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借りていた宿をすぐに引き払い、ロウシュは【星のかけら】へと駆ける。尋常じゃなく嫌な予感がしたのだ。そして、こういうときの予感は大体当たる。
食屍鬼と人間とが組み、ある冒険者の小屋を襲った──とミシェルは考えているようだったが、ロウシュはそれは食屍鬼ではなく人狼だろうと考えた。四肢が食いちぎられたまま放置されていた、とミシェルは話してくれたが、食屍鬼にしてはそれは妙な話だからだ。
食屍鬼は確かに、人の屍を喰らうために生きている。夜の墓場を荒らし回るのは食屍鬼か墓泥棒だ。満月の夜の翌朝に、食屍鬼に食い荒らされた遺体や墓泥棒がときおり転がっていたりするのだが、犠牲になったものは確実に腹を食い破られている。
なぜか。それは大多数の肉食動物にとってもそうであるように、内臓には栄養があるからだ。こう考えてもいい。骨と筋の多い四肢よりは、柔らかく身の詰まった腹の方が美味しい、と。
ミシェルが吸血鬼に詳しいのをロウシュは知っているが、食屍鬼にはあまり詳しくないのかもしれない。鉱石を求めて山を登るロウシュにとっては、滑落や遭難のために遺体となってしまった者たちを登山中に見かけるのはそう珍しくないことだったし、そのせいで食屍鬼に遭遇したことだって何度かある。一方でミシェルは商人だ。真夜中の墓に行かない限りは食屍鬼なんぞは見かけることもないだろう。たとえ商人の街道に野盗に襲われた遺体が転がっていたとしても、食屍鬼を呼び寄せないようにとすぐに片付けられるのが常であるし、食屍鬼に出会いそうな夜に外を出歩く商人はまずいない。
【死体が食い散らかされていた】──。
その一点で【食屍鬼】の仕業だと考えてしまうのも無理はないだろう。しかし、四肢を食いちぎって放置した、という点で考えてみると──それは食屍鬼ではなくむしろ【人狼】だと思えた。
【食屍鬼】が屍を喰らうためにヒトを襲うのに対し、【人狼】がヒトを襲うのは、自らの破壊衝動を満たすためだという説がある。それはおおよそ間違っていないとロウシュは思う。満月の夜には狂暴で破壊欲に満ちた人格が現れ、それとともに自分の姿も獣へと近づく。二足歩行の狼となった頃にはすべてを忘れ、目に入った生き物を殺め、ズタズタにして、その血を浴びることで悦楽にひたるのだ。それは『喰らうため』の衝動ではない。他者を踏みにじることに喜びがあるのだ。変身する前は人であるから、喰らおうという気持ちもない。人狼のなかには食人を趣味とするものもいるのかもしれないが、大半の人狼はそんなことは求めていない。ただ、目の前の相手をズタズタにできればそれでいい。
すべてが徒労に終わったなら、とロウシュは思う。すべてがロウシュとミシェルの早とちりと勘違いで終わるなら、それに越したことはない。
生きてきた世界が違うせいもあって、紫はロウシュからみてひどく危なっかしい。一番最初に出会ったあの時もそうだ。森で小枝を踏みながら歩くのなんて、野性動物に襲ってくださいと言っているようなものなのに。熊にすら抵抗できない彼女は、そんなことも知らずに森を歩いていた。ただ、それは彼女が知らなかっただけであるし、責める気にはならない。けれど、紫がいた世界よりずっと多くの「危ないこと」がこの世界に転がっているのも事実だ。放っておいたらすぐに死にそうだから、とミルシェリトの元へ連れていったのは間違いじゃなかったはずだ。ミルシェリトなら、口下手で無愛想な自分よりずっとうまく紫に色々なことを教えられるはずだから。
そこまで考えて、ミルシェリトもこんな気持ちだったのだろうかとロウシュは小さくため息をついた。ずっと昔、ミルシェリトにロウシュが拾われたばかりのころ、ロウシュはミルシェリトに怒られてばかりだった。森の歩き方、武器の扱い方。まるで父親のようにすべてを教えてくれた。ロウシュに冒険者としてのいろはを叩き込んだのは他ならないミルシェリトであったし、その他の一般常識についても根気強く教え込んでくれたのがミルシェリトだ。ミルシェリトもきっと、なにも知らないロウシュを危なっかしいと思っていたに違いない。エルフにしては珍しく根なし草の生活をしていた彼だからこそ、行き場のない自分に何かを重ね合わせたのだろうか、と思う。
ロウシュも、紫に同情のようなものを抱いていた。自分は親に捨てられてこの生活を手にしたが、紫の場合はもう少し絶望的だろう。何しろ、自分のすんでいた世界からもっと別の世界に飛ばされてしまったそうだから。戻れる確証がないからか、あるいはもとの世界にあまり未練もないのか、紫は元の世界に戻ることは考えていないようだった。今の生活に適応するのが精一杯なのか、紫は弱音をはくこともしない。それが逆に気にかかっていたのだ。最近は紫が落ち込んでいるのをロウシュは知っていたし、ミルシェリトもそれを気にかけていたように思う。プリムのペンダントの件で、それが何故なのかがわかったときには安心した。なぜ安心したのか、これが同情なのか、拾ってきた者としての責任感からくるものなのか、ロウシュはまだよくわかっていなかったけれど。
