坂道と鬼門 ⑥
私心を職務に差し挟むつもりはなかった。
小早川は、受験生の就寝後に開かれる職員会議に出席した。
明日で、合宿形式の二次試験も最終日だった。
試験を持ち回りで担当した他の五名の教官は、露骨にではないが、肩の荷が下りる開放感を言葉の端々に滲ませていた。
「三船さん、少しよろしいですか?」
「どうかしたかね、小早川くん」
明日の個人面談の進行を確認し、会議が散会となってから、小早川は年嵩の先輩教官に声をかけた。
「明日の面接で、一人、私と変わっていただきたい受験生がいまして」
「珍しいですね、君がそういう申し出をしてくるなんて。誰か、気になる子でも?」
「藤刀あい、という受験生です」
「ああ、彼女か。実技考査では活躍したそうだね」
「褒められた行動ではありません」
「まぁまぁ。担当を替わるのは構わんがね、個人面談にそのことを持ち出してはいかんよ?」
「承知しています」
「公明正大な君には、無用な忠告か。藤刀くんのことは了解したよ」
小早川は礼を述べた。
膝に手をついて億劫そうに立ちあがり、帰宅する先輩教官の背中を見送った。
◆
父と母が競馬学校に到着した。
五日ぶりの母の顔に、安堵しかけ、あいは両手で頬を打って気を引き締めた。
父は糊の利いたシャツに、黒のスーツを着ていた。
他の受験生の親も、続々と来校している。
二次試験最終日である。
時間になると、受験生の親は面談のため、本館に案内されていった。
保護者面談の間、受験生には宿舎で待機の指示が出た。厩舎作業は、午前中に済ませてある。
二時間ほどして、保護者と入れ替わりで本館へ入り、本人面談がはじまった。
パイプ椅子が並べられた広間で待たされ、まず三人が呼ばれた。
三人は、廊下の先にあるそれぞれの部屋に通された。
二人一組、計六名の教官が、個人面談を担当するらしかった。
小早川先生に当たりませんように。
昨日の実技考査のこともあり、あいは強く願った。
やがて順番が来、左端の部屋に入室した。
小早川が、二十代くらいの若い教官と並んで、座っていた。
小早川は櫛目の通った髪型で、険のある表情もいつも通り、指を組ませた両手をテーブルに置いて待っていた。
背筋は針金でも入っているかのようにぴんと真っ直ぐに伸びている。
「どうぞ、かけてください」
若い方に着席を促され、真っ白になりかけていた頭で練習したことを思い起こした。
志望動機や自己PRなどは、一次の集団面接で訊かれている。
二次では、より個人的な、これまでの学生生活でうち込んだことや、成績、趣味について聞かれることが多い。
「私から、一つ質問したい」
小早川がテーブルの上で指を組み替え、言った。
あいはもちろん、隣の若い教官も緊張しているのか、表情を強張らせている。
「一次試験で、君は七名の他の受験生と面接を受けたはずだ。そのうち、一人でいい。そこで誰が、どんな志望動機を持っていたか、挙げてみてほしい」
「え、」
予期せぬ質問に面を食らった。
一次試験があったのは、二カ月前である。
それでなくても、面接では自分のことに精一杯で、誰がどんな話をしていたかなど、憶える余裕はなかった。
「一人も記憶していないかね」
口籠るあいに、小早川は冷ややかな視線を向ける。
「すみません」
「わかった。では、結構。以上で、面談は終了する」
あいは、耳を疑った。
「終了?」
「うむ。退室してもらって構わない」
「ま、待ってください、私、まだなにも」
「騎手は、」
食い下がろうとするあいの言葉を、小早川が断ち切った。
「一人の力でレースに出るのではない。それは理解しているか?」
「は、はい。騎手は馬と、力を合わせて、レースに挑むものだと、思います」
「うむ。君が馬と気心を通わせることができ、裸馬も乗りこなす技があることは、この合宿で見させてもらった。教官の中には、面白い騎手になりそうだという声もある。しかし、」
小早川は言葉を置き、息を注いだ。
小早川より一回りは若い、隣の教官は、面談の成り行きにハラハラしている様子だ。
「競馬は多くの人の力で成り立っている。中でも、騎手と調教師、馬主。この三者が嚙み合っていない場合、馬が秀でていても、レースに勝つのは難しい。
前提として、人と信頼を築ける人物かどうか。私が面接で見るのは、その一点だ。
信頼関係は、相手の話に耳を傾けられなければはじまらない。集団面接をともに受けた学生の話を、ひとつも憶えていない君は、その初歩的なことができていない、と私は判断する」
「そんな」
「私は一次で面接を担当したおよそ八十名の学生について、すべて記憶している。
例えば、北海道から来た学生、佐々木毅は、幼少、父に連れられ札幌競馬場で観たレースの感動が忘れられず、騎手を志すようになった。
佐賀から双子の弟と参加したという渋谷祐樹は、馬と、競走することが好きで、騎手を志した。賞金を稼げたら男手一つで自分らを育ててくれた父に恩返しをするのが夢だという」
あいは、愕然とし、項垂れた。
小早川の言うことは、尤もだとは思うが、それだけの理由で見切りをつけられるのは、あまりに理不尽な気もした。
一事が万事だとしても、受け入れられない。
なにか、なにか思い出さないと。
あいは焦燥に駆られた。
小早川が、再び退室を促してきたが、頑として動かなかった。
昨日、技術考査で見栄を張ったがためにこの場所から去っていった男子学生の、惨めな背中が、脳裏を過った。
諦めるもんか。私は、騎手になるんだ。
「う、ううぅぅぅぅっ」
椅子から立ち上がったら、ほんとうに試験が終わってしまう。あいは椅子に齧りつくつもりで背中を丸め、腕を抱えた。唸りながら、身を揺する。
そして、はたと気づいた。
渋谷祐樹。双子の兄。
小早川が先ほど口にした名前が糸口となり、記憶が呼び起された。
「双子の弟、渋谷、慧。兄が受けるから、ついでに自分も受けに来た」
しょうもない志望動機で、場の失笑を買っていた。
うろ覚えだったが、思い出せた。
弾かれたように顔を上げると、眉間に皺を寄せた小早川が、口角の片隅に、微笑を浮かべたような気がした。
「結構。では、面談を再開する。とはいえ、私からはこれ以上ない。柴田君は?」
「あ、はい。じゃあ二、三、質問を」
若い教官からの当たり障りない質問には、労せずに受け答えできた。
その間、小早川は鉄面皮を被ったまま口を噤んでいた。
退室する頃には、小早川が一瞬笑ったように見えたのは、見間違いだったのかもしれないと思えてきた。




