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「お前、ここの家主か?」


 男の問いにロウシュは答えなかった。見る限り、男は人間のようだ。面倒な結界をはりやがって、と男は吐き捨てた。


「おかげで仕事がしにくいったらねえよ。……この際お前でもいいか。金目のものを全部寄越しな。そうしたら命だけは助けてやる」


 ロウシュは答えなかった。

 男がナイフを構えながら、一歩ずつ歩み寄ってくる。早くしろよ、と怒鳴られても眉ひとつ動かさずにいた。


 月光の差す廊下は、人の目には少々暗い。暗闇になれるまでは周りの状況などうまく掴めはしないだろう。男がゆっくりと歩み寄ってくるのもそのせいだ。自分とロウシュとの距離感をつかみきれていない。その上、他人の家だ。勝手も分からないのだろう。しかしロウシュにとってはこの家は目をつぶっていても歩けるような場所だ。満月の光ならあたりもよく見える。焦る必要もなかった。


 男が慎重に前にもう一歩踏み出したとき、ロウシュも前に出た。腰を落として踏み込み、遠慮なくその腹に拳を突き立てる。もしかしたら男の骨を何本か折ってしまったかもしれないが、ナイフごと腕を切り落とされなかっただけましだろう。切り落とさなかったのは、近くに紫がいるのがわかっていたからだ。あまり見せたい光景ではない。すでにこういう怖い思いをしているのだから。


 げぶ、と空気を吐き出すような苦しげな声が聞こえたのをロウシュの耳はとらえていたが、同情は抱かなかった。腹を抱えて崩れ落ちた男は、ぴくぴくとしながら床にのびる。あとで縛ろうと廊下のすみに男を足で寄せて、ロウシュは部屋に入った。


「ユカリ。いるか」


 圧し殺したような呼吸と一緒に、鼻をすするような音が聞こえた。そして、がこんと机に頭をぶつけるような音も。彫金台の下かとロウシュが歩み寄れば、ユカリが彫金台の下から這い出てくるのが見えた。安堵の表情ではあったが、安心したせいなのか涙がぼろぼろと溢れている。無理もないなと腰の抜けた紫を立たせ、心配そうにしていたウンディーネにその体をあずけた。


「無事か」

「だ、大丈夫です……ありがとうございました」


 見たところ無事ではありそうだが、大丈夫とは言えないだろう。いまだ恐怖に怯えたような顔をしている紫に「それならいい」とロウシュは短く答えた。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……わた、私、ドアを開けちゃいけないって言われていたのに」

「その話は後だ。……誰も怒らないから」


 子供のように泣きじゃくった紫の背中をぽんぽんと撫でてやり、ロウシュは息をついた。無事でよかった。怪我もなさそうだ。すがるように芯金を抱き締め、しゃくりあげているのを見れば怒る気にもなれない。

 男の方をどうにかするか──とロウシュは廊下の方へ視線を向けようとして、視界の端に赤い光が瞬いたのに気付いた。あ、と紫が小さく呟くのが聞こえる。


「後ろ!」


 紫の悲鳴のような叫びと共に、廊下で気絶させたはずの男がナイフを握りしめて向かってくる。一直線にロウシュに向かって走ってくる男を避けるのは容易だったが、それをすればそのナイフの先にいるのは紫だ。避けるわけにはいかなかった。しかし、大人しく刺されるにしても体勢が悪い。かすり傷にはならないだろう。もう少し強めに殴っておくべきだったと思いながら、ロウシュは咄嗟に腕で体を庇った。腕くらいならまだましだ。心臓に刃が突き立てられるよりは。


 体をかばったロウシュの後ろで、ウンディーネが水球を三つ飛ばす。水球は男の両足首、ナイフへと飛んでいき、男の自由を奪った。ナイフを掴んだ手ごと水球が凍り始め、それにともなって両足首の水球も凍り付く。バランスを崩した男が前のめりに倒れてくる。一歩前に出た紫が、ロウシュの後ろから芯金で男の頭を叩いた。


 鈍い音のあと、どさりと人が倒れる音が続く。ぼんやりとした赤い光が男の身体にまとわりついていた。ロウシュの耳には紫の荒い呼吸が聞こえている。紫の手から芯金が転がり落ちた。真っ暗な部屋にがらん、と重い音が響く。


「ろ、ロウシュさん……」


 大丈夫ですか、と紫は聞きたかったのかもしれない。ロウシュが頷く前に紫は気を失ってしまった。

 こんな目に遭ったことの無い紫にとって、刺激的すぎる夜になってしまったのは間違いなさそうだった。




***




「くそっ……!」


 ふらつく足を必死に動かしながら、吸血鬼は森をさ迷っていた。今宵は満月だというのに、ろくな目に遭わない。人間の男に誘われてあの家にいったのが間違いだった。男が【仕事(強盗)】を終えたら、吸血鬼はその家にいるという若い女の血をもらう手はずだったのだ。だから不気味なほどに張り巡らされた、あの結界を崩す手伝いをしてやったというのに。


 吸血鬼(自分)は「招かれなければ家のなかには入れない」という性質を持っている。そのために大人しく外で待ち、女が家から放り出されるのを待っていた。男が町で仕入れてきた話によれば、この家にすむのは魔術師だか何だかの男が一人と、職人の若い女が一人だそうだ。時折他の男が出入りしているとの話も聞いたが、所詮は石拾い(・・・)だろうという話だったから、大したことでもあるまいと話に乗った。しかし。


