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「わっ……!? わあああ!」
思わず叫んだ紫はどうしていいのかわからずに、とにかくミルシェリトの元に走った。彼は博学だったし、紫の疑問にはたいてい答えてくれる。そうでなかったとしても、破裂してしまったサファイアのことを謝らなくてはいけない。紫には宝石を破裂させる能力なんて無かったはずだけれど、万が一と言うことはあるだろう、多分。紫は自分の手のひらを見つめてしまう。
まさか……と紫の顔は青ざめた。そんなことはないと思いたい。宝石に触れる度に宝石が破裂する体質なんて要らない。
紫の叫び声を耳にしたのか、ミルシェリトもまた紫の元に駆け寄ってくれていた。何かあったのかい、と心配そうにきかれて紫は「すみません……」と指輪を付けたままの指を差し出す。指輪? とミルシェリトはきょとんとした顔を隠さなかった。
「あ、出来たの? ――いつも通り、惚れ惚れする出来だねえ……巧く出来すぎて叫んだの? はは、そんなことないか」
「えっ?」
今度は紫がきょとんとする番だった。ミルシェリトは指に付けられたままの指輪をじっくりと眺め回し、艶が、とかデザインが――だとか、じっと見つめて動かない。なんだか、愛しくてたまらない恋人を見つめるような顔だ。幸せそうだから良いけれど。
自分が言うのもちょっとあれかなあと思うが、ミルシェリトはずいぶん変わった人だと思う。ちょっと危ない方向に宝石が好きなのでは――いや、それはないか。
「あっ、あの、サファイアが」
「サファイアが?」
うっとりとしているミルシェリトに、紫は意を決して声をかける。この穏やかなエルフの男性に怒られたことは一度としてないけれど、宝石を割ってしまったのだ――怒られないはずはないだろう。怒られるのに紫は慣れていない。びくびくとした態度の紫に、ミルシェリトはそれこそ宝石のように澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせる。
ミルシェリトが紫の手を高く持ち上げて指輪のサファイアを凝視しはじめた。ミルシェリトの背は紫がいた世界の成人男性より遙かに高く、目算だと二メートルそこそこはあるだろう。もっと大きいかもしれない。そんな彼に手を持ち上げられると紫には自分の手のひらしか見えなくなる。見上げても、だ。平均身長より少し低いくらいの紫だと、彼の顔を見るときには見上げなければいけないので少々首が痛い――と、そうではなくて。
「あの、サファイアが……! サファイアが水しぶきをあげて破裂してしまって……っ!」
ごめんなさい、でもこんな現象が起こるなんて知らなくて――と紫は必死に頭を下げた。何しろ、結構大きいサファイアだったし、そうでなくても石を割ったというのはショックが大きい。せっかく美しくカットされた石だったのに、と目に見えて落ち込んでいる紫に、「なんともなっていないよ」とミルシェリトのが不思議そうな顔をする。
「ほら」
「あ……あれ?」
ミルシェリトが紫の目の届くところまで手のひらを下げる。恐る恐るリングをみた紫だが、そこにはしっかりと深海のように青い石がはまっている。確かに水しぶきがあがった後に石が破裂したはずなのに――おかしいなと紫は首を傾げ。
「――ミルシェリト」
ロウシュの冷静な声がした後に、彼は美しい翠の瞳を紫のすぐ後ろに据えたまま、紫ではない誰かに指を指した。
ミルシェリトはそれにすぐ気がついたのか、青い瞳をきょろりとさせて驚いている。紫の後ろに控えているのであろう「それ」に一度じっくり目をやってから、「君、精霊術師か何かだったの?」と首を傾げた。
紫には何が何だか全くわからない。ただ、後ろにいるのがことの発端なのだろうと振り向こうとして――見えないほどの早さでロウシュに目をふさがれた。「見るな」と低い声が耳朶を打つ。どきりと心臓が一つ大きく音を立てたのは気のせいじゃない。
「ウンディーネ……の男性型? でも、ウンディーネに男性型はいなかったはずだよね」
「でも、俺たちが“魅了”されていないのなら男性型で間違いないだろう」
目隠しされたまま紫の頭上で会話は続いている。何のことなのだろうと紫はそわそわし始めた。
「あっ、あの……」
「どうしようかなあ。どこかに術者がいるような感じではないし――ユカリが出しちゃった気が僕にはするけれど」
「馬鹿言え。さっきこいつが……異世界の人間だとか何だとか言っていただろう」
「うん、そうなんだけど。このお嬢さん、宝飾品に特別附与をつけられるみたいで」
は? とロウシュが困惑したような声を出している。初めて聞いたその声に、紫は何となくいたたまれなくなった。ミルシェリトは先日起こったミシェルとの話をかいつまんで話し、だから、と話を続ける。
「このウンディーネ? みたいなのもユカリの特殊な能力じゃないかな。魅了されても僕がどうにかできるし、とりあえず目隠し取ってあげてよ。呼び出した張本人ならこの子も従うし……多分」
たぶんって何ですか、多分って――と紫は言いそうになったが、そこは我慢だ。何かあったとしても、今の会話の流れならミルシェリトが何とかしてくれるはず。
渋々としたような雰囲気が伝わって、紫の目を覆っていたロウシュの大きな手のひらが外される。紫はちょっとミルシェリトを見てから、そっと視線を二人の男が見ているそれへとあわせる。
「な……なんですか、これ――このひと? は」
「ウンディーネ。水の精霊だよ。やっぱり見たことないよねえ」
