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暗い廊下を走り抜け、慣れ親しんだ作業室へ。鍵を内側からかけて、彫金台の下へ潜った。ヤスリと芯金を一本ずつ手にとる。部屋の外の廊下からは、怒りに満ちた男の声がした。多分見つかったら殺されるだろう。それでも、男の要求を飲む訳にはいかなかった。どきどきと心臓が早鐘を打つ。そういえば、と作ったまま彫金台においたままにしていたリングをいくつか掴む。それからすぐに彫金台の下へと潜る。
居場所などというものはすぐにわかるものだ。作業室の扉がやかましく打ち鳴らされている。今度のノックには得体のしれない恐怖などなかった。明確な、絶望的な恐怖だけがそこにある。吐きそうなほどに鼓動が早い。震える手になんとか芯金を握って、紫は息を潜める。
部屋に足音が近づいたあと、ガチャガチャとドアノブを回された。鍵をかけてしまったのは失策だっただろうか? ここに自分が隠れていると言っているようなものじゃないか。ドアノブを回す音はどんどん荒々しくなり、ついに扉を蹴るような音までしてくる。紫は恐怖で吐きそうだった。こんなにも自分の心臓の音が大きく聞こえたことはない。
バン! とけたたましい音と主に扉が開く。鼻から血を流した男が目をぎらつかせながら、部屋に紫が潜んではいまいかと探し始めた。見つかるのは時間の問題だと確信し、紫は指輪に触れる。何の宝石を留めたものかは暗くて分からないが、賭けるしかない。
冷たい銀の表面を指先で撫でながら、留めた石を探る。指に石の表面が突っかかったのを確認して、紫は祈った。
──何か出て!
シュポ、とライターをつけたときのような音がして赤い光が散る。それだけだった。
──嘘でしょ!?
一瞬光った部屋のなかで男が動いたのがわかる。紫の居場所などばれてしまっただろう。もう一度石に触れて、光が散る瞬間に指輪を部屋の外へ放り投げる。
「逃げる気か!」
指輪の光に釣られ、男が部屋を飛び出ていく。運が良かったと胸を撫で下ろし、残った指輪を指にはめる。一度だけ深呼吸をした。吸血鬼がいるという外に逃げるべきか、それともこのまま男に殺されるのを待つか。絶望的な二択だ。どうしよう、と唇を噛み締める。頭がまったく働かない。
部屋の外では男の足音が嫌なくらいに響いている。うろうろと紫のいる部屋の回りを探っているのは、紫が完全に部屋から抜け出したというのを疑い始めたせいだろうか。逃げるにしても、ここに留まるにしても時間は残されていないだろう。
鼻がつんとしてくる。目頭も熱くなってきた。泣きそうになるのを必死でこらえても、嗚咽が漏れそうだ。
息を殺して紫はうずくまる。見つかったらその時はその時、と覚悟を決めた。願わくば、紫が外に逃げたと思ってはくれないだろうか。息を潜めた彫金台の下で耳を済ませていれば、玄関の方から扉を閉めた音がした。出ていってくれたのだろうかと期待した瞬間、足音が一歩ずつ部屋に向かってくるのに気がつく。
──まさか。
まさか、男の仲間が入ってきたのではないだろうか。
冷や汗が確かに背中を流れていくのを感じながら、紫はただ黙って俯いていた。口に手を当てて、荒くなりそうな呼吸をなんとか整える。
足音は部屋のすぐ前で止まった。ひくっと喉が震える。
***
山の中は驚くほど静かだった。普段ならどんなに気を付けようと狼や熊、魔物の一匹や二匹、望まなくともお目にかかれるというのに──まだ狼にも熊にも、魔物にも出会えていない。
急ぐのには好都合だ、とロウシュは心を落ち着ける。
