プロローグ 3
ふと目覚めたら森の中だった。
おかしいなと紫は首を傾げる。自分は通っていた彫金学校の卒業式に出て、それからぶらぶらとしていただけだったのに。
ふらふら歩いて迷子になったのかとも思ったが、それにしては広大すぎる迷子だ。確か、駅前の――紫が好きだったジュエリーショップのショーウィンドウを見たところまでは記憶があるのだけれど、それ以降の記憶はない。すっぽりと抜け落ちている。
誰かが気を失った自分を山の中か森の中に連れてきたのだろうか。いや、それなら自分はもう死んでいるはずだと紫はぼんやりと思った。死体遺棄に森や山は選ばれやすいが、生身の人間を放置するためだけにこんなところには連れてこないだろう。
早朝か夕暮れ時か。
あたりは薄暗く、当然人の姿もない。
――ここはどこだと言うのだろう。
不気味な鳥はぎゃあぎゃあと鳴いているし、――いや、もしかしたら不気味な鳥などではなくてカラスなのかもしれないが、いやいや、カラスも十分不気味。
そんなことを頭の中だけでつらつらと考える。何か考えていなかったら死にそうだ。紫を押しつぶすかのように鬱蒼と高い木の生育する森は、紫の見慣れない土地だった。
日本にこんな場所あったっけ? と紫はきょときょととあたりを見渡す。針葉樹林。そうとだけいえた。松だの杉だの、葉が針のようになった木ばかりがそびえている。やはり山の中だろうかとも考えた。この際、山か森かはあまり関係ないのだが。
とりあえず立ち上がる。
気づけば、自分は見慣れた格好をしていた。
卒業式に着ていった礼服ではなくて、いつもの動きやすい服装にデニム地で作られたエプロン。紫が彫金をするときに身につけている大事な“相棒”だ。丈夫な布だからヤスリが引っかかって破けることもないし、化学繊維で作られたもののように焼けやすいこともない。彫金には火気が不可欠だ。燃えやすいのは困る。
卒業式に行ったのが夢だったのかなと紫は考えた。エプロンをつけていたということは彫金中だったのかと。しかし、それにしては手も汚れていないし、何よりエプロンが綺麗だ。彫金中は金属の粉が舞ったりするから、エプロンは何かと汚れるのだが。
けれど、彫金中にエプロンをつけて外にでると言うことが紫の中ではあり得ない。彫金中に席を外すとなるとせいぜいトイレ、または飲食か。森の中まで来るようなことは一切無いし、それは彫金中でなくてもだ。紫は森にくるような用事を持ったことは一度もない。
と、なると。
わざわざ紫をエプロン姿にして、森に放り込んだ輩がいると言うことになるが――残念ながらそんな記憶もない。何か持ち物はないかと紫はあたりを見渡したが、財布も携帯も何もなかった。身一つ。まさにそんな感じ。
「――あ」
財布も携帯も、おそらく一般的に必要なものは何一つとしてなかったが、紫が一番大切にしている指輪は紫の小指で光っていた。シルバーで作ったピンキーリング。紫が初めての授業で作ったそれには、紫色の石がはめ込んである。お気に入りだからと毎日つけていたせいで指輪の表面には傷が付いているし、初めて作ったものだから、技術を身につけた今では少々不格好なリングではあるけれど。
――一番大事なの。
紫の一番の宝物だ。
紫の細い指にはまるピンキーリングは、きらりと控えめに光った。柔らかい光はいつもとは少し違った雰囲気を持っているようだけれど――多分気のせいだろう。
これがあるだけで気分が少し違う。お守りとして作ったわけではないけれど、いつのまにか紫のお守りとなっていたものだから。
財布もないし携帯もないのでは、外部に連絡を取ろうにもとれやしない。その上、紫は保護者がいない。二人とも旅行先で交通事故にあっているから、今や紫は一人暮らしで。彼女がいなくなっても誰も不審には思わないだろう。――否、気づいてくれない。紫の記憶が確かなら、今日は卒業式だったのだから、紫はもう学校にも行かないし。
よいしょ、と立ち上がって、ゆっくりとあたりを見渡した。みたところ、どこを見ても木だ。ブロッコリーを“濃縮した森”と評した人の話を耳にしたことがあるが、紫の感覚ではまさしくこれこそが“濃縮した森”だ。どこまで行っても森。見慣れたコンクリートとアスファルトが恋しい。
ぱきぱきと落ちる小枝を踏みながら歩き、紫はどこか整備された道に出ないかと期待を寄せる。
道路に出れば車くらいは通るだろうし、そうすればうまくいけばひろってもらえる。そうしたら、ここがどこなのか聞けばいい。少なくとも日本だろう。海外にまできた覚えはないのだから。
歩いているうちに募るのは不安だ。今自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、何故こうなったのか。何一つわからない状況はじわじわと紫を恐怖に染めていった。
不意に後ろから微かな音がした。かさり、と小さくたてられた音は枯れ葉を踏みつけた音だろう。人かもしれないと期待に満ちて振り返る紫の顔は、すぐに恐怖に凍り付いた。
凶暴さを象徴するとがった爪とするどい牙。血のように赤い口の中が見えるのは、それが大きく口を開けているからだ。だらだらと垂れる涎が地に落ちて、落ちた落ち葉の先が他の葉と触れあってかさりと微かな音を立てている。
毛むくじゃらで、大きなそれ。
二本足で紫を見つめていたのは――熊だ。
はくはくと口を開け閉めする。
嫌、と、微かな――声にもならないような空気の塊が漏れた。
うまく叫べない。喉の奥に空気の塊が詰まっているかのようだった。
熊をじっと見つめたまま後ずさり、紫は瞳に涙をためる。
ここがどこかとか、何でこんなところにだとかはどうだって良い。何でこうなっているのか――誰か、助けて。
「ま……く……」
ふるえる紫の唇からは、小さな言葉だけが漏れている。
がさり、と熊が音を立てて紫に近づいた。黒に近い茶の毛の一本一本が見える気がする。熊と紫の距離は大股で七歩ほど。
「まだ……にたく……」
熊はまたも近づく。はっ、はっ、と荒い吐息が聞こえるようだった。ひっ、と息をのんでから、紫はふうと息を吐き出す。もう一度吸い込んだ。
ふと、喉に詰まった空気が取り除かれるような気がした。
本能に従って叫んだ声は――紫の声はするりと空気を切り裂いた。
「まだ! ――まだ、死にたくないッ!」
紫の発した声に導かれるように、紫と熊の間に割り入った一つの影。
黒い髪をゆらして、紫の見たこともないような細い剣を手にした青年。
彼は紫を熊から遠ざけるように。熊に切りかかっていった。