『店長代理は笑って脅す。営業部長補佐は胃薬を飲む。』
まえがき
仕事ができる人ほど、なぜか一番しんどい場所に立たされがちです。
派手さも武器もないけれど、逃げずに現場と上をつなぐ人。
この物語は、そんな中年の営業部長補佐と、
強く軽やかに振る舞いながら現場を支える黒ギャル店長代理の話です。
現代、コメディ寄りで、少しだけ距離の近い関係性を添えつつ、
「守る側」と「守られる側」が入れ替わる瞬間を書いてみました。
肩の力を抜いて、さらっと読んでいただければ幸いです。
『店長代理は笑って脅す。営業部長補佐は胃薬を飲む。』
神崎進の一日は、だいたい胃から始まる。
朝の満員電車で肋骨がきしみ、会社に着く前にすでに胃が薄く痛む。四十六歳、営業部長補佐。肩書は立派だが、実態は「部長の勢いと勢力争いのあいだに立つ緩衝材」だ。現場に謝り、役員に頭を下げ、部長の機嫌を読み、部下の愚痴を受け止め、結果として胃薬の消費量だけが右肩上がりになった。
そんな彼が今月、なぜか「若年層向けアパレルの協業案件」を任されている。任されたというより、押しつけられた。
きっかけは役員会での一言だった。
「うちは若い客の感覚が弱い。現場で売れる言葉を取ってこい。神崎、頼むよ」
頼むよ、の直後に全員が視線を逸らすのを、進は見逃さなかった。要するに、地雷原へ行ってこい、の婉曲表現だ。
協業先は、渋谷の路面店に店を構える「ARCANA」。SNSの強さで知られるブランドで、店舗はいつも、色と光と音で若さを詰め込んだみたいに眩しい。
進は鏡の前でネクタイの結び目を整え、ひとつ深呼吸をしてから店の扉を押した。
鈴の音は軽い。だが、その奥で待っていた空気は軽くない。
「……あ、来た。スーツの人」
背の高い黒髪の女性が、レジカウンターからひょいと顔を出した。褐色寄りの肌に、引き締まった脚。露出は抑えめなのに、存在感だけが過剰に目立つ。大ぶりのフープピアスが揺れ、長いまつ毛の奥の目が、進を値踏みするように細く笑った。
「神崎さん、ですよね。営業部長補佐。名刺、いただきます」
間違いなく若い。二十代後半だろう。なのに、言葉の端々に「慣れ」がある。敬語の形だけをなぞる新人ではない。相手の反応を引き出して、そこから主導権を握る種類の人間だ。
進が名刺を差し出すと、彼女は受け取った瞬間に一度だけ視線を落とし、次に顔を上げた。
「……ふーん。会社って、こういう紙が好きですよね」
笑いながら言っているのに、針がある。進は胃がきゅっとなるのを感じた。
「ARCANA、店長代理の黒澤リオです。今日は、何のご用で?」
店長代理。つまり現場の実務と数字を握っている。
進は背筋を正し、最初の台本どおりに口を開いた。
「本日は、弊社との協業に関して、具体的な販促計画のすり合わせを――」
「すり合わせ。いいですね。言葉が丸い」
リオはにこっと笑って、しかし目は笑っていない。
「先に、こっちの話していいですか。すり合わせって言うなら、まず“押しつけ”を外してもらわないと」
心当たりがありすぎて、進は一瞬、呼吸を忘れた。
「……何か、進んでいない点が?」
「進んでないんじゃなくて、勝手に進められて困ってる感じです。昨日、あなたの会社からメール来ましたよね。『インフルエンサー起用費は当社負担で』って。あれ、誰が決めたんですか」
進の脳内で、役員会の顔ぶれが走馬灯のように駆け抜けた。誰だ。たぶん、あの人だ。けれど確証がない。確証がないまま相手に言えば、余計に燃える。
進が言葉を探している間に、リオは小さく肩をすくめた。
「まあ、こうなるのは分かってた。大人の会社って、現場に聞かずに決めますもんね。だから、今日ここに神崎さん来たの、ラッキーです。話が通じる人、っぽい」
っぽい、が妙に刺さる。期待されているのか、試されているのか、どちらにせよ胃が痛い。
「こちらで確認し、社内に持ち帰り、調整します」 「“調整します”は、やるかどうか分からない時の言葉。神崎さん、あれでしょ。胃薬常備してるタイプ」
進は咳払いをして誤魔化した。なぜ分かる。
「……置いていません」 「置いてる。バッグの右ポケット。今、手が無意識にそこ触った」
見られている。進の身振り、呼吸、視線の揺れ。全部、観察されている。
