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プロローグ 2

 危ない、ぶつかる。

 そう思って目をきゅっと瞑った紫の予想とは裏腹に、紫は堅いものにぶつかることはなかった。そのかわり、何だか温かく、なめらかな布のようなものに頬を寄せている。


 何だろう、と目を開ける。目の前は真っ()だった。真っ()ではない。恐る恐る、顔を上げた。


 黒い髪、少し切れ長の黒い瞳、整った顔。それを台無しにするかのような道化師の笑み、そして奇妙な紫色のアイメイク。

 

 ――ショーウィンドウから紫を見ていた、不審な黒い男。


 驚く声は出なかった。恐ろしかったからだ。目の前の男が何故実際に存在しているのか、そんな男に何故抱きしめられているのか。思わず突き飛ばして、紫はへなへなと座り込んでしまった。座り込んで気づく。感触がない。座った感触も、触れているはずの床の温度も、何一つとして存在していない。


 夢の中で座り込んでいるような、薄い感覚。夢の中の方がまだ感触があるかもしれない。今の紫はただ座っている(・・・・・)だけだった。


 黒ずくめの男は紫をのぞき込むようにしゃがみ込み、じっと紫を見ている。紫は尻だけで後ずさったけれど、男からうまく距離を取ることは出来なかった。


 男が口を開く。


「シノノメユカリ」


 言い慣れない言葉を無理矢理口にしたようなぎこちなさがあった。びくりと体を竦ませた紫に、男はもう一度「シノノメユカリ」と口にする。


「しノのめユカり? ……しののめゆかり、東雲ゆかり……東雲紫!」


 きちんとした発音で最後に紡がれた己の名に、男は満足そうな顔をした。まるで、褒めて貰いたい子供のような顔だ。男はにまりと笑ってから、「東雲紫さんでしょ?」と子供のように首をこてんと傾げる。普通の格好で、アイメイクもなかったら可愛い系のアイドルでやっていけたのかもしれない。そんなしぐさだった。


「あっ、そんなに怖がらないでネー? 別に、取って食ったりしないから」


 ね、の発音がどこか機械的というか、浮いている。


「東雲紫さん? 違ったら否定してネ」


 紫は固まったままだ。こんな非常識な――ショーウィンドウの()に連れてくるような人間を、非常識と言わずしてなんと言おう――男に、返せる言葉なんてない。


 男は否定しなかった紫を満足そうに眺めて、「ぱんぱかぱーん!」と間抜けな擬音を口にする。お粗末なファンファーレだった。何もない空間に男の間抜けな声は消えて、紫のふるえは止まらない。


「そんなに怖がらなくても良いよお、君にお仕事の紹介にきただけだから。ネ? 悪い話じゃないでしょ」


 男は不自然なほどにこにこしている。お仕事、のあたりで紫の手のひらを取った男は、綺麗だネ、と紫のつけていたピンキーリングを指さした。シルバーの地金に紫色の石をはめ込んだだけの、紫が学校に入って一番最初に作った指輪。今はもっと良いものが作れるけれど、一番のお気に入りで紫がいつもはめていた指輪。


 ――父と母が、「綺麗だね 」と一番最初に褒めてくれた指輪。


「……っ、う」

「あっ、ちょっとちょっと! ボクは褒めてるんだから! 泣かないでよー!」


 何が何なのかわからない。人間、感情が高ぶると泣くものだと――知らず知らずのうちに涙が出るものだと言っていたのは誰だったか。高校時代にお世話になった剣道部の先輩だった気がする。凛としていて、少し異性に弱いその先輩は、男慣れしていない紫の初恋の人だった。今は多分、どこかの大学に行っているはずだろう。彼は頭も良かったし。


 ぽろぽろと流れる涙に不審な男は焦り、胸元から真っ黒なハンカチを出してきた。泣きじゃくる紫の顔を上向かせて涙を拭い、「お化粧が落ちちゃうよー」とのんびりとしている。


 涙は止まらなかった。

 両親が亡くなってしまったときに少し我慢したツケが回ってきているようだった。見知らぬ男に顔を幼子のように拭われているというのに、止まってくれと願っているのに、紫の涙は止まらない。


「泣き虫だネ。……バカだネー、泣きたいときに泣けば良かったのに。今日だって腐るほど泣けたでしょ。“ソツギョウシキ”だったんだからさ」


 よしよしとあやすように男は紫の頭を抱えて撫でる。どこか落ち着くような暖かさがあった。


「良いんだよ、泣いていいの。泣きたいときに泣かないのは意地を張る子供だけだよ。キミはもう大人だろ。泣いていい」


 ぐす、ひっぐ、とくぐもった声を上げる紫の顔は、化粧もぐちゃぐちゃで見るに見れないものだろう。けれど、男は紫の涙が止まるまで紫の顔を優しく、母のように拭い続けた。紫を抱きしめていた。逞しい父のように。


