プロローグ
三月の青空の下、卒業式の終わりにて。
咲くか咲かぬかの微妙な頃合いの、膨らんだ桜のつぼみ。それにそっと触れようとして、紫は手を引っ込めた。冬眠から目覚めて間もない蜘蛛が、ちょこちょこと桜の枝に這っていたからだ。大多数の若い女性がそうであるように、紫もまた、虫が嫌いである。
紫はこの三月に、二年通った彫金学校を卒業することとなった。成績は十分だったし、むしろ最優秀生徒として表彰されたくらいだ。――だが、それを褒めてくれる人はいない。
残念なことに――本当に残念なことに紫の両親は卒業式の二ヶ月前にこの世を去っている。交通事故だった。
紫の両親は旅行先で車にはねられた、と聞いたのだが、一度に両親を失ってしまった紫にはいまいち現実味がなかった。今でも、家に戻ったら両親がひょっこり帰ってくるのではと思っている。
そんなわけはないのだけれど。
紫にはまだまだ不安もあって、学校を卒業するというのに就職先がまだ決まっていない。昔からジュエリー造形の道を行くのだと、クラフトマンになるのだと決めてはいたのだが、このご時世、ジュエリー業界は不況に喘いでいる。新進気鋭でも経験のない若いクラフトマンを頼るよりは、経験を十分に積んでいるベテランのクラフトマンを重用する。
そんなことは分かり切っていたが、それでも諦めきれない夢だった。両親を亡くしてしまった今、着実に、確実に暮らしていかねばならないのも理解している。けれど、紫にはもう――その道しか残されていない気がしていた。
もとより、宝石が好きで、宝石を輝かせたくて選んだ道が宝飾品の職人だ。姉弟もいない紫からすれば両親は宝石以外に大切だったものの筆頭であり、その両親を失った今、一番大切なことは自分の夢であるクラフトマンになることだった。
卒業式を終えた後、辺りを見回せばどこもかしこも両親がそろった学友の姿。それが悪いと言うことではないけれど、それを見ているのはひどく辛くて、紫はお世話になった先生にお礼を述べると早々にその場をたった。
こぼれるのは涙ばかりだ。感謝と、羨望と、悔しさと。
もう成人したのだし、大泣きすることもないだろうと思っていたけれど――やはり、辛かった。
ふらりと卒業証書の筒を持ったまま外を歩く。
卒業式用にと両親が買ってくれていた礼服のワンピースの裾が、風に揺れてストッキング越しに紫の足を撫でた。
終わってしまったなあ、と思う。
学校も、子供時代も、親との時間も。
学業に追われている間は親のことも忘れられたけれど、それでも一人きりになると思い出すのだ。
思い返したって戻ってこないのにねえ。
ばかだねえ、と自分に小さく呟いて、紫は歩道を歩いていた。
駅の近くまで歩いて、立ち並ぶ店のショーウィンドウを何となく眺める。晴れやかな卒業式だというのに、やっぱり自分の顔は暗い。旅立ちの門出には向いてないなあ、と自虐的に笑ってから、ふと、ショーウィンドウに映る人影に気を取られた。
上から下まで真っ黒な服を着ている。
黒いドレスシャツに黒いベスト、黒いスラックス。その上に黒いコート。それから、真っ黒な髪にとけ込むような真っ黒なシルクハット。黒曜石のように輝く革靴を身につけた若い男性が、紫をショーウィンドウごしに見つめていた。にやにやと笑っているように見える。
は、と紫は後ろを振り向いたが、気付けばあたりに人は一人もいない。上から下まで黒ずくめの不審な男なんて、影一つ無かった。気のせいか、とまたショーウィンドウを見る。
――男が、親しげに紫に向かって手を振っている。
逃げなきゃ、と思った。けれど、自分の体は動かない。魅入られたように男の顔を凝視し続ければ、男はゆっくり、一歩ずつ紫に近づいてくる。ショーウィンドウに映った男は、歩みを止めようとはしなかった。
男の顔がわかるほど近く、男はショーウィンドウに大きく近づいていた。遠くからではよくわからなかった男の顔が、今ではよくわかる。不審者めいた格好だけれど、男の顔は存外整っていた。雑誌に載っているイケメンアイドルよりも顔だけなら上だろう――ただ、目元に施された、歯車がいくつか重なったような模様の紫色のアイメイクは彼から“普通さ”を失わせている。
にんまりと、男の唇が愉快げにゆがめられた。
――逃げなきゃ。
けれど、紫の足は動かない。一歩、また一歩、獲物を追いつめるのが楽しくてたまらない猫のようにじわじわと男は反転する世界から紫に近づいてくる。
磨き抜かれたショーウィンドウに映る男の姿はくっきりと鮮やかで、でも紫の後ろには誰もいないのだ。
何の音もしない。歩いているはずの男の靴音ですら。
ぞわりと鳥肌が立った。三月の肌寒さのせいではない。
男の存在自体が、おかしい。
人ならざるもの。紫の頭の中には、その言葉しか浮かばなかった。
音が聞こえていたなら、こつん。そんな軽い音をたてるような調子で、男が紫のとなりにならぶ。きちんと揃えられた足先は、やはり艶々としている。身なりの良い男だった。
男は紫の肩に手を滑らせる。やめてくれと紫は肩を払ったが、そこには何の感触もなく。透明な硝子に映った自分の肩には、確かに男の手のひらがあるにも関わらず、何の感触もなかった。
――自分は疲れているのだろうか。
諦めを持って紫は思考を停止した。考えてもどうにかならないなら、考える必要はないのだ。
この現象が何だというのだろう。ショーウィンドウ越しに気味の悪い男が笑いかけてくるだけだ。命に別状はないし、旅先で車がつっこんでくるよりずっとましだ。
男のてのひらが、すすす、と肩から腕へと滑る。なめらかに滑った手のひらは、紫の手のひらをそっと掴んだ。
反転した世界の紫の手のひらは、男の手のひらに重ねられている――現実の紫の手もまた、寸分違わぬ形で、宙に浮いていた。
ひっ、と息をのんだ。宙に浮かんでいる自分の手のひらから目が離せなかった。
ぐい、と男の手が紫を引っ張る。驚きの余りに踏ん張ることも出来なかった紫は、ショーウィンドウにぶつかるように硝子の中へと吸い込まれていく。
ころり、と。
持ち主のいなくなった卒業証書が、人のいないジュエリーショップのショーウィンドウ前に転がっていた。