リオは笑ったまま、進に一歩近づいた。香水ではない、清潔な石鹸みたいな匂いがふわっと届く。距離が近いのに、怖い。
「じゃ、取引の話は“すり合わせ”ね。まず、現場が困ってることを、神崎さんが“会社に戻して”止める。それができるなら、こっちは協力します。できないなら、契約は白紙。簡単」
「……簡単と言うには、社内の事情が――」 「事情があるのは、みんな同じ。こっちは現場の事情。そっちは会社の事情。神崎さん、どっちの事情を守る人?」
進は答えに詰まった。守るべきは会社だ。だが、現場を潰して売上が出るはずもない。現場を守ることが、結果的に会社を守ることになる。理屈では分かる。分かるが、それを社内で通すのが一番しんどい。
進の沈黙を、リオは「正解」に変えるように言った。
「……大丈夫。神崎さん、言い訳が下手そう。だから本音で動ける人。そういう人が一番、ちゃんと守れる」
不意に、胸の奥が熱くなる。褒められ慣れていない部分が、やけに素直に反応した。
進は、腹を決めた。
「インフルエンサー起用費の件、まず止めます。誰が勝手に投げたのかも、調べます」 「うん。いい感じ。じゃあ、こっちも出せるもの出します。売れる言葉、欲しいんでしょ?」
リオは身を翻し、店内奥へ進んだ。進は半歩遅れてついていく。店の奥はスタッフルームと、試着室が並んでいる。扉の向こうから、スタッフの笑い声と、軽い音楽。
「ここ、うちの現場の心臓。商品は可愛いだけじゃ売れない。売るのは“人”だから。人が折れたら終わり」
リオは、扉の前で振り返った。
「神崎さん、現場って、好き?」 「……好きかどうかは、考えたことがありません」 「じゃあ今から考えて。好きじゃないと、守れないよ」
その言い方が、脅しに近いのに、妙に優しい。
進は、心の中で小さく息を吐いた。胃が痛い。でも、目の前の人が怖いのは、彼女が本気だからだ。本気で現場を守ろうとしている。そういう人間に、進は弱い。
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午後、進は会社に戻るなり、社内のメールを掘り起こし、起案者を突き止めた。予想どおり、役員直下の企画部門だった。しかも、進の上司である営業部長の承認を「口頭で取った」と記載している。
口頭で取った――つまり、言った言わないの泥沼。進の胃が、再び波打つ。
進は営業部長の席へ向かった。部長は腕を組み、資料を読んでいる。顔だけは涼しい。だが、この涼しさの裏で現場は凍える。
「部長、ARCANA協業の件で、企画から現場に負担を投げています。止める必要があります」 「何? そんなの、若いところは勢いでやればいいだろ。金は後で――」 「後で回す金は、現場の人間にとっては存在しません。今月のシフトと、今月の生活しかない」
言い切った瞬間、進は自分でも驚いた。口から出たのは理屈ではなく、誰かの声だった。さっきのリオの声。現場の心臓。折れたら終わり。
部長の眉がぴくりと動いた。
「神崎、急にどうした。若い女にでも焚きつけられたか」 「……焚きつけられました。現場を守れない取引は、取引じゃありません」
沈黙が落ちた。進は覚悟を決めて、さらに言う。
「もし部長が現場を守る気がないなら、私は部長の“尻拭い”をやめます。役員会で、取引のリスクを正面から説明します」
部長の目が鋭くなった。だが次の瞬間、笑った。
「……お前、そんな顔もできるんだな」 「胃が限界です」
その場にいた部下が噴き出し、部長も鼻で笑った。空気が少しだけ緩む。
「分かった。企画には俺から言う。だが神崎、現場側もちゃんと数字を出せ。甘えるなよ」 「はい。数字は、出させます」
進は、拳を握りしめた。勝った、とは言えない。だが、止められる。少なくとも、現場への押しつけは止められる。
そしてその夜、進は渋谷へ戻った。
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閉店後のARCANAは、昼間の眩しさが嘘みたいに静かだった。照明が落ち、マネキンの影が長く伸びる。スタッフが片付けをして、シャッターが半分降ろされる音が響いた。
リオはレジ横で腕を組み、進を見た。