【闇に親しむもの】が近くにいるとき、大抵の生き物は物陰や草むらなどに隠れて大人しくしていることが頭をかすめた。誰だって、或いは何だっていたずらに食い殺されるような真似はしないのだ。自分より格上の生き物が餌を求めて動き回っているのなら、その視界に入らないように大人しくするのが賢い選択というものだろう。
野生の動物や魔物はおろか、山にも慣れていない紫を連れて山道を行くのは難儀なことだが、ロウシュ一人なら話は別だ。
焦る気持ちを押さえながらも、ロウシュは山を行く。このまま行けば日没を少し過ぎたくらいには【星のかけら】に着くことが出来るだろう。そうして紫の無事を確認できたら、あとはそれでいい。満月の夜に独り佇むのにもある程度は慣れている。朝が来るまで山に潜み、もし何かが【星のかけら】に近づいたなら、そのときは。
──おれが消せばいい。
蛇の道は蛇なのだとロウシュは知っている。
怪物は怪物にしか殺せない。【星のかけら】は、ミルシェリトにとっても紫にとっても、もちろんロウシュにとっても大切な場所だ。あの場所を汚すわけにはいかないし、【闇に親しむもの】を立ち入らせて汚すような真似はしたくなかった。
急ぐ気持ちや焦る気持ちとはまた別に、ロウシュの鼓動は少しずつ早いものとなっていく。血が騒いでいるのだと嫌でもわかる。
夜がどんどん近づいている。血のように真っ赤な夕日が沈んでいく。森の木々の影が不気味に延びる。一羽の白い鳥が、夕日にせき立てられるように速く飛んでいく。それに驚かされたのか、カラスがギャアギャアとないて飛び立っていった。蝙蝠が餌を求めて飛び始める。昼間の名残の暖かな空気は、夜の冷たい空気に塗りつぶされていく。
真っ暗な空、煌めく星。けれど今夜の主役は砂粒のように小さな星ではない。
ロウシュが【星のかけら】についたのは、骨のように白い満月が夜に輝く頃だった。
ロウシュが【星のかけら】について、真っ先に気になったのは、【星のかけら】の窓のすぐそばについていた跡だ。何か重いものを引きずって行ったように、地面に抉れたあとがついている。抉れた地面は何故かぐっしょりと濡れていた。それは闇の深い木々の間、森へと向かっていたが──ロウシュはそれを追いかけるのはひとまず止めておいた。いま必要なのは紫の無事を確認することだ。
玄関へ近づいて、ロウシュは一つの異変に気づく。玄関の扉が開け放たれている。結界が張られていないのだ。ミルシェリトが張る結界のことならばロウシュもよく知っている。彼が張る結界は強力で、【侵入者】は内側にいるものが赦さない限りは入ってこられない。紫はこんな夜に扉を開けっぱなしにするほど危機感のない娘ではないし、何より【星のかけら】に入ってすぐ、ランタンが転がっているのを見つけてしまったからには。
明かりがひとつもついていない暗がりでも、月の光があればロウシュには十分だった。
革の手袋をつけた手で、落ちていた針をそっと拾い上げる。玄関の扉をゆっくりと閉めてから針が刺さっていたらしい場所へ刺しなおし、ミルシェリトの結界を機能させ直した。
床に転がっていたランタンには水がかかっている。ランタンを拾い上げようとしたそのとき、水が動いた。
ゆらゆらと揺れる水は静かに膨れ上がり、そして人の形となっていく。
ウンディーネ、と小さくロウシュは呟いた。こくりとウンディーネが頷いた。ウンディーネの腕の辺りに何やら泥がついているのにロウシュは目を向けて、「これは」と小さく聞いた。ウンディーネは窓の向こうを指差しただけだ。それだけで何となくわかる。先程、何かを引きずったような跡があったのは。
「……外にいたやつは始末したのか?」
ウンディーネは頷き、自分の腕を何かの形へと変化させる。それは人の顔であり、その顔の口には大きな犬歯がかたちづくられていた。
「吸血鬼か?」
ロウシュの問いかけに頷いたウンディーネは、腕をもとに戻して指を一本たてる。
