10
「元の世界……」
すっかり忘れていた、といった様子の紫に、「忘れてたって顔だなあ」とミシェルが目をゆっくりと細める。
それと同時に、ことん、とミルシェリトがテーブルにティーカップを置いた。
「――そっか、そうだよね。ユカリはこっちの世界の子じゃないんだ……戻らなきゃいけないよね、いつかは」
「何だよミル、お前も忘れてたのか」
「うん。……歳を取りすぎると良くないね、たまに肝心なことを忘れてしまう」
「エルフ達の間じゃ、お前なんてまだ中年にもなってないだろ」
忘れているのを歳のせいにするのは感心しないな、とミシェルは肩をすくめて、ここの店員は揃いも揃って腕は良いのになんか残念だな、と呆れた顔をする。店員と言ってもミルシェリトと紫だけだが、誰も否定できなかった。
「ま……俺としては三日に一度は来なきゃならない場所だ、むさ苦しい男相手に話をするよりは、ユカリちゃんみたいな女の子がいた方が嬉しいわけだが」
「僕はそんなにむさ苦しいわけじゃないと思うけどなあ、ミシェル?」
「男ってだけでむさ苦しい。以上」
きっぱりと言い切ったミシェルも、ミシェルらしいよねと苦笑いするミルシェリトも――そんじょそこらの女性よりはずっと綺麗だし、むさ苦しいという言葉は似合わない。人にはないような美しさを持つ二人は、紫を置いてけぼりにして紫の今後について悩んでいるようだった。謎の疎外感を味わいながら、紫は二人の会話の行く先を見守ることにする。
「そうだよね、つい彫金師として働いて! って頼んじゃったけど……」
「そうなんだよ。実を言うと俺も“身の振り方”とか口にするまで忘れてたんだけどな。――ユカリちゃんもお前もなじんでるから、ついうっかり」
油を塗った後のヤスリを手にしながら、そうか、と紫も頭を抱えてしまう。――が、よく考えれば、向こうの世界に戻ったところで……自分に何が遺されているのだろうか。
家族はもういない。学校は卒業してしまったし、あちら側では就職先も決まっていない。
友人はいるけれど――生活の基盤がないに等しい。両親の遺した財産でしばらくは食いつなげるだろうが――そんな生活に何か意味があるだろうか。
――そもそも。
「私、あちら側に帰ることが出来るんでしょうか」
それが紫の疑問だ。さっさと帰れるなら紫はそうしていたかもしれないが、それが出来ないからここで彫金師をしているのだ。叶わない帰宅に夢を見て生きていけるほど、紫は精神的に強くない。だから“諦めて”仕切り直した。自分のあちら側での人生は終わったものとして、ここで自分なりに自分らしい人生を送ろうとしている。
ミシェルは考えもしなかった、という顔を一瞬だけ見せた。
それがどういう意味を持っていたのか、紫には全く分からないけれど、でもその顔でミシェルがある程度“帰る方法”を知っているのではないかと思ったのも事実だ。
「ミシェルさんは――何か知っているんですか? ……その、帰る方法――とか」
「……知らないと言ったら嘘かもしれないし、知っていると言っても嘘かもしれないな。ただ、図書館に行くよりは俺の方が“越境者”には詳しいと思うぜ」
にこり、といつもとは違った微笑みを浮かべてミシェルは座っていた椅子から立ち上がる。
ミルシェリトはカップに紅茶を継ぎ足し、言葉を発さないままに一口のんだ。
先ほどまでミシェルに水球を当てていたウンディーネも、雰囲気を感じ取ったのか大人しくしている。
「“えっきょうしゃ”……?」
「境界を越える者、ってこと。“越境者”、な。簡単に言えばユカリちゃんみたいに、“別の世界からきた者達”のことを言うんだ。――これも“忘れてた”のか、ミル?」
「……ううん。伝えてないだけだよ。あんまり良い話が残っていないからね」
「良い話が残っていない……?」
暗い顔こそしなかったものの、ミルシェリトの表情は硬い。不安そうな顔を見せた紫に、ミシェルは慈しむようなまなざしを向けた。遠い誰かを見るようなその目は、切なさと愛おしさと――それから、もうどうしようもないのだ、という寂寥感に満ちているようにも見える。軽い性格のはずのミシェルがそんな顔をしたことに、紫は動揺を隠せなかった。
――越境者って、なに。
「“良い話が残っていない”……それも或いは真実か。でも、それは“他の話に目を向けなかったから”でもあるんだと、俺は思うよ。“越境者”は昔からこの世界にいた。少なくとも、俺が生まれる前には存在してた」
「……ユカリ、僕はエルフだからね。昔から生きていたからこそ、おとぎ話や伝承、それから言霊を信じる性格なんだ。だから、正直な話をすると――君に“越境者”という認識を植え付けたくない。言葉は口にすると力を持つ。その力で、言霊の力で君を縛りたくない。だから、君に今まで話さなかったんだ。許しておくれとは言わないが、ほんの少しだけ……納得してくれば嬉しいな」
二人から交互に話しかけられて、紫はこくりと頷いた。“越境者”が何であれ、どうせ世界を越えたところで紫が紫であることには変わりがない。それだけははっきりしている唯一のことだ。だから、それだけは譲らないし、譲れない。そこを譲ってしまったら、帰る場所も待ってくれている人もいない紫には、きっと何もなくなってしまう。
「俺の知っている限り、少なくとも伝承や伝説、お伽噺に載っている“越境者”は――みんな悲惨な目に遭ってる。“住む世界が違う”からそういう目に遭うんだって話さ」
「――そうなんですか」
悲惨な目か、と紫は持っていたヤスリを置く。
あまり実感がわかないというか――具体的な“悲惨”を知りたかった。
見たこともない世界に足を踏み入れているのだ。
自分が望まないままに他の世界にいるのだ。
――これもすでに“悲惨”なのでは?
