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「つい長居しちゃったな。ごめん」
「いえ! 面白い話をいっぱいきけて、楽しかったです」
帰り支度を始めたミシェルが、「戸締まりはしっかりな」と声をかけてきたのに「もちろんです」と紫は返す。ミルシェリトもミシェルも、【闇に親しむもの】についての知識が豊富なようだ。
お詳しいんですね、と紫が聞けば、「旅が身近な人間なら嫌でも覚えちまうことだよ」とミシェルは笑った。彼らから身を守る方法、あるいは彼らの恐ろしさをミシェルはたっぷりと語ってくれたが、紫としては何となくお伽噺のような、どこか他人事のような気もしてしまう。実感がわかないのだ。
それでも、ミシェルが教えてくれた話の登場人物のような目に遭うのは怖い。
──吸血鬼に噛まれて吸血鬼にされてしまった令嬢、月夜の赤帽子に襲われた旅人──。聞かせてもらった話にもある程度の脚色はあるのだろうが、戸締まりはしっかりしよう、と心に刻むには十分だった。
とはいえ、吸血鬼は招かなければ家には入れないそうだし、その他の【闇に親しむもの】については人家にわざわざ入ってくるような真似はしないらしい。満月の夜に出歩いたりしなければ、滅多に出会わない者たちだとミシェルは話してくれた。
「あの、ミシェルさんも気を付けて。明日が満月なんでしょう?」
「うん。ありがとう。俺も気を付けることにするよ」
それじゃあ、とミシェルは去って行く。お気を付けて、と紫もその背を見送った。
すっかり見えなくなってしまったミシェルの背を思い出しながら、ミルシェリトさんはいつ帰ってくるのかな、と扉の鍵をかけ直す。
***
「やりますか……!」
ずらりと並んでいるのは昨日作ったフリーサイズの指輪たちだ。なまして丸めただけの指輪ばかりだから、表面がまだ白っぽい。その上、叩いて丸めたときの細かな傷が所々に残ったままだ。今日はこれらの傷を取り除いて、時間があれば石を留めようと紫は考えていた。
こちらに来たばかりの頃、指輪を磨くことはそう難しいことでもないだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。なぜなら、ここには指輪を磨くときに使う【リューター】がないからだ。
【リューター】というのは簡単に言うと、歯医者さんで歯を削るときに使われる、キィィィン……と独特な音のするあの機械だ。厳密にはもっと彫金に向いた機械になっているが、機械のおおよその仕組みは歯医者さんのそれとあまり変わらない。
各工程で必要に適したアタッチメントをつけて、研磨作業をしていくものだ。とても便利で、紫の通っていた彫金学校でも一人に一つずつ用意されているような代物だ。
しかし。この世界にはそんなものはなかった。すべて自分の手で磨きあげなくてはならない。幸いにもやすり自体は存在しているから、やすりで磨いていくことは可能だ。地道で時間のかかる作業ではあるけれど、少し不便なくらいが技術を身に付けるのには良いことだろう、と紫は考えることにした。ないものをいつまでも嘆いたところで何も変わらないのだから。
やすりで磨いていくにあたって、紫が面白いと思ったことがある。
一般的に、【宝飾品の形を整える際に使うやすり】は金属でできている。一方で、【宝飾品を磨く際に使うやすり】は耐水性の紙製のものだ。時折水につけ、削った際の金属の粉を落とすために、耐水性の紙のやすりを使うのだ。紙であれば金属のそれとは違って柔らかく曲げることもできるし、細かなところまで磨くことができる。なぜ水につけるのか、と言えば、削り粉がやすりについたままだとやすり目が詰まり、うまいこと削れなくなってしまうからだ。水につけて揺らすことで、目につまった粉を落とすのだ。
こちらの世界では耐水性の紙は存在しない。その代わりに、水性生物の皮を使うらしい。サメの皮や、サメと似たような生き物の皮に少しだけ加工をし、工芸品などを作るときの道具、【皮やすり】にしているのだとミシェルが前に話してくれた。ざらざらとした皮は、今では使い道があまりないのだと。
昔は靴底の裏にざらざらとした革を張り、冬用の靴に──ようするに凍結した道を歩く際などの滑り止めにしていたらしいが、今はもっと便利なものがあるらしく、だんだん使われなくなっていったそうだ。
話は彫金のことへと戻るが、何かをやする際には、目が荒くざらざらとしたものから、目が細かくさらさらとしたような感触のものへ持ち替えて使っていくのが基本だ。
【皮やすり】を使い始めた頃、紫は、生き物の皮で目の荒さを段階的に細かくしていけるのだろうか、と不思議に思った。また、使いなれた紙やすりではなく生き物の皮でどうにかできるのか──と不安にもなったが、案外なんとかなるものだ。やろうと思えばいくらでも応用はきくんだなあ、と感慨深い気持ちになってしまう。道具が足りないからといって、諦めてはいけない。
手袋をはめた左手でリングを持ち、その表面に目の荒い皮やすりを当てる。手袋をはめたのは、素手で行えば皮やすりで手も擦れて痛くなってしまうからだ。紙やすりではこういうことは滅多にない。が、天然素材の皮やすりとなると、研磨剤代わりとなっている鱗にも鋭いところや、時折他の鱗より尖っている場所などがある。そのため、うっかりしていると手を擦ってしまうことがある。サメの皮に手を何度も強く擦り付けたことがあるだろうか。ちょうどあんな感じだ。
