EP.37『気を遣わなくてもいい』
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「本当に申し訳ございませんでした」
朝から床の上に正座して謝罪するニコールの顔色はあまり良くない。体調が悪いのではなく、今自分が置かれている状況の気まずさゆえだ。なにしろ酔っぱらってアダムスカに絡み、挙句の果てには抱き枕にして眠ったのだから。
「まさか、私の酒癖が此処まで悪いとは思わず」
「今までそういう事なかったんですか?」
「うん。誘われても仕事を優先に考えて控えていたから」
俯きがちに、そっと視線をあげたニコールは、すっかり隈の出来あがったアダムスカの顔を見てさらに申し訳なくなる。一睡もしてないと分かった。
「あ、あの……。何か私に出来る事があればなんなりと……」
「そこまでしてもらわなくて大丈夫です。それより朝食にしましょう」
ずっと眠っていなかったのは、何も額にキスされたからだけではなかった。言葉通り抱き枕として扱われていたので遠慮なく抱きしめられ、寝返るときも引っ張られ、しきりに聞こえてくる穏やかな呼吸の音。起こしてはいけないという謎の使命感から緊張が解れずに朝を迎えたのだ。
「お、怒ってないの?」
「怒っても疲れは取れませんからね。でも美味しいものを食べたら元気は出るでしょう。これからはそんな日くらい、いつでもありますよ!」
にかっ、と笑って先に部屋を出ていく。ニコールはぽかんとした。
「……ふふっ。そっか。まあ、とても分かるよ」
笑っていられる時間が増えたな、とニコールは立ちあがってのびをする。親衛隊時代は気を張りすぎていたと、いまさらに思った。
入隊当初は緊張で凝り固まった考えで、まともに働かない親衛隊員たちについて愚痴を零した事があるが、『君も怒ってばかりでは身が持たんぞ。柔軟に考えたまえ、彼らのように笑う事も大事なメンタルケアだ』とタデウスに返されたのを振り返って、確かに笑っている方がずっといい、と納得した。
「(まあ彼らは少々手に余るくらいにさぼっていたけど。それは今の私も言えた義理ではないか。のんびりしすぎて、怠惰が癖になりそうだ)」
背負い続けた義務は、今はもうない。美味しい料理に舌鼓を打ち、静かに酒を飲んで、朝はゆっくり目を覚ます。アダムスカには迷惑を掛けたが、これもまた良い一日の始まりかな、と気分は悪くなかった。
宿の一階へ降りると既に食事の支度は済んでおり、後はニコールが席に着くだけだ。窓から差し込む陽射しの温かさを感じ、外にいる人々が労働に従事するのを眺めて休日を満喫するのは、罪悪感と幸福感が同時にやってくる。
「おはよう、ニコールさん、アダムスカさん。飲み物は何がいい?」
シアラがやってきて、アダムスカはテーブルを見る。目玉焼きとソーセージがふたつに、小さな皿に盛られたビーンズサラダ。それからトーストが二枚。きつね色に焼けていて、かりかりふわふわだ。
「アタシはオレンジジュースがいいです。あります?」
「もちろん。ニコールさんは何がいいかな」
「私はミルクを。氷を入れてくれると嬉しいです、冷えているのが好きで」
「はいはい、じゃあ少しだけ待っててね」
シアラが厨房に引っ込んでいくと、とりあえずは用意された水で軽く口を潤す。美味しそうな匂いに朝を感じた。
「おまちどう。ゆっくり食べてね、何かあったら呼んで頂戴」
「ありがとうございます」
ニコールが小さく会釈をすると、アダムスカもそれに倣って続いた。
「じゃあ、先にちょっと食べようか」
「ですねえ。……ここはサニーサイドアップなんですね」
「君は嫌い? 私は半熟の滑らかな口当たりが好きだけど」
「アタシも好きですよ。でも食堂で出る奴って、ほら……焼きすぎでしょう」
「あぁ、向こうはターンオーバーが主流だからね」
ナイフとフォークで行儀よく黄身を割ったら、トーストを小さく千切って黄身をつけながら食べるニコールを見て、アダムスカは『そんな食べ方あるんだ』と興味津々に眺めながらビーンズサラダを口に放り込む。
「なんだい、私の顔に卵でもついてる? それともソーセージが欲しい?」
「いえ。そういう食べ方ってあまり見た事なくて。皆さん、大体のせて食べていらっしゃるので。そっちの方が黄身が垂れなくて食べやすそうだなって」
あぁ、とニコールは納得して、指につまんだトーストを皿に置く。飲み物が届いて、また軽く会釈をしてから話を続けた。
「私もそうなんだ。昔はそうやって食べるのが普通だと思ってたから、エリックが今の私みたいに食べてるのを見てどうなのかと思って尋ねたら────」
ニコールは親衛隊でも珍しく平民の出身だ。出来る限り周囲に合わせたマナーをと考えていたところ、エリックが堂々と目玉焼きの黄身を割ってソースを掛け、そこにトーストをつけながら食べていたので、それは良いのか? と不思議に感じて尋ねたのだ。そのとき、彼は堂々と、理解できないといった顔をして。
『美味いもんはどう食ったって美味いんだから別にいいだろ。お偉方が集まるパーティ会場でもねえのに、お行儀良くなんてケチくさい事できるかよ』
きっと何気なく返した言葉なのだろう。だがニコールには確かに響いた。美味しいものを美味しく食べるのが最高の食事なのだと。それを同じ立場の人間が口にしていたのならそうだろうかと疑問も感じたかもしれない。だがエリックは貴族で、いつかは爵位を継ぐ人間だ。そんな男が言うのだから間違いないとも思った。
「私たちは、今のところは親衛隊にも騎士団にも戻る予定がないだろう? それなら、もっと自由でいいんじゃないかなって思ったんだ。だから気にせずに、好きな食べ方をする事にしたのさ」
納得した、とアダムスカが頻りに首を縦に振った。
「なるほど。そうですねえ。今が一番、誰にも気を遣わなくていいですもんね。確かにその考え方はアリです。エリックさん、中々良い事言いますね」
「だろう。彼もときどきは良い事を言うんだ」
きっと本人が前にいれば『なんなんだお前ら』とでも言いそうだな、と笑い合う。いつか友達も誘って旅行ができれば。そんな事を考えながら。