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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第五話
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32/71

日本ダービーと師弟 ⑧

 天道は、携帯端末の電源を切り、夜空で瞬く星を見上げた。


 馬の寝藁の匂いが、ほのかにしていた。


 関西で競走馬を飼育、調教する、御園トレーニングセンターにある、厩舎の前だった。

 清潔は保たれており、糞尿の匂いはほとんど気にならない。


 天道が調教助手として赴任した当時は、築五十年を超える古びた厩舎が建っていたが、三年前に建て直され、現代風の外観になった。


 変わったのは見た目だけでなかった。


 近年の猛暑で馬が体調を崩さないよう、屋根を二重構造にし、冷房が馬体に直接当たらない工夫がなされていた。


 また、馬が寝返りを打つ際に、脚をひっかけて利用する壁の横木なども、形状にひと手間が加えられており、噛み癖のある馬のために材質は樫を選んであった。


 他にも、随所に馬のことを考えた工夫が施された、築浅の厩舎を、改めて真正面に見つめた。


「ここが、俺の厩舎にね」

 呟いていた。


「おい、あと一年は、ここは俺のもんだぜ」

 振り向くと、薄手のジャンパーを羽織った調教師の遠野が歩いてきた。


「遠野さん、夜の見廻りですか。そういうの、俺らに任せてくれていいんですよ」


「今更言うな。俺の性分だ、知ってるだろう」

 遠野が肩を並べてきた。


「電話してたのか?」


「ええ。弟子に、調教師になった報告をしようと。ま、言いそびれちゃいましたけど」


「例の子どもか。俺が散々調教師の認定試験を受けろと言っても、聞かなかったくせに。小娘に簡単にほだされやがって」


「そんなんじゃありませんがね。ただ実際、厩務実習で色々と仕込もうと思ったら、調教師になっておいた方が都合がよかったってのは、確かですね」


「実習は、二年の八月からだものな。確かに、その頃にはここは天道厩舎さ」


「感謝してますよ。すぐに厩舎の受け持ちが決まったの、遠野さんが俺を後任に推薦してくれたって聞きました」


「候補の中じゃ、お前が一番マシだったってだけさ」


「遠野さんの下で鍛えられましたから」


「ふん。精々、楽しみにしとくよ」


「遠野厩舎のやり方を、崩す気はありませんよ」


「そうじゃねえ。俺が言ったのは、お前の弟子とやらのことさ」

 遠野は、そう言い残して、厩舎の中へと入っていった。十日前に心筋梗塞を起こし、今日の朝まで入院していたとは思わせない、矍鑠とした足取りだった。


 ただ、本人にしかわからない衰えはあるのだろう。

 数年前からなにかにつけ、天道に調教師になることを薦め、暗に自分の厩舎を継がせようとしていたのだ。


 天道が、遠野の意を受け、調教師になる決心をつけたのは、あいと出会ったからだった。


 騎手となったあいの隣で、レースに臨むには、調教助手のままでは役不足だった。


 調教助手でも、競走馬の調教には携われるが、馬主の意向を受けとめ、騎手とも意見交換して調教の方針を決めるのは、調教師でなければできないことだ。


「にしても、まさか、凱旋門賞と言い出すとはね」

 ついさっき聞かされたあいの宣言に、天道は苦笑いをこぼした。


 聞いた瞬間、あいが、ロンシャン競馬場の芝を馬と駈ける様を、想像してしまった。コース沿いに建つ石造りの風車の前を、颯爽と駈け抜けていた。


「未練だな」

 あいに、自分がかつて抱いていた夢を、背負わせるつもりはなかった。騎手である自分は、すでに死んだのだ。


 それでも、生きている。その実感がある。

 あいに生き返らされのだ、と天道は思った。

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