使い始めたばかりの頃は、皮やすりのそんなところには気付かず、何度か手を擦ってしまったことがある。いくらザラザラしていると言っても、たかだか鱗だ──と甘く見てしまいがちだが、金属を削ることができるだけあって、なかなかに痛い。血こそ出ないがヒリヒリするのだ。水で手を洗ってもひりつくし、擦ってしまった場所に何かがふれてもピリピリとする。
指輪を擦るうち、白っぽかった表面が段々と元の銀色に近づいていく。近くにおいたマグカップの中の水に何度か皮やすりを浸けて、やすり目につまった削り粉を落とした。削り粉で少しずつ水が濁っていく。
白っぽいものが完全にとれ、表面の荒さもある程度ならせたところで、荒い目のものから細かい目のものへと皮やすりを持ちかえる。
先程まで使っていたのは、イモリに似た生き物の皮でできたやすりだそうだ。普段は湿地に棲んでいて、餌となる小さなカエルなどを見つけると、ざらりとした体を押し付けるようにして体当たりするのだとか。このイモリのような生き物のざらざらとした突起には、神経を麻痺させる毒が滲んでいる。皮膚の柔らかな生き物であれば、皮膚を擦ったときにできる傷口から突起の毒を染み込ませ、動けなくすることができる──というわけだ。皮やすりに加工する際は神経毒も抜き去ってしまうから、こうして安全に使える。
紫が次に持ちかえたのは魚の皮やすりだ。細かい鱗を持ったこの魚の皮やすりは、ダメになるのが早いとミシェルから聞いている。細かな鱗の強靭さに反して、表皮は案外繊細なんだそうだ。使っているうちに破れてくるのが当たり前だそうだから、びりびりになったら諦めて取り替えてくれ、とのことだった。
この魚の皮やすりは小さな指輪を一つ擦り上げるのが限界らしく、使うたびに皮の切れ端が散らばるのが少々困ったところだ。しかし、使用感に関してはさしたる問題もない。手早く指輪をひとつやすりがけして、紫はまた次の皮やすりを手に取っていく。紫の手持ちの皮やすりはサメの皮のものが一番細かいが、探せばもっと細かいものもあるとのことだ。必要になったら取り寄せてくれるとミシェルが言っていた。
すべてのリングにイモリと魚のやすりをかけ、紫はほう、と息をついた。手を動かしすぎたのか、手が固まったような感覚がある。まるで今日はもう動きたくないとでもいうようだ。そんな自分の手に苦笑いして、今日はここまでにしておこうかなと伸びをする。気づけばもう日が暮れていた。
「明日は……もっと細かいやすりをかけて、磨き終えたら石を留めよう」
興味津々と言ったように紫を見つめるウンディーネに聞かせるように口にして、作業机の端においてある小さな小瓶を手に取った。中には色とりどりのメレサイズの石が詰められている。まるでミニチュアサイズのキャンディボトルのような可愛らしさがあった。
このメレサイズの石のつまった硝子瓶は、ミルシェリトからもらったものだ。原石をカットする際に出てくる欠片を、ルースとして使えるように研磨してくれていたのだ。彫金の練習用に、あるいは紫が宝石を扱うことであらわれる、特別付与の効果を試せるようにと。
中に詰まった宝石たちの大きさは、大きいものは三ミリくらいだ。小さいものならば二ミリに達するかどうか、というような石だから、全体的にみても大きいとは言えない。
けれど、だからこそ冒険者用の宝飾品にはぴったりだと思った。石が小さければ値段もある程度は抑えられるし、大きすぎる石は彼らにとって邪魔なだけだろう。
色とりどりの石たちは小さくとも美しかったし、見ていてうっとりしてしまう。指先でつついたつるりとした瓶の表面に、興味深そうなウンディーネの顔が映る。彼は自分が宿っている大きなサファイアと、小さな瓶の中に納められたうちの一つである小さなサファイアを見比べていた。何やら感心したような顔を見せているのが紫にも気になるところだ。
「それじゃあ、また明日。……明日はもうちょっと面白いものが見せられると思います」
やすりがけはちょっと地道すぎですもんね、とウンディーネに小さく囁けば、ウンディーネが小さく笑う。そうした紫は彼を指輪に留められたサファイアへと戻す。青い石がきらりと光った。
もうそろそろ夕方だった。部屋のなかを温かい赤の光が包み始めている。
青から黄色へ、黄色から薄紅へと変わっていく窓の外を、蝙蝠が飛んでいる。
ここへ来てから、紫は色々な生き物を見かけることが多くなった。一番最初に出くわしてしまった熊もそうだけれど、紫がテレビや本のなかでしか見たことがなかったような生き物が、野生の生き物として森にすんでいるのだ。
紫は走る鹿を近くで見たことはなかったし、飛んでいる蝙蝠も、花の茎をかじっているうさぎも見たことはなかった。だからこそ今は、窓の外を見ているだけでも楽しい。
きっと、ウンディーネもこんな気持ちなんだろうな、と紫は考える。精霊の世界がどんなものなのか紫は知らないが、あれほど興味深そうに人のしていることを眺めているのは、彼が知らないことばかりだからなのではないか。紫が窓の外の生き物を見ていて飽きないように、ウンディーネも人を見るのに飽きていないのだろう。何かもっと面白いものを見せることが出来たら、と紫は思う。洗濯まで手伝ってくれた彼なのだ。彼に手伝ってもらうことはこの先も多いような気がしている。だから、紫もそれに応えられるように、彼に何かしてあげたい。そう思った。