「さあ、一段落したらキミに話があるんだ。キミは宝石が好きかい? 好きだよネ。そんなキミにお仕事をあげる。可哀想な女の子には優しい性格なんだよ、こう見えてネ」

「あなたは――」

「ボクかい? ボクはとるに足らない存在だよ。すぐに忘れるし忘れてくれてかまわない。重要なのはキミの手のひらで、キミの手のひらはきっと多くを救う」

「何を言って――?」


 重要なのは、と男はにっこり笑った。

 つつ、と紫の手のひらを取って指を撫でて、「やりたいこと」と口元を引き上げる。目を細めて笑った。


「やりたいことを最後までやること。やりたいことを追い続けること。欲しいものは余さず手に入れること」


 詩を朗読するかのような、高らかで厳かな声だ。


「神はいつの世界でも、時代でも、気まぐれに優しく残酷なものだよ。ボクは今回、キミに気まぐれに優しさをあげようと思うんだ」


 残酷にも(・・・・)両親を失ってしまったキミにネ。


 男は紫の頬に手を触れ、ゆっくりと指先で紫の顔をなぞった。ゆるゆるとなぞる指先には驚くほど熱がない。冷たい指先を紫は受け入れ、男はにっこりと笑った。


「お化粧、直しておいてあげるネ。そんな顔じゃあお化けに見間違えられてしまうかもしれない」


 すっとどこからか鏡を取り出した男は、その鏡を紫の前に差し出す。完璧に化粧を施された紫の顔があった。化粧を施されてなお、まだ陰気な顔の自分。紫はふるふると首を振る。


「ん? なーに?」

「お化粧、全部取って下さい」


 陰気な顔に華やかな化粧は似合わない。そんなものは自分に不釣り合いだと紫は断った。どうせまた、どこかで泣き出してぐちゃぐちゃにしてしまうのだから。


 男は笑っている。そう、と呟いて紫の顔をのぞき込んだ。


美しくない(・・・・・)けど、いいの(・・・)?」

「私には不釣り合いです。――可愛くなくても、困りません」


 それなら――と男は紫の着ていたワンピースに触れ、あっという間に豪勢なドレスにしてしまった。ぎょっとした紫に、これならどうだいと男はにんまりと笑う。いりません、と紫はおののいた。魔法使いか何かなのか、この男は。


贅沢(・・)は好みじゃないのかな? いらないの(・・・・・)?」

「必要ありません――作業するには動きにくすぎる、から」


 男はますます楽しそうに笑って、それならばと紫の手のひらに口づけた。つけていたピンキーリングが、緩やかに、美しく輝いた。紫色の石に柔らかい光がともる。きれい、と紫は現状も忘れて呟いてしまう。


「それなら、キミにはこの輝きを贈る(・・)よ。遠慮はいらないし気負うこともない。ボクは元からあるものを磨いた(・・・)だけだからネ」


 キミだけのリングだよ、大事にしなネ。


 奇妙に、けれど楽しそうに男は微笑んで、「それでは開幕!」と舞台の幕開けを宣言した。


 そう、これは幕開けなのだ。


 男にとっては暇つぶし、運の悪い少女――否、幸運かもしれない少女にとっては、第二の人生の幕開け。


「じゃあ、ここから先はキミの物語さ。キミだけが創ることの出来る物語。――さ、行っておいで。別れのついでにボクの名前を教えてあげよう。ボクの名前はメイク。マクと呼んでくれたなら、キミの力になってあげよう――まあ、もうすぐそれも忘れるんだけど」

「――あなたは、さっきから何を……?」

「それから忠告! 神は残酷で気まぐれだ。だからこそキミは神を信じてはいけないよ。神様はいつだってキミの側にいる――でも、キミはそれをアテにしてはいけない。本当に大切なときにだけ、彼の名前を呼ぶと良い」


 あなたは、と再び紫が声を上げるよりはやく、視界は暗くなっていく。


「キミは宝石を愛し、宝石に愛される。それで十分なはずさ。美貌も贅沢も望まないキミに、ボクは一番大きな加護をキミにあげる」


 ただの暇つぶしだから、気にしなくてもいいよ。


 柔らかに、低く。

 ゆったりと響く男の声に誘われるように、紫は静かに眠りに沈む。



 次に目覚めたのは、森の中だった。




 

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