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工房が薄暗くなってきたのを感じて、釘付けだった彫金机から紫は顔をあげる。
手元がずいぶん暗いと思えば、もう日も沈むらしい。暗いのも納得だとうなずきながら、今日はここでおしまいにします──とウンディーネに告げた。ウンディーネは一つ頷いて指輪へ。青い光に包まれて、泡のように消えていった。青い光が静かにサファイアを煌めかせ、そしてゆっくりと消える。
「……つくりすぎちゃったかな?」
机に並んでいるのは丸めた指輪が十数個。
材料をあまり使わないから、とついついやり過ぎてしまった感じのある光景だ。今回はロウ付けもせず、ただ丸めただけの指輪だから作業が進むのも早かった。
なぜ丸めただけなのか。
それは、そちらの方が融通が利くからだ。視力検査のランドルト環のように一部を開けておくことで、指輪の号数にある程度の融通が利くのだ。いわゆるフリーサイズ。ただし、あまりにも指の太さが違えばつけることはできないが。
「明日はこれを磨いて、時間があったら石留めしよう」
いっぱい作っちゃったなあ、と笑って、紫は窓辺に近寄る。窓の向こうで大きな鳥のようなものが羽ばたいているのが見えた。遠いせいでよく見えないが、もしかしたら蝙蝠や大きな虫なのかもしれない。
夕日の沈んでいく光景は綺麗で、時間と共に色を変えていく光に、空に、紫はしばし見とれていた。
橙色から薄い紫へ。群青から深い青へ。
そうして昇ってくるのは、まだ満ち足りぬ十三夜月だ。暗くなった窓の向こうを見つめて、紫はカーテンを閉める。たった一人の家に寂しく思いながら、昨夜作ったポトフを温め直そうとキッチンへと向かった。寒くて寂しいときには温かいものを食べるのがいいだろう。たった一人で毎日を過ごしたあの頃を思い出す。両親がなくなった直後は、いつもこんな気持ちでいたのだ。
「……でも、今は一人じゃないし!」
つかの間の寂しさに独り言が増えるのを自覚しながら、紫は温め直したポトフを口にする。コンソメで柔らかく煮えたキャベツ、ほくほくのジャガイモ。塩気の効いた腸詰めは皮がパリッと破れて、中から旨味が溢れ出す。ひとりでも美味しく食べられたけれど、やっぱり、みんなで食べた方が美味しい。ミルシェリトさんが早く帰ってきてくれないかな、と思いつつ、紫は食事を終えた。
冷えた朝の空気で目を覚まし、紫はベッドの上で伸びをする。ぱきぽきと体が鳴った。しめていたカーテンを開けて、窓の向こうを見る。きれいな朝焼けだ。空気の入れ換えくらいならいいだろうと窓を開ければ、爽やかな風が入ってくる。朝はやっぱりこうでなくちゃ、と頷きながら、キッチンにたって朝食の準備を始めた。パンの上にチーズとハムをのせて焼いたものと、それから野菜スープ。フルーツが少し。立派な朝御飯だ。
朝は一日の始まりだからね! と、ミルシェリトがよく言うのだ。こちらがわに来るまでは朝御飯は適当なもので済ますことも多かった紫だが、ミルシェリトが朝御飯をしっかり食べるタイプだったからと、紫もそれにならって、今ではきっちり食べるようになった。
「洗濯物とそれから掃除……昨日の指輪の完成と……それから、お昼頃にミシェルさんがくるんだっけ……?」
お昼頃にいらっしゃるなら、お昼御飯は作っておいた方がいいかな、などと紫は考える。山を越えてこちらに来るのなら、きっとお腹もすいているに違いない。それでなくても、わざわざ紫の様子を見に来てくれるという話だし、感謝の気持ちくらいは伝えたい。指輪の完成はミシェルさんが帰ってからでもいいな、と紫は考えた。彫金をしていると手が汚れるものだから、そんな手で人に会うのは気が引ける。それに、洗濯をして掃除をして……としているうちにはもうお昼にもなるだろう。まずは洗濯から、と金属の粉のついた衣服や、昨日着た服をまとめてかごの中にいれる。
元いた世界のように洗濯機でもあれば手早くすむだろうが、当然ながらそんなものはない。自分でたらいに水をはって、そこで洗うしかないのが現状だ──しかし。
紫が身につけていたサファイアの指輪が、キラキラと光り出す。いつものようにサファイアに触れれば、ウンディーネが飛び出してきた。どこか得意気な顔をしているのは気のせいだろうか?
