日本ダービーと師弟 ⑥
正士郎の報せを受け、引率の老教官、落合がフードコートにやってきた。
「藤刀さんは、ひとまず日本ダービーの見学へ行ってきなさい。諏訪さん、案内を頼めますか」
「はい。ですが、いいんですか」
「ええ。せっかく校外学習に出てきているのですから、なにかしら持ち帰ってもらいたいですしね」
「わかりました」
正士郎と落合のやり取りを窺っていた美冬が、そろりと腰を上げた。
「あ、じゃあ私も、とりあえずダービーに」
「駒形さん、でしたか。あなたは残ってください」
やんわりとだが、有無を言わせぬ口調で、落合が止めた。
「えぇ」
「あなたには、先にことの経緯を訊きたいので。藤刀さんには学校に戻ってから聞きますよ」
「あのぅ、せめて、携帯で馬券を買わせてもらうわけには」
変装のためあいに貸していたシャツを着直した美冬は、胡麻をするような手つきで懇願する。
落合は目尻に皴を寄せ、好々爺のような優しい笑顔を浮かべた。
「私とのお話を、優先させてもらいましょうかね」
「そ、そんな殺生なぁ」
美冬はがっくりと肩を落とした。
正士郎に連れられ、スタンドへ向かった。道中、自分を探すために苦労させてしまったことを詫びると、正士郎はすんなりと許してくれた。
階段を上がり、同期と合流した。
コースの向正面まで見通せる二階の席だった。あいが美冬と観戦していたターフビジョン正面の客席も見下ろせた。
直後、わっと歓声が上がり、ゲートから馬が出走した。
途端にあいは一切のことを忘れ、食い入るようにレースを見つめた。
ビデオで何度も繰り返し見て、脳裏に焼き付いている天道の騎乗姿が、コースの向正面に差しかかった馬群の先頭を駈ける人馬に重なった。
あっという間だった。
縦に伸びた馬群がコーナーを折り返し、客席前の最後の直線へと駈けてくる。
後方、五番のゼッケンをつけた馬が、コーナーで外周に膨らむ進路を採り、中団の壁を躱した。
ストライド。脚が伸びてくる、とあいは感じた。先頭が入れ替わる。天道の幻影は、後続に呑まれて消えた。
五番に追随する恰好で、八番もあがってきた。二頭が競り合い、ゴールラインを駆け抜ける。
ややあってから、掲示板に、赤地に白文字で確定と表示され、レース結果が下に並んだ。
一着は五番。二着とはハナ差だった。
「いいレースだった。間に合ってよかったな、正士郎」
「ああ。ただ、今年も天道騎手が残したレコードは塗り替えられなかった」
「二分二十二秒の壁、か。もし今でも騎手を続けられていたら」
「たらればの話はやめよう。あのターフに立つために、今日、これから、なにをするべきか。それだけでいい」
「そうだな」
あいは、正士郎と大矢の会話の中に、天道の名前が聞こえ、気になったが、美冬のことを思い出し、そちらの方が気がかりだった。
「藤刀、どうした、便所か?」
そわそわしているあいに気づき、大矢が声をかけた。
「ち、ちがう、よ。落合先生、まだ来ないなって」
「そういや、先生はどこ行ったんだ?」
事情を知らない大矢が首を傾げた。大まかに事情を把握している正士郎が、端的に説明する。
「私、先生のところに戻る、ね」
「おいおい、一人で行動して、また迷子にでもなられたら困るぜ。正士郎、付いて行ってやれよ」
「そう思うなら、君が付き添えばいいだろう、大矢」
「俺は先生がどこにいるか知らねーもんよ」
「先生なら一階のフードコートに、って聞けよ」
大矢は口笛を吹きながら、別の同期に話しかけにいってしまった。
「はぁ。先生は、ここで待っていたら? じき来るさ」
「う、うん。でも、」
「一緒にいた、あの女性のこと? 酔って、絡まれていたんだろ」
「そ、そうなんだけど、わ、悪い人じゃなかった、から」
正士郎のこめかみが、ひくひくと引き攣ったような気がしたが、顔を伏せてしまったのでよく見えなかった。
「あの、私、一人で行く、よ。もう迷子になったり、しないから」
「……いいよ、一緒に行こう」
なにやら思案した末、諦念を滲ませた声で正士郎は言った。
フードコートに、人はまばらだった。
窓際の席で、落合は美冬の事情聴取を終え、ちょうど席を立ちかけたところだった。
「おや、二人とも、戻って来たのですか。ダービーには間に合いましたか?」
「はい」
「それはよかった。諏訪さん、今日はすまなかったね。僕の片脚の具合が悪いばかりに、代わりに藤刀さんを探すのを頼んでしまって」
「いえ」
先刻と変わらない穏やかな面持ちの落合とは対照に、美冬はしょげかえっていた。
「だ、大丈夫ですか、美冬さん」
「あいちゃん、心配してくれてありがとう。ものすっごい叱られたよぉ。笑顔で、優しい感じなのに、怖かったよぉ」
美冬は子供のようにべそをかき、あいの腰に縋りついてきた。
「お、大人でも、叱られることってあるんですね」
「いっぱいあるよぉ。私だけかもしれないけど」
「駒形さん」
「は、はいっ」
落合に呼ばれると、美冬はあいにしなだれかかるのをやめ、杉の木のように直立姿勢になった。
「学生にターフィーショップも見せてあげようと思うのですが、駒形さんも折角ですし、一緒にいかがですか。だいぶ競馬がお好きなようですし、もしよければ、未来のジョッキーたちに、差し入れでもしてやってください」
「よ、喜んでっ。差し入れでもなんでも、させていただきますっ」
軍人さながらに敬礼し、落合の申し出を受けた。
それから、再度同期と合流し、ターフィーショップに入った。
そこで美冬は、一学年の七人それぞれに、グッズを買う羽目になった。
ショップには、ここ二、三年のダービー馬の写真集が置いてあった。天道のものもあるかと探したが、十年近く前であるせいか、置いてはいなかった。
あいは悩んだ末、昨年のダービー馬の顔写真がプリントされたシャツを買ってもらった。
「すみません、美冬さん」
「いいの、いいの。それより、応援してるよ、あいちゃん。頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
「あいちゃんが騎手になったら、ぜったい馬券買うから、また稼がせてね」
反省しているのか、していないのか。美冬は、酔いから醒めかけて白っぽくなった顔色で、親指を立てた。