「で。止められた?」 「止めました。完全にではありませんが、起用費は折半、しかも段階的。現場の持ち出しはゼロにしました」 「ふーん」
リオは、一拍置いてから笑った。
「やるじゃん、神崎さん。胃薬の人、ちゃんと強いじゃん」
褒められると、進の心臓が少しだけ跳ねる。情けないほど単純だ。
「その代わり、数字は出してください。社内政治の代償です」 「分かってる。数字なら、うちは出す。出してるから今ここにいる」
リオは背伸びをして、進のネクタイを指先で摘んだ。軽い動作なのに、進の喉が渇く。
「でもさ。神崎さん、今日、部長に言い返した顔。想像したらちょっと笑った」 「笑わないでください。私は今も震えています」 「震えてるのに、やる。そういうの、……好き」
最後の一言だけ、声が落ちた。
進は、言葉を失った。冗談の続きだと思ったのに、目の前の彼女の視線は逃げない。冗談に見せかけて、本音を置いていくタイプだ。逃げ道がない。
「リオさん、それは――」 「責任取るって意味じゃないよ。重いのは、いらない。重いのは、会社だけで足りてる」
リオはネクタイから手を離し、代わりに進の袖口を軽く引いた。
「こっち。試着室、空いてる」
進の脳が追いつかない。だが足は動いてしまう。理性より先に、身体が「ここで拒めば二度とこの温度は来ない」と理解している。
試着室のカーテンが閉まる。外の音が遠くなる。薄い布一枚なのに、世界が変わった気がした。
「神崎さん、目がまじめすぎ。そういう目で見られると、こっちもまじめになる」 「……私は、いつもまじめです」 「うん。それが問題」
リオは笑いながら、進の胸元に指を置いた。スーツ越しに、指先の温度が伝わる。
「ねえ。今日さ、守ってくれたでしょ」 「仕事です」 「仕事でも、守られたのは事実。現場って、守ってくれる人に弱いの」
彼女の声が、妙に静かだった。からかいのトーンが消えている。進はようやく、彼女の強さの裏にある疲労を見た気がした。
「……守るのは、当然です」 「当然、って言える人が、どれだけいると思う?」
リオは進のネクタイを解き、シャツの一番上のボタンに指をかけた。進は息を止めた。
「嫌なら止める。神崎さん、ちゃんと言って」 「……嫌ではありません」 「ちゃんと目見て言って」
進は、リオの目を見た。揺れない黒。強い色。でも、その奥に小さな不安がある。
「嫌ではありません。あなたに、触れられるのは……」
続きが言えず、進は唇を噛んだ。代わりに、リオが微笑んだ。
「よし。じゃ、今は会社のこと、忘れて」
シャツのボタンが外れる音は小さかった。けれど進には、妙に大きく聞こえた。リオの手が胸元に滑り、進の肩が熱を帯びる。スーツの堅さがほどけていく。彼女の息が近く、言葉が曖昧になる。
「神崎さん、さっきから呼吸が浅い。緊張しすぎ」 「……慣れていません」 「慣れなくていい。慣れたらつまんない」
リオの指が、進の顎を持ち上げる。視線が絡み、次の瞬間、唇が触れた。強引ではないのに、主導権は完全に彼女にある。進は抵抗できず、代わりに腕を伸ばし、彼女の背中を抱き寄せた。
柔らかい。温かい。強い香りではなく、生活の匂いがする。若さの眩しさではなく、夜の静けさがある。
リオが小さく笑った。
「ほら。守る人も、守られたいでしょ」 「……そうかもしれません」
言った瞬間、リオがまた唇を重ねてきた。カーテンの向こうで誰かが笑う声がした気がして、進は思わず息を飲む。だがリオは平然としている。
「大丈夫。みんな帰った。最後まで残るの、店長代理の仕事」
その言い方が可笑しくて、進は笑ってしまった。こんな状況で笑う自分が信じられない。
「笑うんだ、神崎さん」 「あなたが、ずるいからです」 「ずるくないと、生き残れない」
リオは進の手を取り、彼女の腰へ導いた。そこで進の理性が最後に踏ん張り、囁く。
「……無理はしないでください」 「無理じゃない。私が選んでる。神崎さん、そこだけ間違えないで」
進は、頷いた。大人同士の、短い確認。言葉にすれば簡単なのに、それがどれほど大切か、進は痛いほど知っている。
その先は、急に世界が柔らかくなった。
布越しの息遣い。指先が探り合う熱。リオの声が何度も進の名前を呼び、進はそれに応えるように彼女の背中を抱いた。スーツという鎧を脱ぐと、人間はこんなに簡単に弱くなるのかと、進は思った。