いつものように洗濯風景でも見たいのかと、紫は裏口に近いところにある洗い場へとウンディーネをつれていく。洗い場は家の中にあるのだ。まだほんのりと寒さを感じる、春の初めのこの頃にはありがたい。こうして外に出なくてすむのは、水が引いてあるからだ。
ポンプ式の水道とでもいうべきか、紫の世界なら映画やドラマのなかでしか見ないような水を汲むものがあり、そこでたらいに水をはって、洗濯をするというわけだ。水を引く前は近くの川に洗いにいっていたんだよね、と前にミルシェリトが話していた。その話を聞いたとき、そんな頃にここに来なくてよかった──と紫はつい思ってしまった。
たらいに水を張ろうかとポンプのレバーに手をかけた紫を、ウンディーネがちょいちょいとつつく。首をかしげれば、ウンディーネがかごの中の服をすっと拾い上げた。
「あっ」
拾い上げた服を水球に閉じ込めて、ウンディーネは紫のウインクをひとつ。そういうことか、と紫は少し笑ってしまった。洗濯するのをよく見られていると思ったが、まさかこういうところで手伝ってくれるとは思わなかった。
「ありがとうございます」
すべての服を水球に閉じ込め、ウンディーネは洗い場の隅においてある瓶を指差す。その中には液体石鹸代わりのものを入れているのも、彼は把握済みらしい。中身は植物から抽出した液体で、石鹸みたいに泡立つのだ。紫がそれを一たらししたところで、ウンディーネはにやりと笑って水球のなかで渦を起こし始めた。初めての試みだからなのか、ウンディーネ本人も楽しそうだ。水球のなかで泡が右往左往している。精霊に洗濯を手伝ってもらっても良いのだろうか、という考えが紫の頭を掠めたが、ウンディーネが手伝ってくれるのはありがたかった。
水が汚れてきた頃、ウンディーネが宙にもうひとつの水球を作り出す。器用に服だけをそちらに移し替え、汚れた水球は洗い場の排水溝にそっと落とした。紫が水を替えて濯ぐのも、しっかり見ていたということだろう。同じ要領で濯ぎも終えたあと、洗い場においたたらいに水球を落とした。さすがに脱水はどうにもできないらしい。
「お手伝い、どうもありがとうございます」
助かります、と紫が口にすれば、ウンディーネは少し気恥ずかしそうに微笑んだ。ウンディーネが洗ってくれた服を絞り、水をきる。二階にあがり、ベランダのようなスペースにはったロープに洗濯物をかけていく。今日は風も穏やかだし、洗濯物が飛んでいくこともないだろう。
次は昼御飯の用意だ。洗濯を手伝ってもらったぶん、時間には余裕がある。
何がいいだろうかと考えて、使える食材を見てみる。パン、卵、牛乳、それから野菜。チーズとベーコンが少しあるのを思い出した。
「キッシュ……を作るのにはパイ生地がないけど」
幸いというべきかバタールがある。少し考えてから、紫は調理に取りかかった。そんな紫をウンディーネは興味深そうに見つめている。
紫は使い方にも慣れてきた、こちらの世界のオーブンに火をいれた。こちらの世界のオーブンは、金属の箱の一面にガラスがはまったような形をしている。これをかまどのなかに入れてオーブンとして使うのだ。つまり、火で直接温めて使う形のオーブンというわけで。元の世界だったなら、なかなかに珍しい前時代的なオーブンだろう。電子オーブンが家にあった紫としては、こういう形のオーブンに触れるのは久しぶりだ。というのも、紫は中学校の家庭科の時間でガスレンジにかけるタイプのオーブンを使ったことがあったのだ。
だからこそ、洗濯のように戸惑いはしなかった。火をつける際にもライターのような魔法道具があるから、特段不便だということもない。【進歩した科学は魔法と区別がつかない】という言葉があるけれど、進歩した魔法もまた、科学と区別がつかなくなるんじゃないか──と紫は思った。少なくとも、ライターのように気軽に使える魔法道具がここにはあるのだ。なかったとしても、何か代わりに使えるものが必ずある。使いはじめは少し不便かもしれないが、何事も慣れれば使いやすくなってくるものだ。
