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 指輪に開けた穴に収まったエメラルドとにらめっこをしながら、紫は慎重に魚々子たがねで銀を押し付けていく。【魚々子留め】は、銀をたがねで押し付けて伸ばすことで爪を作っていく方法のために──宝石に魚々子たがねが当たれば、ものによっては宝石の方がかけたり割れたりしてしまう。


 琥珀や珊瑚、象牙や鼈甲、そして真珠のような【生き物由来の宝石】は欠けやすいことで知られている。大半の宝石は鉱物、無機質であり、石だけにそれなりの固さを持っている。石留めの際に少したがねが当たったくらいでは欠けたりしない。しかし、宝石には【劈開《へきかい》】という『割れやすい方向』というものがある。いくら固い石であったとしても、力を加える方向によっては簡単に砕けてしまうのだ。例えば、ダイヤモンドなどは堅くて傷がつかないものの、完全な【劈開性(へきかいせい)】を有する。落としたりなどの衝撃には弱く、運が悪ければそれだけで砕けてしまう。ただ、この劈開という性質があるからこそ、ダイヤモンドのカットが出来るという面もある。そうでなければ、ダイヤモンドのカットは相当難しくなっただろう。


 エメラルドの場合は、劈開以前に内部のヒビや傷が多く、それゆえに割れやすい。いくら慎重に作業をしていても、あっさりと割れてしまうこともあるのだ──こんな風に。


「あっ……! あああ……」


 手先が滑ってエメラルドに魚々子たがねが当たった拍子に、じゃりっと嫌な音がした。突いて割ってしまったのだ。内側にヒビが多いエメラルドだと、今回のようにちょっとしたことで割れてしまう。今はたまたま魚々子たがねだったが、エメラルドの厚みの薄さや内部のヒビの程度によっては、爪楊枝で割れてしまうこともあるのだ。


 がっくりと紫は項垂れた。自分が悪いのは百も承知だが、出鼻を挫かれたような気持ちだ。ウンディーネもなんともいえない顔で紫を見つめている。


「今度は留めますから……」


 紫の呟きに慰めるような笑みを見せて、ウンディーネが小瓶を差し出した。まだまだだなあ、と紫はため息をつく。何十回と石留めをしてきたが、それでもまだ失敗はなくせない。


 石を収める穴が深すぎてもきちんと留まらないし、浅すぎても石に十分な爪を被せられない。もちろん、穴がまっすぐあいていない──というのは問題外だ。十年やってようやく一人前、と言われるのも納得の世界なのだ。紫なんかはまだまだひよっこで、だからこそ油断してはいけない。


 先程よりは厚みのあるエメラルドを選び、紫は石穴を少し掘り削って深くした。石穴の深さは石の高さの三分の二から、四分の三程度が穴に収まるくらいが丁度いい。石留めを初めてしたときはその加減もよくわからなかったが、今はなんとなくわかるところがある。経験って大事だよね、と心のなかで頷きながら、紫はそっと魚々子たがねを近づけていく。




「思ってたよりいっぱい進められた……」


 数時間後には、彫金台の上には石を留めた指輪が七つ。ルビー、サファイア、エメラルド、それからシトリンやタンザナイト、アクアマリンにムーンストーン。色も大きさも違う小さな石が、ひとつひとつの指輪で輝いていた。アクアマリンの指輪をつまんだウンディーネが、アクアマリンに光を当て、楽しそうに石を見つめている。にこにことした顔はどこか少年のような幼さすらあった。ちょうど、新しいおもちゃを買ってもらったときの子供がする顔に見える。


「……欲しかったら、どうぞ」


 紫の言葉にウンディーネがきょとんとした。首をかしげて、良いのか、とでも言うように指輪をつつく。


「昨日も今日も、いっぱいお手伝いしてもらったので」


 洗濯物とか、さっきの酸洗いとか──と、指折り数える紫にウンディーネがぱっと顔を輝かせる。ありがとうということなのだろうか、紫の手を握ってぶんぶんと上下に振った。そんなに喜んでもらえるとは思わなかったんだけれど、と紫もきょとんとする。銀の板を丸めて作った指輪に、小さなアクアマリンを留めただけだというのに。こんなに喜んでくれるなら、もっと手の込んだものを渡した方が良かったのだろうか?

