EP.20『怪物』
驚いたが、冷静さは欠かなかった。どちらかと言えばニコールは『取り返さなければならない』という思考の方が勝った。咄嗟に剣を引き抜いたのは正解と言える。飢えて気の狂った獣は決して待ってはくれないのだから。
『────!!』
咆哮と共に駆け抜けてきた魔物の暴れ方は、まさに嵐だ。土を踏めば揺らし、爪で掻けば抉り、叩けば家を破壊する。しかしオーラ使用者の二人は、攻めあぐねはしているものの、容易に怪我をするほどやわでもない。
「すみません、ニコール! 援護してもらって……!」
「構わない、呆気に取られても仕方ないだろう!」
あんなものを見せられて動揺しない方がおかしい、とニコールも険しい顔をする。エリックのペンダントは、つまり送り出した兄弟が、その道すがらに遭遇した事を示すものだ。もしかしたら……と頭を過る嫌な感覚が消えなかった。
「(さて、冷静になれ。どうやって倒したものか、ここまで暴れられると手の出しようがない。とはいえ勝てない相手でないのは分かったが……)」
想像していたよりも楽だと思ったのは、アダムスカが強い事に起因する。七年の間、どれほど鍛錬に励んで高みへ届いたのかは想像を絶するものだ。ただひたむきだった自分とは大きく違う、とニコールは分析した。
驚かされたのは黒いオーラがゴアウルフという仇敵を前にした途端、いっそう強くなった事だ。怨恨あるいは憎悪がオーラを強めている。今度は決して逃がすまいと、がむしゃらになるほどに。
「アダム、下がれ! 冷静さを欠きすぎだ!」
「……! す、すみません……!」
呼びかけられるとハッとする。同時に黒いオーラが弱まった。
「(なるほど、あの黒いオーラは使うと理性にまで働きかけるのか。あれではまるで戦場の亡霊にでも取り憑かれたようだ。こちらの呼びかけに反応するあたり、まったく制御が効かないわけではないみたいだが)」
無謀な戦い方をする者は、いくらでも見てきた。だから焦りはない。むしろアダムスカが想像以上に凶暴化したゴアウルフを押し返すような戦いぶりを見せたことに、ニコールはとても驚かされた。
「アダム、私が正面から囮になる。あれも所詮は獣だ、そう簡単に複数の標的を狙えたりはしない。君は側面あるいは背後から奇襲をかけてくれ」
「大丈夫なんですか、その作戦……。ニコールが危険すぎます」
確かに危険ではあった。アダムスカに比べれば、ニコールは強力なオーラの持ち主ではないし、ソードマスターとしての名誉を与えられたのもそう昔の話ではない。出来が良いと言えばそうだが、かといって未熟な部分があるのは事実だ。
それでも臆している場合ではなかった。アダムスカが囮になるよりは、よほど確実に仕留められると考えた、最も勝算の高い策だった。
「(ニコールの言う通り、今の状況はアタシがゴアウルフの弱点を突く方がきっと適任だ。でも、あれを前にしては危険すぎる。怪我でもされたら……!)」
不安だった。これまで見てきた誰よりもニコールは強い。それは間違いない。だがゴアウルフの強さから考えて『確実に勝てる』と断言できるほど甘い相手でもないのだ。また誰かが傷付くのは、見たくなかった。
それでもニコールは自分の指示を信じて疑わなかったし、なにより真正面から挑む必要があった。絶対に見逃してはならないものがある。小さめの牙にずっと引っ掛かったペンダントのチェーンはいつ千切れてもおかしくない。元々、エリックが首から提げずに持ち歩いていたのもあって偶然掛った可能性もある。生きていたら渡してやらなくてはと、どこかへ飛んでいっても目で追いかけるつもりだった。
「ニコール、あまり無理はしないようにお願いしますよ!」
「分かっているよ! 君こそ気を付けて、懐に潜り込むのは楽じゃない!」
全身が硬い体毛に覆われていて剣は通りにくく、弱点を突くとしたら体毛の薄い腹部を狙う事になる。飛び込んで剣を振ればいいとは簡単な話に聞こえるが、オーラ使用者といえども暴れるゴアウルフの体当たりでも受けようものなら重傷を負っておかしくない。掠るのでさえ許されざる凶悪さ。強靭さ。
時間が経つにつれて、ニコールに注意が傾く中、アダムスカは背後に回り込んだ。股を潜り抜けての一太刀に全てを賭ける。完全に注意がそれるまで合図を待ち、剣を構えて距離を測る。ゆっくり、ゆっくり────。
「アダム、今だ!」
合図と同時に一気に飛び出す。ゴアウルフが気付いて振り返り、瞬間は焦ったものの、ニコールはそうはさせまいと、最も危険な頭部に剣を構えて飛び掛かった。あまりに危険な陽動行為にはアダムスカも驚かされた。
当然、最も危険であるニコールへ振り返って、ゴアウルフが大きな口を開けてかみ砕こうとしたが、狙いは最初からそれだ。飛び込むふりを見せて巨大な牙を蹴り、地面に転がった。一瞬でも気を引ければよかった。
『────ッ!!』
気付いた時には遅い。素早い反応速度を持っていても、七年前の怨みを忘れず、後悔を忘れず、何度も何度も頭の中で繰り返された魔物の動きは理解できている。成す術のなかった頃とは違うアダムスカの想いの籠った剣は、今、届く。
懐に入り込み、二度、三度と素早く切りつけ、飛び散った血を浴びても厭わず、致命傷を与えたらすぐに退却。のたうちまわる怪物の死が迫り、もう争う必要はなく、しばらく見守っていると、ひとつ大きな遠吠えをして倒れた。
「……や、やった……! ゴアウルフ討伐完了です、ニコール!」
「ああ、見ていたよ。流石だな、アダム。君と共に戦えて光栄だった」
やれやれ終わった、とニコールは立ちあがって服についた土を払う。
「しかし、確かにこれは巨大だ。普通のゴアウルフじゃなかったな」
転がったペンダントを拾い上げ、胸ポケットにしまい込む。
「後は死骸を調べて、魔法使いの痕跡を探そう。それで────」
「危ない、ニコール!」
倒れていたゴアウルフの目がパチッと開く瞬間、アダムスカは叫んだ。まだ死んでなどいない。狡猾にも余力を残し、倒れて動けなくなると近付いてくるのを待って、その鋭い嗅覚で好機を待った。
がばっと起きあがった巨体から繰り出される鋭い爪の一撃は俊敏で、咄嗟に反応したニコールでも間に合わない。だが、その場で、起きるよりも早くに気付いて反応した者がいた。アダムスカが、オーラを纏って身体を一時的に強化した一歩によって親友を救い出そうと飛び込んだ。
ほんの一瞬の出来事。僅か二秒にも届かない。大きな爪が────。
「ッ……アダム────!」