのへんで溺れかけた吸血鬼を見つけたんだって。何で溺れかけてたのかはよくわからないらしいんだけど」


 ここからちょっと行った先には川があるけど、とミルシェリトは首をかしげる。自ら川に向かう吸血鬼なんていないでしょうと。それにはロウシュが答えを返す。


「それはウンディーネだな。おれがここについた時には吸血鬼をどうにかしていたらしくて」

「そうなんだ……。なるほどね、はーっ……ウンディーネ。そうか、ウンディーネか……いてよかった……。彼、ユカリに結構なついてるもんね」


 よかったよかったと繰り返すミルシェリトが、紫の腕に通されたバングルを見て「おや」と呟く。ああ、とロウシュは生返事をして紫の腕からバングルを抜き取った。自分の腕につけ直して、「落ち着かずに一晩中起きていたから」と口にする。


「そう……。君の方も平気だった? 満月だったでしょう。これ(バングル)をユカリに貸してたなら……」

「いや。夜が明けるまではさすがに外せなかった。吸血鬼の次は……なんてことになりでもしたら、洒落にならないからな」

「……そっか」


 そうだね、とミルシェリトはそっと呟いて、「もう一人の方に話は聞けるの?」とロウシュの翡翠色の瞳に問いかける。


「縛って置いてあるだけだからな。問題ない」

「そう。それなら、僕はちょっと(・・・・)行ってくるね」


 ユカリを見ていてあげて、とミルシェリトは優しい声をだし、ロウシュの肩をぽんぽんと叩いた。


「一段落して、ユカリも起きたらちゃんとしたご飯を食べようね。まだ朝御飯も食べてないんじゃない?」

「……そうだな」


 もしかしたらミシェルもこっちに来るかもしれないから、そのときは応対よろしくねと続けたミルシェリトに、ロウシュはうなずく。優しい声とは裏腹に、ミルシェリトの青い瞳は静かな怒りを湛えている。彼もまた、怒っているのだ。本当に「ちょっと」なのかは怪しい。ふう、と小さく息をついて、ロウシュはミルシェリトの背中を見送った。



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