まずはタルト生地の代わりになるバタールの下準備からだ。バタールの上の四分の一ほどのところを薄くスライスして切り取ったあと、その中の柔らかい部分をくりぬく。バゲットほど大きなパンではないから、使うバタールは一人ひとつで良いだろう。中身をくりぬき終わったバタールを、温めたオーブンに入れた。オーブンを開ける瞬間は熱い空気が顔を撫でるのにどきどきしてしまうが、それもなんだか楽しい。
玉ねぎ、ニンジン、ピーマンなどの野菜を手早く切って、ブロック状のベーコンもサイコロ状に切る。一株残っていたキノコをほぐしながら、かまどの上においたフライパンにバターをひとかけ。バターが溶けた頃合いを見計らい、野菜とキノコ、ベーコンをフライパンへ。玉ねぎがしんなりして甘い香りが漂った頃、香ばしいパンの香りも漂ってくる。オーブンにいれていたバタールを取り出して、紫はそこにバターを塗った。こうすることで、あとに入れる卵がパンに染み込むのを防げるのだ。
炒めた野菜やベーコンを塩と胡椒で味つける。いつもならロウシュの分は胡椒抜きにするけれど、今日は彼がいない。ミシェルさんは胡椒抜きじゃなくても平気だったよね、と一人で頷きながら、紫は炒めた野菜を少しだけ味見した。悪くない味だろう。
ボウルに卵を割りいれてときほぐし、牛乳を加えてよく混ぜ合わせる。そこへチーズを削りながらいれて、炒めた野菜とベーコンもいれて混ぜ合わせた。大きめの匙でそれをすくい、焼き上げたバタールにそっとつめていく。具材を多くいれてしまったせいか、パンの器の縁ぎりぎりになってしまった。卵液をこぼさないように慎重にオーブンにいれる。
「……あとは焼き上がれば大丈夫」
キッシュはパイ生地を作るのが少々手間だが、パンを代用してしまえばそれなりのものは出来る。キッシュとは食感が変わってきてしまうけれど、紫はパンを使ったものも好きだった。ほうれん草があればなあ、とオーブンにいれたキッシュをじっと見てしまう。ほうれん草とベーコン、キノコをいれたキッシュが紫のお気に入りだ。焼き上がるまでに調理器具などを洗いあげ、料理に興味津々だったウンディーネに「食べてみますか?」と少し余ったベーコンや野菜をパンにのせて差し出してみる。精霊が食べ物を食べられるのか、少し気になっていたのだ。
ウンディーネは少し笑ったあと、首を横に振った。食べないということだろう。あるいは食べられないという意味か。ただ、彼は紫をつついてとある瓶を指差した。酒の瓶だ。中身は白ワイン。気が向いたときにミルシェリトが飲んだりもしていたが、基本的には調理用においてあるものだった。
「……ワイン?」
こくこくとウンディーネが頷く。
精霊はワインが好きなのか、とグラスにワインを注ぎ、ウンディーネへ差し出す。ワインを注いだグラスにウンディーネは手をかざし、手からワインをゆっくりと吸い上げていく。水のような体をしているからだろうか。体にゆっくりと吸い込まれていくワインを、紫はしばらく見守ってしまった。
「ワインかあ……」
ワインが好きなのかあ、と紫は思わず呟いてしまう。神様にお酒を捧げることもあるし、と何となく納得してしまった。ウンディーネの方は何となく上機嫌だ。精霊もお酒に酔ったりするのだろうかと思ってしまう。そうこうしているうちに、玄関のドアベルが鳴らされた。
「ミシェルさんだ」
ちょうどキッシュも焼き上がった頃合いだ。良いタイミング! とキッシュをオーブンから取り出して、紫は玄関へと向かう。