悲惨といえば、向こう側では職もなければ両親も亡くなってしまったし、それだけでも十分“悲惨”と言えなくはないだろう。悲惨な目に遭うというのなら――これより“悲惨”な目に遭うというのか。だったら、その“悲惨”がどう襲ってくるのか、そちらの方が気になる。
「“悲惨”って、どんな目に?」
「ん――俺が一番よく知ってる話は、さ。普通の女の子だったのに、性質の悪い吸血鬼を手懐けた……いや、その吸血鬼と恋に落ちたばっかりに、魔女扱いされた挙げ句、山奥で死ななきゃならなかった“越境者”の話かな」
「ミシェル」
ミルシェリトが小さく首を振る。大丈夫だって、とミシェルは笑って返した。いつも通りのその笑みに、紫は小さな寂しさのようなものを感じ取った。“よく知ってる話”ではなくて、“よく知ってる人の話”だったのではないか――紫にはそう思える。
じっと顔を見つめていた紫に気づいたのか、ミシェルはへらりと笑って「そんな話ばっかりさ」と紫の頭をくしゃくしゃと撫でた。それがごまかしであることくらい、紫にもわかっている。
「でもさ、或いは――伝承にも、伝説にも、お伽噺にすらならないような、平和で穏やかな生活を続けた“越境者”もいるかもしれないもんな。悲観的になるのは良くないと思う。――が、俺は女の子が悲しむところは見たくないわけで」
「だから私に帰ることを勧めているわけですね」
「そ。……でも、俺はユカリちゃんが元の“世界”に帰る方法を知っていても、元の“時代”に帰る方法は知らない」
「それは……どういう?」
「“元の世界”に帰れたとしても、それがユカリちゃんがこっちに来た時代だとは限らないって話さ。帰ったときには百年後の世界かもしれないし、千年前の世界かもしれない。だから、帰れ帰れと俺は言うけど――それ自体がユカリちゃんにとって良いことなのかもわかんねえ」
このままこの世界に居続けたら悲惨な目に遭うかもしれない。――が、もし帰ったのが千年前の世界や百年後の世界だとしたら? 紫が知っていて、紫を知っている者が誰ひとりとしていない世界だとしたら?
それは紫にとって良い選択なのかどうか。
ミシェルはそう紫に伝えている。
「――じゃあ、良いです」
紫の中ではあっさりと決着が付いた。
ミシェルもミルシェリトも目を丸くして、短かった紫の返答に驚いているようだった。
紫も紫で案外するりと出てしまった言葉には驚いているけれど、多分どこまで考えても出てくる答えは変わらない。
「じゃあ、やっぱり元の世界には帰らなくていいんだと思います。――悲惨な目に遭っても、仕方ないなって。それより、ここでせっかく与えて貰った“居場所”がなくなってしまう方が……今の私には、“悲惨”、です」
元の世界と元の時代にうまく帰ることが出来るなら、もしかしたらその選択肢を選んでいたかもしれないけれど。
もし、紫の知らない時代にとばされたとして――またミルシェリトのように親切な人に助けて貰えるとは思えないし、紫自身、いまのこの生活を気に入っているのだ。
自分の好きな彫金をさせて貰えて、紫に親しくしてくれる人がいて。――その幸せな環境を放り投げようとは思えなかった。
「ユカリちゃんは、それで後悔しないのか」
「いえ。……多分、後悔はするんです。どっちを選んでも。……でも、私には勇気がありません。また私の知らない場所に行くのはとても怖いし、……正直、そこでやっていけるとも思えなくて」
「……そういう考え方もあるよな」
「前向きな考え方じゃ、ないですけど……でも、ここが好きだから離れたくないのも、なくしたくないのも、事実で。……ええと、だから、その……ミシェルさんが私を気遣ってくれたの、とても嬉しいです」
「いや。ユカリちゃんが選んだんならそれが一番正しいと思うぜ。――んー、じゃあ、自棄っぱちになったりしたら俺に言ってくれよ。そうしたら元の世界に帰る方法、教えるからな」
「ひどい言い草だなあ」
にやっと笑ったミシェルにミルシェリトものんびりと微笑む。ちょっとゆるんだ空気に紫も笑って、置いていたヤスリを手に取った。
さてお次はこの子、とヤスリに油を塗っていけば、光が当たったのか、小指にしていたリンクがきらりと光る。
そういえば珍しい石だよな、それ――と商人の勘が働くのか、紫の小指に収まっている指輪に目を付けたミシェルに「そっちが本物の“お守り”なんだろ」と無愛想な声がかけられた。