「吸血鬼が一人、外にいたんだな?」
ウンディーネはまたも頷いた。その瞬間、逃げる気か、という見知らぬ男の怒号が響く。はっと顔をあげ、声がした方を見る。ウンディーネは厳しい眼差しで部屋の向こうを見つめていた。
ユカリは、というロウシュの問いかけにウンディーネは部屋の奥を指差す。そこには廊下があり、部屋が並んでいるはずだ。その部屋のどこかに紫がいるのだろう。そして、きっとここに忍び込んだ何者かもいるはずだ。少なくとも、先程の怒号の男がひとり。
出来るだけ足音を出すようにしながら、ロウシュは進む。相手が人であるなら一瞬の隙をつけばいい。相手がひとりでなかったとしても、紫の身の安全を確保するためには侵入者の気を引くのが一番だろう。人の目には真っ暗なこの空間の中なら、光で気を引くか音を出すかだ。あいにくランタンは水浸しだから、火をつけられそうもない。だからロウシュは足音をたてることにした。
廊下を進み、ロウシュは扉が蹴破られた部屋の前で立ち止まった。紫の作業場だ。ロウシュには何に使うのかさっぱりわからない彫金道具がたくさんおいてある部屋だった。その部屋のすみには紫の彫金台がひっそりとおいてあるのだ。ロウシュがこの部屋の前を通りかかるとき、大抵は紫が中にいる。そうして、いつも何かを作っていた。
机に向かっているときの紫は、部屋の外にいるロウシュには背を向けている。そんなとき紫は小さな背中をもっと小さくしながら、手元で何かいじっているのだった。指輪だったり、ペンダントだったり、ブローチだったり。何となくだが、そういう紫を見ているのがロウシュは好きだった。
手元で何かをいじっていると思えば、その数時間後には嬉しそうな顔で部屋から出てきて、ミルシェリトや自分に作ったものを見せに来る。少し誇らしげな顔も、やりきって満足そうな顔も、見ていて微笑ましい。それを褒めるミルシェリトの顔も、嫌いじゃなかった。娘が一人できたみたいだと笑ったいつかのミルシェリトを、ロウシュは良く覚えている。そして、紫の手のひらに握られている宝飾品の輝きは、どこか温かくて懐かしい。ロウシュはその輝きを見るのが好きだった。
ロウシュが持ってくる鉱石はある意味では【ありふれたもの】だ。金、銀などの貴金属、或いは宝石。価値があるからこそよく取引され、ロウシュが持ってくるものだ。ロウシュにとってはよく知った、ありふれたもののひとつ。それが、ミルシェリトや紫の手によってロウシュの知らないものへと変わっていく。
ミルシェリトが磨く宝石は、どれひとつとして同じものはない。同じ種類の宝石であっても、色も大きさもカットの仕方もすべてが違う。そこには【ありふれたもの】など一つとしてない。
紫がつくる宝飾品もそうだ。一つとして同じものはなく、指輪やペンダントというくくりの中でもデザインが一つ一つで全く違う。
紫やミルシェリトのやることは、ロウシュにとっては魔法のようなことだった。どれもロウシュには出来ないことだ。そんな魔法のようなことをしてしまえる二人が、二人のつくるものが、ロウシュは好きだった。
宝石の価値はミルシェリトほどわからないし、宝飾品のことも紫ほど詳しくはない。ただなんとなく、二人が優しい目で宝石を見るのが、楽しそうになにかを作っているのを見るのが好きなのだ。穏やかな二人を見ているとき、ロウシュもほんの少し穏やかになれる。だからどんなに遠くへ旅をしても、ここへ帰ってきてしまうのだろう。
だから壊したくなかった。壊されたくなかった。
自分の穏やかな日常を、ささやかな幸せを、帰ってくる場所を奪われたくはないのだ。
「……てめえ、どこに隠れていやがった?」
ロウシュの足音を聞き付けたのだろう。
ナイフを構えた男がロウシュの目の前に姿を現した。




