EP.20『選んだ道』
悲哀と絶望と怒り。ないまぜの感情に突き動かされるニコールの背中に、もうアライナは止める言葉を持っていなかった。固い決意は簡単に覆されるものではない。ましてや、自分の命よりも大切だと感じる相手が理由なら、なおさらに。
だからニコールは、ふらつく体で足を止めずに、マウリシオのいる部屋を目指して必死に歩いた。邸内で執事やメイドが無理をしないよう声を掛けても決して耳を貸さず、執務室の扉の前で息を切らす。黒い感情が沸々と湧きあがった。
「マウリシオ隊長。入らせて頂きます」
遠慮なく、許可も求めず扉を開ける。暗い部屋の中で、椅子に座って机に肘をついて手を組むマウリシオを見つけた。ニコールと目が合って、気まずさと同時に鬼気迫る雰囲気に怖ろしさすら抱く。
「戻れ、ニコール。残念だが話す事は何もない」
「あなたになくても私にはあるんです」
ふらふらと、剣を支えに机の前にやってきて柄を握った。
「アダムスカを見捨てると、そう仰るのでしょう。顔を見ればわかる。あなたはいつだって自分のために生きてきた。違いますか」
「今度ばかりは、その言葉は私には響かん。家族の命が掛かってる」
分かっている。自分が逆の立場ならそうしたかもしれない。だが、だからこそ腹が立つ。見捨てられた事に。暗く静かな部屋に響く低い声を聞いて、ニコールは全身がざわつくほどの怒りに満ちていく。
剣を迷いなく引き抜いてマウリシオの首にあてがう。僅かにつうっと血が垂れた。それでも、どちらとも動揺する事はなく冷静で、抱いた感情は真逆だ。
「欺瞞でしかない誠実さで命を救うと仰るのであれば、私は容赦なく、その首を斬り落とし、反逆者として陛下の御前に捧げてあげましょう」
言われた事にマウリシオはぎゅっと目を瞑って、握った拳で机を叩く。
「真に誠実なだけで愛した者の命が救えるのなら私だってそうしている! だが、お前たちさえ差し出せば、私と妻の命は救われると言うのだぞ!」
「それで仲間の命さえ売れるのなら立派だな、マウリシオ。きっとカロール様も褒め称えて下さるでしょうよ、素敵な旦那様だと!」
返ってきた言葉に、初めて強い態度を示したニコールに、マウリシオはビクッとする。熱の強い敵意の眼差しは冷酷にすら思える。初めて見るニコール・ポートチェスターという人間の底を見て、背筋がぞくりとした。
「私は親衛隊の肩書など、とうに捨てている。あなた方を尊敬する気も、とうに失せてしまった。だが、カロール様は違う。あの人は自分が助かるために私たちを見捨てようとはしなかった。私という重荷を背負おうとした」
結果的にはアイデンの徹底した謀略によって上手くはいかなかったが、誠実で有り続けた。恐怖で震えながらも助けようと必死になった。
「守り切れなかった事はお詫びする。だが、だからといって親衛隊であるあなたが、平然と家族を救うために多くの人間の命を危険に晒すのであれば看過できない。私は────ごほっ、ごほっ……!」
声を荒げて興奮しすぎたか、咳き込んで口を手で押さえる。べったりと手の平を紅く染める血を見て、心底不愉快な気持ちになった。
「アダムが死ねばカロール様も死ぬだろう。だから今ここで選べ。アイデンの味方をして親衛隊での地位を守り、過去に囚われながら生きるか……。それとも元部下の信頼を勝ち得て、全員が生き残る未来を目指すか……!」
ぜえぜえと肩で息をするニコールを見て、何ができるかと誰が見ても思う。だがマウリシオには分かる。命と引き換えにしてでも成し遂げようとする意志が瞳に宿っている。青白い顔に汗を滲ませ、立っているのもやっとなほどの体で、確実に成し遂げられると思わせるほどの気迫を感じた。
だが、限度はある。意識が再び朦朧として、ニコールが床に倒れた。苦しそうに息をする姿にマウリシオは席を立って傍に屈んだが、相手は女性だ。触れていいものかどうかと苦い顔をする。
「私にどうしろと言うのだ、ニコールよ……。妻の命が危うい状況なのだぞ。挙句に地位も名誉もなくなれば彼女を養う事さえできない。アイデンに逆らう事がどうして出来ようものか……」
うすぼんやりとした意識のニコールが、弱弱しくも鋭い目を向ける。
「戦うべきだ……親衛隊は、人々の……ための……」
そう言われても、と渋るしかない。自分には何もできないとマウリシオは無力を受け入れていた。アイデンに逆らう事で、命よりも大切な相手を奪われる可能性がある。立ちあがりたくても立ち上がれないのだ。
「……時間はまだある。今は眠っていろ、ニコール。お前の考えは十分に伝わった。だが、こればかりはどうあっても譲れない。お前が救いたいと願うように、私も大切な者の命を救いたいだけなのだ」
結局、ニコールの気持ちには応えられなかった。どれほど鬼気迫る様子であったとしても背に腹は代えられない。また意識を失ってしまったニコールを抱え、申し訳ないという気持ちで寝室まで運ぼうと廊下へ出た。
「また意識を失ったのね。無茶をするから……」
「アライナ。聞いていたのか」
「まあね。私も、あんたと似た理由でニコールに嫌われたわ」
大げさに肩を竦めて、残念そうに笑う。
「ではこれからどうするつもりだ。第六親衛隊を待つのか」
「いいえ。待つのはやめる事にしたのよ、ニコールのおかげでね」
眠っているニコールを見て、アライナは新たな決意を胸に抱く。
「アイデンのクソ野郎が仕組んだ事をひっくり返す作戦を思いついたの。それで、あんたもどう。勝ち馬に乗る気、ないかしら?」
「ない。それが勝ち馬かどうかも分からんだろう。リスクは低く、だ」
本当に嫌な奴ね、とアライナはマウリシオから奪うようにニコールを抱く。
「だったら部屋にでも引き籠ってアタシたちの勝利報告でも待ってなさい。あんたの誠実さに惚れたカロールも、きっと冷めた顔をするでしょうけど」
「……ふん。私は正しい判断をしたまでだ。好きにしろ」
部屋に戻ろうとするマウリシオの背中、アライナはひと言だけ残す。
「考えが変わったら、いつでも来なさいな。────待ってるわよ」