 紫が次に口を開くまえに、ウンディーネは早速とばかりに自分の指に指輪をつけていた。水のような透明の体に、指輪は違和感もなく溶け込んでいる。本人が満足そうだし、と紫は頷いて、「よく似合ってます!」とウンディーネに笑いかけた。



***



「なんか最近キナ臭いんだよな」

「キナ臭い?」


 はー、とロウシュの目の前でため息をついているのはミシェルだ。何かあったのかと短く問えば、「色々な」と疲れたような声が帰ってくる。賑やかな酒場には相応しくない声だった。……というより、ミシェルがこんなにダレた声を出すのも珍しい。白ワインで満たされたジョッキを気だるそうに傾けて、彼にしては珍しくうまくもなさそうに酒をあおる。つまみにと頼んでいたソーセージのトマト煮にはまだ手をつけていない。


「野盗に馬車でも強奪されたか」

「まーさか。俺がそんなへまするわけねえだろ?」

「だろうな」


 【冒険者】として同じパーティに属しているからこそわかることだが、ミシェルの実力は相当なものだった。この前、紫を含めて三人で山を下ってきたときに、彼はただの枝で魔物をひっぱたいて撃退していたが──ただの枝程度であの山の生き物をいなせてしまう人間はそういない。

 本人は「本業は商人」と言い張ってこそいたが、ただの商人にしては身のこなしが慣れている(・・・・・)。昔々に冒険者の真似事のようなことをしていた、とは本人も言っていたが。

 見た目は優男とか、まるで貴族の青年かのような雰囲気を持たせてくるこの男の中身が、実際はどんなものなのか──。それは、きっとこの男に刃を向けられない限りはわからないだろう。飄々として陽気なくせに、時折ロウシュも驚くほどの反応を見せるのがミシェルだ。そのミシェルが「キナ臭い」と口にするのが気になった。


「【闇に親しむもの】が、どうやら強盗紛いのことをしてるんじゃないかって話があってな。人と組んで仕事(・・)してるらしい」

「【闇に親しむもの】が?」

「妙な話だろ。あいつらにとっては俺たち人間なんかただの【餌】でしかないと思ってたんだけどさ。人と組んでるヤツがいるらしいぜ」


 人間と組んでいるのか、と呟いたロウシュに「そうみたいなんだよなあ」とミシェルが深々とため息をつく。


「【闇に親しむもの】は、人間と比べたら段違いに身体能力も高いからな。……組まれるとなると厄介だ。人間の悪知恵にあいつらの力が合わさるとなると、普通の人間には太刀打ちできなくなるしよ……」


 楽に商売させてくれよォ……とミシェルがぼやく。切実な問題だろう。商人の敵は強盗や野盗と相場が決まっているし、ミシェルのようにほぼ一人で動くような商人にとっては悪夢のような話だろう。それは確かにキナ臭い。


「先月は一人やられたって話でさ。絹織物専門の商人がレッド・キャップ(赤帽子)に滅多うちにされて──」


 ようやっとミシェルはフォークを手にとって、トマトのソースを纏ったソーセージを突き刺した。ぴち、と皮の弾ける音とともに、トマトソースが飛ぶ。あぶね、とミシェルは間一髪のところで白いシャツにシミをつけずにすんだ。


「ご自慢の帽子どころか、新調したての外套まで真っ赤に染まった姿で発見されたって。やっこさんが運んでいたはずの絹織物がまるごと消えていたから、強盗だとわかったんだと」

「食事中には嬉しくない話だな」


 魚の薫製をかじりながら、ロウシュは眉根に皺を寄せる。全くだよとミシェルもぶうたれた。ソーセージを一口かじって、「あっうまい」などと気の抜けた言葉も漏らす。


「久しぶりに同業者の食事会に出向いたらこんな話ばっかりでさ。気も滅入るっつうの」

「赤帽子ばかりが人と組んでいるのか?」

「そういうわけでもないみたいでな。吸血鬼(ヴァンパイア)食屍鬼(グール)の痕跡も残ってる。血が残っていない鉱石専門の商人とか、四肢を食いちぎられたまま自宅で放置されてた冒険者とかな。人気のないところにあった小屋だったから発見も遅れた。見つけたときにはもう……。大方、人が押し入って家主を殺してから食屍鬼に死体の始末を任せようとしたんだろうが──あいつらほぼ脳ミソ無いからな。まるごと食べてもらう算段だったのが狂ったんだろ。後に残ったのは食いさしの家主ってわけだ」