目を白黒させた紫にくすくすと笑って、ミルシェリトは「普段は女の子の形で出てくるはずなんだけど」と最後に少しだけ不可解そうな色をにじませた。が、まじまじと見入る紫はそれに気づかない。
水が集まって出来た男の人の形だ――と紫は思う。透明な体の向こう側が透けて見えていた。薄く柔らかそうな布を腰にまとい、優雅に微笑んでいる男性の上半身は、しゃらしゃらと鳴るアクセサリーの他には何もついていない。この世のものとは思えないほど美しい顔はどこか魔の雰囲気を感じさせて、長くのばされた青く深い色の長い髪は、一つに結ばれて右肩から垂れ下がっていた。
アラビアンな格好、と紫はじっくりその男性を眺め回す。どこかで見たような雰囲気の人だと思った。
――さて、だれだったか。優雅に足を組みながら宙に浮いているその水の男性は、紫の知り合いには全くいないタイプの男性なのだけれども。顔の雰囲気や何かが――誰かに似ている。
ふらふらと“ウンディーネ”に近寄る紫に、おい、とロウシュが声をかける。魅了はされてないよ――とミルシェリトが静かに答えた。
誰かに似ている、と紫はもう一歩“ウンディーネ”に近寄る。ウンディーネは美しく、人の心をとろかすように微笑んでから、紫の手のひらを取った。冷たい水の感触は、少ししっとりしていて、それからぷよぷよと柔らかい。水ようかんみたいな感じだなあ、と紫は色気もなく思う。思えば水ようかんが食べたくなってくるものだ。くず餅でも良いかも知れない。
紫の手のひらをとったウンディーネに、何をする気かとロウシュやミルシェリトは身構えてしまったが、“ウンディーネ”は忠誠を誓うかのように紫の手の甲に口づけを落とすのみだった。
「あ!」
“ウンディーネ”が不思議そうな目で紫を見つめている。
「それ」に気づいて紫は思わず笑ってしまった。
「この人、ミシェルさんに似てますね?」
笑いながらも口にしたそれに、「確かに……」とミルシェリトが笑い出す。ロウシュまでもがそれに同意したのを紫は雰囲気で感じ取った。
優しげで王子様のような優美な顔立ちも、女性に対するちょっと過剰なスキンシップも、雰囲気だけなら高貴そうなところも。
あの商人の青年、ミシェルにそっくりだった。気障ったらしいところまでばっちりだ。にている。ミルシェリトがにまりと笑って紫にそっと耳打ちをした。
「ねえユカリ、ちょっと“彼”に何かを命じてみてくれないかな」
「はい。――ええと、何をいえばいいんでしょうか」
「何でもいいよ。飛んでみろ、でも走れ、でも」
「ええ……ええと、じゃあ」
何にしようかと考えた紫の頭にはそれしかない。紫は片手を“ウンディーネ”に差し出すと、“お手!”と高らかに言い放つ。
犬じゃないんだからとミルシェリトは腹を抱えて笑い、ロウシュは口をぎゅっと引き結んでいる。紫からは見えていなかったが、ミルシェリトやウンディーネからは彼の肩が震えているのがよくわかる。笑いをこらえているようだった。
“ウンディーネ”はとても不服そうな顔を笑う男たちに向け、けれど紫には甘く微笑んで――差し出された手のひらに己のそれを重ねる。間違いなく「お手」だ。
ウンディーネが甘く笑ったところでミルシェリトは「ほんとにミシェル」と耐えきれずに笑いすぎてむせていたし、ロウシュは顔を背けて口元を押さえていた。
「あー、っふふ……やっぱりユカリが出しちゃったんだねえ」
原因はこれかな――とミルシェリトが指輪をユカリの指から抜いた。とたんにウンディーネはかききえて、何もなかったかのように静かな空気がやってきた。あれ、とミルシェリトが首を傾げてまた紫の指にリングをはめる。
しかし、ウンディーネは現れなかった。
付けるだけじゃダメなのかなとミルシェリトの好奇心が刺激されたのか、彼は指輪を弄くり倒した。が、どこに触れても何をしてもうんともすんとも言わない指輪に、「拗ねちゃったのかなあ」と綺麗な金髪を揺らして彼は考え込む。精霊も拗ねるんだなあ、と紫は妙に感心した。たしかに自我を持っているようだから、拗ねることもあるのかもしれない。だとしたら悪いことをしたなとも思ったが、「何でだろうね」というミルシェリトの言葉に紫はそちらに気を取られてしまう。
あの時――と紫は思い返しながら、そっと指輪に触れた。
自分はどうやって触れただろうか。まず、手のひらにおいた。それからなんとなく自分の指に付けて、石に触れた。
そっと青い石に触れる。その瞬間、またサファイアから水しぶきが上がり、石が割れた――かのように見えた。お、とミルシェリトの楽しそうな声があがる。
「出てきた。――石に触れるのが条件なのかな」
「拗ねた訳じゃなかったんですね、よかったです」
「お前……」
本当に精霊術師だったのか、とロウシュがじっと紫の顔を見つめてくる。驚いた紫が「ひえっ」と気弱に声を上げれば、ロウシュと紫の間に水で出来た青年が体を滑り込ませた。宙に浮いたままだが、まるで紫を守るかのようにしてロウシュを睨みつけている。ロウシュもそれに負けることなく目つきを厳しくしていた。
間に水の男性がいるとは言っても、彼の体は水のように透明で透けているから――紫には“ウンディーネ”の体越しにロウシュの顔が見えていた。人を一人二人は殺せそうな顔をしている。正直怖くて見ていられない。
ミルシェリトはいつもと変わらず穏やかで、「やめなって二人とも」と場を取りなしてくれた。
「ウンディーネ? もロウシュもさ。取りあえずちょっと落ち着こうよ。ユカリも何だかわからなくなっちゃってるし」
ウンディーネは無言だ。話せないのかもしれないと紫は思う。精霊には全く詳しくない紫は、とりあえずこの場をミルシェリトにおさめて貰うことにした。