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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第一話
6/21

裸馬と少女 ⑤

 放課後になっても、あいは学校を出られずにいた。

 

 いつもなら馬郷で、綾と一緒に過ごしている時間だった。


「そこの計算、また間違ってる。さっきと同じミスだよ、それ」

 机を挟んで座っている朔が、ペン先であいのノートをつつき、指摘してくる。


 教室で、朔と二人だった。


 最初は他のクラスメイトもいたが、あいのあまりの飲み込みの悪さに、呆れて帰っていった。


「朔ちゃん、いつまでやるの」

「言ったでしょ。この問題集の、こっから、ここまで。終わるまで、今日は帰れないよ」


「そんな、無理だよ」

「弱音言ってる暇あったら、ほら、手、動かして」


 朔は問題集をあいの目の前に突きつけてくる。


 あいは仕方なく計算に戻ろうとしたが、涙が滲んできて、数字や記号がぼやけてしまう。


「ちょ、泣かないでよ。ウチはあいのためを思って」


 朔に悪意がないのは、わかっている。

 昨日の体育の時間も、足手まといだったあいへの禍根が残らないよう、わざとああした物言いをして、笑いに変えてくれたのだ。


 涙が出てきたのは、朔の仕打ちが辛かったからではなかった。


 どうして、皆が普通にできていることが、自分にはできないのか。


 学校にいると、そればかりを考えてしまい、辛くなる。


 それでも、学校を休まずにいられたのは、綾との時間があったからだ。


 綾と、風のように駈けることは、同級生の誰にもできないことだった。


 たった一つでも、自分には他人にはできないことができる。綾の存在とともに、そのことが、あいの心を支えていた。


 でも、いつまでも綾に頼っていたら駄目なんだ。


 歯を食いしばりながら、あいは思った。零れそうになる涙を堪え、洟を啜った。


 強い人にならなきゃ、綾を安心させてあげられない。そのためには、馬に乗ること以外なにもできない私は、騎手になる。


「朔ちゃん、私、やっぱり」

 あいが意を決して問題集から顔を上げ、朔に言いさしたところで、教室に担任の教師が入って来た。


「お、まだ残って勉強続けてたのか。関心関心」


「先生、どうしたの?」

「どうしたんですか、だろ」


 教師はため口を利く朔を上っ面で叱るばかりで、本気ではない。朔には愛嬌がある。あいには真似できないことだった。


藤刀ふじわきの進路希望の件でな。どうだ、もう書いたか?」


「あい、今朝もその話したのに、まだ出してなかったんだ。もういま書いて出しちゃいなよ。プリントは持ってるんでしょ」


 朔に促され、あいはスクールバッグに折り畳んでしまっておいた進路希望の用紙を出した。


 競馬の学校と書きたいのに、手が動かなかった。

 書けば、朔は反対する。きっと教師も、その肩を持つ。


「ん、どうしたんだ、藤刀? なにか悩んでいたりするのか?」


「あい、騎手になりたいんですって。だから高校に行かないで、競馬の勉強ができるところに行くって」


「なんだ、それ。先生、初耳だぞ」


「先生からも言ってくださいよ。あいが騎手になろうなんて無理だって」


「こら、そういう言い方はするもんじゃない。でも、確かに競馬の騎手ってのは、厳しい世界だってイメージはあるな。頭ごなしに否定する気はないが、高校や大学を出て、自分の可能性を広めてからでも遅くはないんじゃないか?」


「ですよね。ほら、あい、先生もこう言ってるんだし、悩むことないじゃん」


 ペンを握ったあいの手は、しかし動かなかった。

 すると、朔がじれったそうに息を吐いた。


「仕方ないな。ウチが書いたげる」

「あ、」


 朔は、あいの前にある進路希望の用紙を取り上げ、地元の高校の名を欄に記入した。


「はい、先生」


「おいおい。藤刀の進路だぞ」


「でも、もう提出期限は過ぎてるし、今回はそれでいいんじゃないですか?」


「まぁ、これで進路が決まるってわけではないが、しかしなぁ」


「ならいいじゃないですか。ね、あいもいいでしょ?」


 いつも、朔にこう言われると、最後には頷くしかなくなる。


「でも、」


 あいは、背中を丸め、机の下で膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。


「いいわけがない」


 入口で、声がした。聞き知った声だが、ここにいるはずがない人でもあった。

 

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