EP.19『騎士道なんて要らない』
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「……ル……コル……!」
誰かが名前を呼ぶ声に、ニコールはうっすらと目を開く。息苦しい。胸が詰まった感覚がある。幸いなのは突きさされた腹の痛みがない事だ。
「良かった。やっと目を覚ましたわね」
「……アライナ、隊長」
明るい光が眩しい。天井につるされたシャンデリア。豪華さをより求めたような軟らかなベッドに横たわっている自分の体が、仄かに沈んでいる。
「まだ動かない方が良いわ。あんた、裏通りで死にかけていたのよ」
体が上手く動かせない。アライナの言葉だけがよく聞こえ、喉を軽く絞められているかのように、言葉が掠れて空気と共に小さく吐き出された。
「ここ、は……」
「レスター邸。エボニーが応急処置をして、アタシが運んできた」
「そうです、か。ありがとう、ございま……」
「無理して喋らないで。起きたばかりなら少し話を聞きなさい」
アライナがベッドの傍に椅子を持ってきて、どっかり座った。その様子には、僅かだが怒りが見えた。
「あんたは六時間も眠ってたのよ。オーラ使いならもっと早く目を覚ましていたでしょうし、あの程度の傷なら治癒できたはず。でもできなかった」
指摘されると確かにそうだと感じる。本来、片目を潰されようがアダムのように痛みをある程度緩和できるものだ。身体能力に特化するオーラ使いであれば、特に全員がそうして簡単には死なない体を持つ。
にも拘わらず、一刺しでまずいと思うほどの止まらない出血。呼吸すら整えられなかったのは冷静になってみれば異常な話だった。
「あんたが受けたのは猛毒よ。オーラ使いが毒で死ぬなんてそうそうないけど、致命的な怪我をしていれば話は別。毒自体は大したものじゃないとしても、本来のあんたらしい治癒力が阻害されたの」
最初から対策済み。万全に万全を重ね、そのうえでまだ更に策を重ねる。狡猾な男の徹底ぶりに、真正面から挑んだ事が仇となった。
「とりあえず、あんたは休みなさい。カロール夫人とアダムスカの救出はこちらでやるわ。ひとまずは第六親衛隊を待ってから作戦に……」
「駄目です……! それでは、遅すぎ────ごほっごほっ!」
咳き込んだ拍子に吐血する。だが、そんな事に構っていられるかとニコールは気の強い瞳でまっすぐアライナを睨んだ。
「連中の目的は我々の抹殺です。都合の良いように、真実を書き換えるための。だから、私たちが動かなければ! 増援が来る事すら想定して動いているかもしれないのに、好き勝手にさせておけばこちらが不利です……!」
ぎゅっと握ったシーツに血が滲んで、美しい白が真っ赤に染まった。いやな汗がにじんで頬を伝う。顎からぽたっと垂れて、滲んだ血がふわっと広がる。
「どいて、ください……。マウリシオ隊長にも、伝えなくては」
「────駄目よ。それは許可できないわ」
ぴしゃり。拒絶するかのような言葉が、分厚い壁の如くニコールの前に立ちはだかった。あからさまに、こちら側へは進めない、と。
「……なぜ」
恨みが喉から溢れる。今、此処で進まなければ何を成せるのだと。仲間が、守るべき友人が、命を落とそうとしている状況で。
アライナは憎まれる事を受け入れた上で、かぶりを振った。
「伯爵夫人が人質になった事は既に知れているわ。アタシたちのいない間に、雇われてた暗殺ギルドの連中が忍び込んだみたい」
余計な事をすれば即座にカロールを殺す。指定した時間と場所にアライナとエボニーが丸腰の状態で来る事が条件でカロールだけを解放すると勧告があった事をアライナが話す。マウリシオに協力は仰げない、と。
「明日の夜九時、港にある第三倉庫で待っているそうよ。アダムスカがそれまで生きている保証もないでしょ。無理な接触で第三者の命をいたずらに賭ける事は騎士道に反する行いは許可できない。あんたも分かっているはず、違うかしら」
時間的には十分、第六親衛隊が到着する頃だ。アイデンたちの知らないただひとつの情報を利用して、事件とは直接的な関係のないレスター伯爵夫人の安全を最優先に考えた救出作戦を実行する。それが親衛隊長としてのアライナの方針だ。
「……マウリシオ隊長は、なんと?」
「それで構わないと言ったわ。二人の命を天秤に掛けるまでもない」
「会わせて下さい。……いえ、会いに行きます」
壁に立てかけられていた剣を手に、杖の代わりにしてフラフラとベッドから立ち上がった。今にも倒れそうな倦怠感と込み上げてくる吐き気に耐える。体内に入り込んだ毒で死ぬ事がないとはいえ、それなりに苦しむのは現実としてある。いかに頑丈なニコールであれ、簡単には回復しなかった。
「その状態で何を話して説得するつもり。あいつがそこまで情に厚いとでも思っているの。悪い事は言わないから戻りなさい。でないと……」
命令など聞くものか、とニコールは振り返って刺すような視線を送る。誰よりも大切な、やっと自分の気持ちに気付けた相手が、今に殺されそうなのに。
「でなければ、今ここで自害します。アダムを救えないのなら意味がない」
あまり刺激できない状態だな、とアライナは緊張に押し黙った。
「アライナ隊長。これが私とアダムではなく、あなたとエボニー副隊長だったなら同じ選択ができましたか。最愛の人よりも伯爵夫人の安全を取れると」
「そ、れは……!……ええ、難しいわね」
共感が強く、返す言葉もないと居心地が悪い。エボニーは恋人だ。誰よりも愛し、誰よりも理解してくれる人。互いにそうだと思っている。もしエボニーが捕まっていたら簡単に切り捨てられたかと言われて、明確に騎士道に属するのが最適解だとは答えられない。逃げるように視線を逸らす。
ニコールは恨むように鼻を鳴らした。
「フッ、そうでしょうね。私は今、そういう気持ちなんです」
心からの軽蔑。これまでは公女の側近であった護衛騎士として誇らしい女性の先輩騎士であったが、今はまるで尊敬する気にもなれなかった。
「最愛の友人を捨ててまで貫くべき騎士道があると言うのなら、好きなようにすればいい。だけど……私の邪魔だけは、しないでもらいたいです」