「何が楽な仕事だ──あの山猿(・・)め!」


 男の仕事が終わるまで外で待っていた吸血鬼に与えられたのは、若い女の生き血ではなかった。男が山小屋のような家の中に入って少しした後、吸血鬼のもとにやって来たのは【水の精霊(ウンディーネ)】だった。通常ならば女性の姿をとるはずのその精霊は、珍しく男性の姿をしていた。それに驚いていた吸血鬼を見るなり、躊躇うことなく襲いかかってきたのだ。悲鳴をあげる暇もなかった。


 蛇のように身体に巻き付かれ、溺死させるかのように口元や鼻まで覆われた上、どうやらウンディーネには吸血鬼の嫌いな白葡萄酒が混じっていたらしく──たいした抵抗も出来ず、吸血鬼はずるずると引きずられるがままに山小屋から遠ざけられた。


 「吸血鬼は川を渡れない」。そんな言い伝えがあるように、吸血鬼とは水に弱いものだ。顔を水球に押し付けられ、身動きもとれないように巻き付かれた吸血鬼は溺死寸前だった。永く生きてきた身であるが、今回ばかりは生死の危機だった。

 死にかけの吸血鬼がもがき苦しみ、意識を失おうとした瞬間にウンディーネは何故か消えてしまった。人間より遥かに耳が良い吸血鬼には、あの山小屋(星のかけら)の扉が開いたのが聞こえたが、それは仲間(・・)の男が小屋から出てきた音ではない。誰かが入っていった音だった。


 誰が入っていったのか吸血鬼にはわからないが、血も吸えなかった上に死にかけたこの状態だ。これ以上は付き合っていられないと必死で立ち上がり、宵闇に紛れて逃げることにしたのだ。残してきた男がどうなろうと知ったことではない。


 真っ暗な森の静けさは吸血鬼の心を慰めた。ほうほうと梟が鳴いているのを、人間は不気味だと思うかもしれない。月光に照らされて妖しく伸びる木々の影を、人間は恐ろしく思うかもしれない。風にざわめく木々の葉に怯えるのかもしれない。けれど吸血鬼にとっては満月の夜こそが──


「……ん?」


 月光に照らされながら、一羽の白い隼が吸血鬼の目の前に舞い降りる。何だこの鳥は、と吸血鬼が訝しめば、鳥が地に足をつけると同時に青年の姿へと変わる。


 泉のような青い瞳に、後ろでまとめた美しく長い銀髪。綺麗な顔の青年だった。貴族の青年のような上等な格好をしながら、その端正な顔には冷たい笑み。


「──満月の夜に出歩くなんて不用心だぜ?」


 なァ、と吸血鬼に近寄る青年は、ずぶ濡れの吸血鬼の首をつかみ、片手で持ち上げる。吸血鬼には逃げる間も与えられなかった。月のように穏やかに笑い、青年はゆっくりと優しく口にする。


「クルースニクに退治されちまうからなァ?」


 ぞっ、と背筋が粟立ったのを、吸血鬼は感じていた。青い瞳は神聖でありながら、ある種の狂気すら孕んでいるように見える。月夜に舞う吸血鬼たちにとっては、一番嫌なものの名称が出てきたことに目眩がした。


 絹手袋に包まれた手が、ゆっくりと吸血鬼の首を締め上げていく。その手をなんとか引き剥がそうともがいても、青年の手は緩みもしなかった。


 クルースニク。吸血鬼にとっては天敵とも言って良い存在だ。銀髪に青い瞳の【それ(クルースニク)】は、吸血鬼が宵闇に紛れて人を狩るように、人間に紛れて吸血鬼を狩るのだ。善の存在として人々に感謝され、多くの【同胞】を始末しているその存在を恐れない【闇に親しむもの】は一人としていないだろう。


「お……まえ、お前は……!」

「最近はお盛ん(・・・)だって聞いてるぜ? 商人(同業者)クルースニク(俺たち)もお陰で大忙しだ。……運が悪かったな吸血鬼さんよ。残念ながら……人に危害を加えるのを見過ごすほど、俺は甘くはないんだぜ」


 クルースニクの指が、ぐっと吸血鬼の首へ食い込む。反論することも許されぬまま、吸血鬼は宙吊りにされていた。肌寒いくらいの夜風が頬を撫でている。元々血の気がない吸血鬼の顔から、さらに色が失われていく。


「先回りしてさっさと片付けようかと思っていたが……。思ったよりあいつが着くのも早かったし、あの精霊もなかなか主人に忠実で良かったよ。俺の正体も知られずに済む」

「何を言って……」

「あの家の者とは知り合いでね。知り合いに危害を加えられて黙って見てるわけにもいかねえだろ?」


 月光に照らされた青い瞳が、吸血鬼の赤い瞳をじっと見つめる。お前さんたちには聞きたいこともたくさんあるんだとクルースニクの青年は吸血鬼に語った。でもそれより先に、と青年が冷たい視線で吸血鬼を射抜く。



「お仕置きの時間だ」



 吸血鬼の悲鳴は誰にも聞かれることはなかった。梟の鳴き声に紛れ、木々の葉のざわめきに埋もれ。

 満月の夜は、そうして静かに更けていった。



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