日本ダービーと師弟 ②
ほんの僅かな間、馬車に目を奪われただけだった。
しかし、なぜか、気づくと正士郎たちとはぐれていた。
引率として同行していた、年配でごま塩頭の教官の姿もない。
競馬場で迷子になるのは、これが二度目だった。
前回は中山競馬場だったが、今回は東京競馬場である。
あいはぽつねんと途方に暮れていた。道端の花壇では、ちょっと皮肉なほどに、鮮やかな花が咲き並んでいる。
そこへ、子どものはしゃぐ声が聞こえてきた。
入場口を通って程近くに、馬を放し飼いにしている囲いがあった。
そこでは馬と触れ合ったり、乗馬体験ができるらしく、日曜日ということもあり、子供連れの家族をちらほらと見かける。
朝の厩舎作業を終えてから学校を出発し、東京競馬場へ到着したのが九時過ぎだった。
第一レースははじまっている。今日ここへ連れて来られたのは、午後の第十一レース、日本ダービーの観戦が目的だった。
「確か、日本ダービーは三時過ぎからだっけ。うん、まだ四時間もあるし、それまでには、ぜったい合流できるよ、うん」
小声で自らに言い聞かせ、さぁ行こうと意気込んで振り返ると、ちょうど後ろからやって来ていた歩行者とまともにぶつかってしまった。
「おっと、ごめんね。怪我はない?」
大人の女の声がして、白く艶めかしい手が差し伸べられた。
「ひゃ、ひゃい」
声を裏返るほど慌てて返事をし、視線を上げると、眼前に、今にも服からこぼれだしそうな豊満な胸があった。
束の間、あいが放心していると、女は屈みこんで膝を抱える恰好をした。
「もしかしてどこか痛めちゃった?」
「あ、いえ、大丈夫です」
あいが立ち上がると、女はふやけた笑みを浮かべた。
「よかったぁ。怪我させちゃったかと思ったよ」
チューブトップの上に初夏らしい色のシャツを羽織った、三十前後の女だった。
化粧らしい化粧はしていないが、くっきりとした目鼻立ちをしている。そして、どことなく隙の多い雰囲気がある。
競馬新聞を小脇に挟み、片手にはカップ酒を携えていた。
「ぶつかっちゃってごめんねぇ」
「そんな、私の方こそ、すみませんでした」
「わはは、いいよぉ。それより、ほんとに平気? 怪我してない?」
女は覚束ない足取りであいを見回した。その身からは、色香以上に、酒の匂いが漂ってくる。
「んん、その服、もしかして、中央競馬学校の制服?」
「あ、はい。ここの見学に来て、皆とはぐれちゃって」
「なぁるほどぉ。未来のジョッキーさんだったのかぁ」
「え、えへへ、そんな、私なんて、まだまだひよっこで」
「そんなことないよぉ。うんうん、確かに言われてみれば、どことなくそれっぽいもの」
「い、いえ、私なんて、ひよこどころか、タマゴですから」
「またまたぁ」
「いえいえ」
人から煽てられた経験のないあいは、それ故に気づかないのである。酒でとろんとした女の目の奥に、欲望の光が宿っていることに。
「ね、名前はなんて言うの? あ、私はねぇ、駒沢美冬っていうんだぁ」
「美冬さん、ですか。私は藤刀あいです」
「あいちゃんかぁ。よぅし、せっかくこうして出会えたんだし、私がここを案内してあげるよ」
任せとけ、とでも言うように、美冬は背を反らし握り拳で胸を打った。拳がぼよんと弾む。
「え、でも私、皆と合流しないと」
「だぁいじょうぶだよぉ。私もここには何回も、んや、何十回と来てるから、ちょう詳しいよ」
「そ、そういう問題じゃ」
話の雲行きが怪しくなってきたことを感じとり、あいが後退ろうとすると、先ほどからの緩慢な仕草からはちょっと想像できないぐらいの俊敏さで、美冬に背後をとられた。
両肩を押さえられると、身動きがとれなくなった。
「ちなみにさ、あいちゃん、馬券って買ったことある?」
耳元で、美冬が酒気混じりに囁いてくる。
「い、いえ、まだ、十四歳なので」
「そうだよねぇ。大丈夫、馬券を買うのは私だから、あいちゃんは、ちょっちアドバイスくれるだけで、ね」
「だ、大丈夫って、なにがですか。それに、アドバイスって言われても」
「この馬が走りそうだな、っていうのを、教えてくれるだけでいいの。難関の中央競馬の学校に入学できるぐらいだから、きっと見る目もあるよ」
「そんなのないです。それに、私、今日どんな馬がレースに出るのかも知らないです」
「おっけ、じゃ、今日の出走馬の、前走のレース動画を観よう。多いけど、いまからなら第五レースまでには間に合うはず。あとは、パドックでの様子を見て、さ」
第五レースは、昼頃開始のはずだったと、あいは頭の中で思い浮かべた。
「それから青嵐賞、薫風ステークス、むらさき賞とあって、大本命の日本ダービー。あいちゃん、一緒に夢を掴んじゃおう」
「で、でも、騎手が馬券のアドバイスとかすると、ペナルティがあるって、授業で習ったんですけど」
「あいちゃんはまだ学生じゃん。セーフだよ、セーフ」
美冬の腕が、獲物を逃がすまいとする蛇のように、しゅるりと絡みついてくる。その腕の中で、あいは生まれたての小鹿のように震えるしかない。
「あ、でも、一応騒ぎになるとまずいから、私のシャツ、上に羽織っておこっか」
美冬の目は、本気である。
馬蹄の音を鳴らしながら、馬車が道の向こうからやってきた。
厳かな車輪に、光沢のある革張りのソファ。御者は立体感のあるダブルのベストを着こなし、馬車を引く馬は誇り高い表情をしている。
まるで童話から抜け出してきたみたいな、この馬車に見惚れなければ、とあいは悔やんだが、あとの祭りだった。