リオが耳元で囁いた。
「神崎さん、明日からも、ちゃんと現場守って」 「……はい」 「守れなかったら、罰ね」 「それは、仕事の罰ですか」 「仕事の罰も、こっちの罰も」
進は苦笑し、そして息を呑んだ。罰という言葉の軽さの奥に、確かな執着がある。彼女は軽いふりをして、深く刺してくる。
進はその刺さり方が、嫌ではなかった。
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翌週、ARCANAとの協業は、社内で「成功例」として扱われ始めた。押しつけを止め、現場の負担を削り、代わりに数字を積み上げる。役員会は掌返しで褒め、企画部門はしれっと「当初からこの設計だった」と言い出した。進は胃が痛くなったが、笑って飲み込んだ。現場が潰れていない。それが一番だ。
リオは相変わらず、店で強く立っていた。スタッフを守り、数字を守り、客を楽しませる。SNSの投稿は鋭く、コメント欄は熱い。売上は伸び、店の空気は明るい。
だが閉店後、シャッターが降りると、彼女は時々だけ、進にだけ弱さを見せた。
試着室のカーテンの向こうで、リオが進のネクタイを指先で弄びながら言う。
「神崎さん、今日、企画の人にまた何か言われた?」 「……少しだけ。ですが、大丈夫です」 「大丈夫じゃない顔」
進が苦笑すると、リオはすぐ距離を詰めてくる。からかうようでいて、実は慰めている。
「じゃ、充電しよ。胃薬の人」 「その呼び方はやめてください」 「やだ。可愛いから」
進は反論しようとして、結局言葉を飲み込む。可愛いと言われて嬉しい自分を、否定できない。
リオは笑い、そして真面目な目で言う。
「私さ。守ってくれる人に弱いって言ったでしょ」 「はい」 「でもね。守る人にだって、ちゃんと報酬が必要。神崎さんは、報酬、受け取るの下手。だから私が渡す」
進は、彼女の手を握った。
「受け取ります。……あなたが渡してくれるなら」 「よし」
それだけで、リオの顔が少しだけ柔らかくなる。
大人の関係は、簡単ではない。だが少なくとも、ここには嘘が少ない。会社の会議室より、よほど健全だと進は思ってしまう。
胃は相変わらず痛い。部長は相変わらず無茶を言う。企画は相変わらず現場を知らない顔をする。世界は変わらない。
それでも進は、渋谷の路面店の小さな試着室で、確かに息をつける。
カーテンの向こうで、リオがまた笑う。
「神崎さん。次、役員会で戦う日、ちゃんと帰ってきてね」 「……はい。帰ってきます」
それは約束というより、帰る場所の確認だった。
進は、自分の胃が少しだけ軽くなった気がして、いつものように苦笑した。
――そして、今日もまた、店長代理は笑って脅す。営業部長補佐は胃薬を飲む。
ただし今夜の胃薬は、たぶん、必要ない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この短編は、「派手さはないが折れずに現場を支えてきた中年」と、「軽く見られがちだが現実と数字を誰よりも見ている若い女性」を、仕事という共通言語で正面からぶつけてみたらどうなるか、という発想から書きました。
神崎は特別に有能なヒーローではありません。
ただ、逃げない。ごまかさない。誰かの“しんどさ”を見なかったことにしない。
それだけの人です。
一方のリオも、強く見せる術を身につけただけで、決して万能ではありません。
現場を守るために尖り、笑って脅すことで自分を保っているタイプです。
この二人が惹かれ合う理由は、年齢差でも、刺激でもなく、
**「同じ場所で、同じ現実を見ている」**という一点に尽きます。
恋愛や関係性の描写はありますが、この物語で一番書きたかったのは、
「守る」とは何か、
「責任」とは誰のためのものか、
そして “現場に立つ人間が報われる余地” です。
仕事の話をして、胃が痛くなって、それでも帰る場所がある。
それだけで、人は案外もう少し踏ん張れるのかもしれません。
軽く読めるコメディの皮を被せつつ、
どこかに覚えのある疲労や、静かな安堵を感じてもらえたなら嬉しいです。
ここまでお付き合い、ありがとうございました。