どうかただの考えすぎであれ、とロウシュは久しく祈りを口にした。腕につけたムーンストーンのバングルが、どこか重く感じられる。
***
夕方ごろには紫はすべての作業を終えて、少しだけ眠っていた。何しろ今日は暖かく、ついつい眠気を誘われるような日だったのだ。きちんと戸締まりもしていたから問題はないだろう。
ウンディーネも指輪へ戻っていて、紫はううん、と背伸びをした。もうそろそろ日が落ちてしまう。今日は満月だから、と早めに食事をとることにした。ミシェルの話を聞いたときは、一人でいるのはあまり怖くなかったが、こうして実際に満月を迎えると少し怖いと思ってしまう。温かいご飯を食べて、ゆっくり眠ろうと一人で頷いた。
食事も終えて、紫は訪れた眠気を拒むことなく寝室へと向かう。少し前にミルシェリトからもらったパジャマはふわふわとしていて温かく、寝心地がいいものだった。ひとつ欠伸をこぼし、灯りのともったカンテラを手にとってキシリと軋む床を歩く。三歩ほど進んだところで玄関のドアがノックされたのに気づいた。
とんとん
蔦が風に揺られて扉を叩いているのだろうか、と紫は後ろを振り向く。少し迷ったが、扉に近づくことにした。気のせいならそれでいいと思いながら。
扉に近づき、息を潜めてみる。窓にカンテラの光がうつった。そのまましばらく待てば、また扉を叩く音がする。
とんとん とんとん
何だろう、と紫の心臓はどきどきし始めた。何であるか確認したいけれど、扉を開けるのは怖い。どうしよう、と小さく呟いてつけたままのサファイアの指輪に触れる。青い光の飛沫とともにウンディーネが現れた。一人では心細すぎる。不安そうな紫の様子をみたウンディーネが、紫の背中をポンポンと叩く。安心しろといっているのだろうか。
「……開けない方が良いですよね」
紫の囁きにウンディーネが頷く。その間も扉は小さく叩かれ続けている。そうっと後退り、紫は扉から距離をとった。ゆらりと揺らめくカンテラの光が、窓のガラスから離れていく。何も聞かなかったことにしようと、ウンディーネを連れて部屋に向かおうとした。
「助けてくれぇ!」
扉の向こうから悲痛な叫び声が聞こえた。血の気がさっと引いたのを紫は感じている。
またも扉が叩かれた。先程よりも切羽詰まったようなペースで、とんとんと何度もノックされる。ひゅっと息が詰まった。
「助けて! 助けてくれ! 吸血鬼に追われてるんだ!」
ミルシェリトのものでも、ロウシュのものでも、もちろんミシェルのものでもない声だ。紫は迷ったが、扉へと駆け寄った。吸血鬼に追われているというのなら、助けてあげなくちゃ、と思ったのだ。ミルシェリトの手紙を思い出す。結界はどうやって綻びを作るのだったか。
ドアのそば、足元にカンテラを置く。床に五本刺さった針のうち、いちばん小さく短いものを引き抜いた。
「開けますから──」
紫が思いきり扉を引けば、転がり込んできたのは若い男だ。紫は急いで扉を閉めて、針をもとへ戻そうとする。男は紫を見つめたあと、紫のパジャマの首もとを乱暴に引っ張った。
「そんなことされちゃ困るんだよ、お嬢ちゃん」
「う……!」
首もとを掴みながら、男は力任せに紫を床へ転がす。背中に扉が当たった。げほげほとむせた紫に、若い男はニタニタと笑った。何を、と口にした紫に「【星のかけら】って店はここで間違ってねえよな」と室内を見渡す。
ガラスケースに並べられた裸石、紫の作った宝飾品の数々。頼りないカンテラの光にともされて、宝石たちは怪しくも美しく煌めいていた。幽霊船の宝箱の中身のようでもあり、夜空に輝く星のようでもある。強盗だ、と紫はまたも血が引いた。ウンディーネは──いない。
「こんな山奥に店があるなんてな。どこぞの商人が触れ回ってたの聞かなきゃ、きっと分からなかったろうよ」
「帰って──吸血鬼、は」
「帰るわけねえだろ。吸血鬼だって外にいるぜ。ただ、あいつらは家主が招かなきゃ入って来られねえからな」
結界外しだけでもやってくれたのは僥倖だ、と紫を見下しながら笑う男は、「選べよ」と紫に迫る。
「俺のいうことをちゃんと聞いて、楽に死ぬか。それとも、このまま外に放り出されて吸血鬼に喰われるか」
何も入っていない革の袋を床に叩きつけられて、相手が何を言いたいのか紫は察した。ここに宝石も宝飾品も入れろということだ。
早くしろよ、と強盗は紫に嗤う。どうせ死ぬなら楽な方がいいだろうと。
「満月の夜に扉を開けたのが運のツキだぜ、お嬢ちゃん」
「……騙したんですね」
開けなきゃよかったと後悔したって遅かった。内側に入り込まれた今、たとえ針を刺し直しても意味はないだろう。悔しかった。自分のせいでミルシェリトの店を滅茶苦茶にされるのも、自分が死ぬのも。
「早くしな」
革袋を爪先で紫の方に押しやった男を、紫は睨み付けた。不思議と涙は出てこない。死ぬほど怖いが、どうせ死ぬなら。
「言いなりになんてなりませんから!」
ランタンをひっつかみ、男へと投げる。紫が反撃してくるとは思わなかったのか、投げたランタンは見事に男の鼻へ。がしゃん、とランタンの落ちた騒々しい音を背に、紫は走る。作業部屋へと走る紫を、男は呻きながら追う。ランタンから落ちた蝋燭の火が、しゅっと音をたてて消えた。




