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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第五話
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日本ダービーと師弟 ⑥

 正士郎の報せを受け、引率の老教官、落合がフードコートにやってきた。


藤刀ふじわきさんは、ひとまず日本ダービーの見学へ行ってきなさい。諏訪さん、案内を頼めますか」


「はい。ですが、いいんですか」


「ええ。せっかく校外学習に出てきているのですから、なにかしら持ち帰ってもらいたいですしね」


「わかりました」

 正士郎と落合のやり取りを窺っていた美冬が、そろりと腰を上げた。 


「あ、じゃあ私も、とりあえずダービーに」


「駒形さん、でしたか。あなたは残ってください」

 やんわりとだが、有無を言わせぬ口調で、落合が止めた。


「えぇ」


「あなたには、先にことの経緯を訊きたいので。藤刀さんには学校に戻ってから聞きますよ」


「あのぅ、せめて、携帯で馬券を買わせてもらうわけには」


 変装のためあいに貸していたシャツを着直した美冬は、胡麻をするような手つきで懇願する。


 落合は目尻に皴を寄せ、好々爺のような優しい笑顔を浮かべた。


「私とのお話を、優先させてもらいましょうかね」


「そ、そんな殺生なぁ」

 美冬はがっくりと肩を落とした。


 正士郎に連れられ、スタンドへ向かった。道中、自分を探すために苦労させてしまったことを詫びると、正士郎はすんなりと許してくれた。


 階段を上がり、同期と合流した。


 コースの向正面まで見通せる二階の席だった。あいが美冬と観戦していたターフビジョン正面の客席も見下ろせた。


 直後、わっと歓声が上がり、ゲートから馬が出走した。


 途端にあいは一切のことを忘れ、食い入るようにレースを見つめた。


 ビデオで何度も繰り返し見て、脳裏に焼き付いている天道の騎乗姿が、コースの向正面に差しかかった馬群の先頭を駈ける人馬に重なった。


 あっという間だった。


 縦に伸びた馬群がコーナーを折り返し、客席前の最後の直線へと駈けてくる。


 後方、五番のゼッケンをつけた馬が、コーナーで外周に膨らむ進路を採り、中団の壁を躱した。


 ストライド。脚が伸びてくる、とあいは感じた。先頭が入れ替わる。天道の幻影は、後続に呑まれて消えた。  


 五番に追随する恰好で、八番もあがってきた。二頭が競り合い、ゴールラインを駆け抜ける。


 ややあってから、掲示板に、赤地に白文字で確定と表示され、レース結果が下に並んだ。


 一着は五番。二着とはハナ差だった。


「いいレースだった。間に合ってよかったな、正士郎」


「ああ。ただ、今年も天道騎手が残したレコードは塗り替えられなかった」


「二分二十二秒の壁、か。もし今でも騎手を続けられていたら」


「たらればの話はやめよう。あのターフに立つために、今日、これから、なにをするべきか。それだけでいい」


「そうだな」


 あいは、正士郎と大矢の会話の中に、天道の名前が聞こえ、気になったが、美冬のことを思い出し、そちらの方が気がかりだった。


「藤刀、どうした、便所か?」

 そわそわしているあいに気づき、大矢が声をかけた。


「ち、ちがう、よ。落合先生、まだ来ないなって」


「そういや、先生はどこ行ったんだ?」

 事情を知らない大矢が首を傾げた。大まかに事情を把握している正士郎が、端的に説明する。


「私、先生のところに戻る、ね」


「おいおい、一人で行動して、また迷子にでもなられたら困るぜ。正士郎、付いて行ってやれよ」


「そう思うなら、君が付き添えばいいだろう、大矢」


「俺は先生がどこにいるか知らねーもんよ」


「先生なら一階のフードコートに、って聞けよ」

 大矢は口笛を吹きながら、別の同期に話しかけにいってしまった。


「はぁ。先生は、ここで待っていたら? じき来るさ」


「う、うん。でも、」


「一緒にいた、あの女性のこと? 酔って、絡まれていたんだろ」


「そ、そうなんだけど、わ、悪い人じゃなかった、から」

 正士郎のこめかみが、ひくひくと引き攣ったような気がしたが、顔を伏せてしまったのでよく見えなかった。


「あの、私、一人で行く、よ。もう迷子になったり、しないから」


「……いいよ、一緒に行こう」

 なにやら思案した末、諦念を滲ませた声で正士郎は言った。



 フードコートに、人はまばらだった。


 窓際の席で、落合は美冬の事情聴取を終え、ちょうど席を立ちかけたところだった。


「おや、二人とも、戻って来たのですか。ダービーには間に合いましたか?」


「はい」


「それはよかった。諏訪さん、今日はすまなかったね。僕の片脚の具合が悪いばかりに、代わりに藤刀さんを探すのを頼んでしまって」


「いえ」

 先刻と変わらない穏やかな面持ちの落合とは対照に、美冬はしょげかえっていた。


「だ、大丈夫ですか、美冬さん」


「あいちゃん、心配してくれてありがとう。ものすっごい叱られたよぉ。笑顔で、優しい感じなのに、怖かったよぉ」

 美冬は子供のようにべそをかき、あいの腰に縋りついてきた。


「お、大人でも、叱られることってあるんですね」


「いっぱいあるよぉ。私だけかもしれないけど」


「駒形さん」


「は、はいっ」

 落合に呼ばれると、美冬はあいにしなだれかかるのをやめ、杉の木のように直立姿勢になった。


「学生にターフィーショップも見せてあげようと思うのですが、駒形さんも折角ですし、一緒にいかがですか。だいぶ競馬がお好きなようですし、もしよければ、未来のジョッキーたちに、差し入れでもしてやってください」


「よ、喜んでっ。差し入れでもなんでも、させていただきますっ」


 軍人さながらに敬礼し、落合の申し出を受けた。


 それから、再度同期と合流し、ターフィーショップに入った。

 そこで美冬は、一学年の七人それぞれに、グッズを買う羽目になった。


 ショップには、ここ二、三年のダービー馬の写真集が置いてあった。天道のものもあるかと探したが、十年近く前であるせいか、置いてはいなかった。


 あいは悩んだ末、昨年のダービー馬の顔写真がプリントされたシャツを買ってもらった。


「すみません、美冬さん」


「いいの、いいの。それより、応援してるよ、あいちゃん。頑張ってね」


「はい、ありがとうございます」


「あいちゃんが騎手になったら、ぜったい馬券買うから、また稼がせてね」


 反省しているのか、していないのか。美冬は、酔いから醒めかけて白っぽくなった顔色で、親指を立てた。


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