「食屍鬼か……」


 あれはタチが悪い、とロウシュは舌打ちをする。何度か出会ってしまったことがあるが、食屍鬼と出会うくらいなら腹を空かせた野犬十匹と出会った方がましなのだけは確かだ。生気のない青白い肌に大柄な体躯、虚ろな瞳。それに何とも形容しがたい、血生臭く吐き気を催すようなあの「屍」の臭い。何度思い出しても鳥肌がたつ。生きた人間を見ようものなら、殴り付けて引き裂いて、そうして穢く食い散らかしていくのが食屍鬼だ。


「お前も気を付けろよ。小賢しいことに、あいつら大人数の商隊より俺たちみたいな単騎の商人やら冒険者やらを狙ってるみたいだから。それも、出来るだけ高額で持ち逃げしやすいものばっかりを狙ってる。香辛料だの金鉱だの。お前は香辛料は扱わんが、金鉱だの宝石だのには縁があるだろ」

「わかった」

「下手すると、今日みたいな満月の夜に家にいても安心できなくなるかもしれねえからなあ……」


 馬鹿なことしやがって、とミシェルも舌打ちした。ロウシュも全く同じ気持ちだ。【闇に親しむもの】は満月の夜に外に出るから遭遇してしまうのだ、というのが一般的な認識だ。けれど、自宅で食い散らかされた姿で見つかったという冒険者の話を聞けば、その認識も改めていかなくてはいけないのかもしれない。


「……今日は満月か」

「おう。……早めに宿に帰れよ」

「いや。ユカリが心配だ」

「ミルシェリトが結界張ってたし平気じゃないか? ウンディーネもいるだろ」


 お前が人の心配をするなんて珍しい、とミシェルはジョッキに残った白ワインを飲み干す。


「……ミルシェリトの結界は確かに強固だが、ユカリはお人好しだから。恐らくミルシェリトのことだから、ユカリに結界の【綻び】を作る方法も教えているだろう。……狙われる条件も揃ってる」

「ん?」


 ロウシュの言葉にミシェルは首をかしげる。どういう意味なのかとミシェルは問おうとして、顔をさっと青くした。


「人気のないところに小屋。持ち運びやすい宝石を取り扱ってる……少し前に俺が宣伝しちまったし、狙おうと思うならそっちに行くよな……! でもって、俺もミルシェリトも【闇に親しむもの】にはすげえ気を付けろって話したけど……!」

「ユカリは相手が人なら簡単に騙されると思う」


 人と組んで悪さをしているのなら、とロウシュは席をたった。ミシェルも慌てて席を立ち、「念のために連絡してくる」と口にした。


「連絡?」

「ミルシェリトと──それから、知り合いのクルースニク!」


 コートのポケットから札を何枚か取りだし、「釣りはいらないから、二人分」とミシェルが給仕の男性に手渡す。急いで店を飛び出してどこかへと立ち去ろうとしたミシェルに、ロウシュは「恐らくは人狼か吸血鬼だ」と声をかけた。ミシェルの知り合いのクルースニクがどれ程の腕前かはわからないが、おおよその見当がついていた方が対策が立てやすいのも確かだろう。


食屍鬼(グール)よりは余程賢いし、あいつらは……ヒトに近い。言葉も通じる。人の方も【闇に親しむもの】の方も、安心して組めるはずだ」


 少なくとも俺ならそうする、とロウシュは心の中で呟く。


「わかった!」


 ひとつ頷いてミシェルが走っていく。ロウシュは空を見上げて、太陽の位置を確認した。日没まではあと二刻ほどだろうか。余裕がないわけではないが、十分な時間があるわけでもない。

 何にしても嫌なタイミングだ、と腕のバングルを押さえてロウシュは舌打ちをもう一つ。慣れ親しんだあの場所に戻るため、走り出した。


 



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