第9話 遠野夏希②
講習初日の朝、私は少しだけ緊張していた。駅のホームに立ちながら、リュックの紐を無意識に握りしめていた。
手の中で汗を感じて、「あ、緊張してる」と気づいて苦笑する。
ここから先は、もう親の保護もない。
遠野家の“娘”でも、医療家系の“後継者”でもない。
ただの一人の“冒険者”として、自分の意志で生きていく世界。
だから私は、期待半分、不安半分の気持ちでJDAの研修センターに足を踏み入れた。
受付を終え、指定された教室に入ると、既に何人かが席についていた。
ざわついた空気。背筋が伸びる。軽い自己紹介が交わされているところもあるが、全体的に静かで、緊張が漂っていた。
私は入り口近くの席に向かって歩き、空いている席を選ぶ。
すると、その隣に座ってきたのが――彼だった。
黒髪で、姿勢はやや崩していたけれど、どこか整った印象を受ける青年。
一見すると無気力そうに見えるが、目だけは違った。
ぼんやりと前を見ていたその目に、ふと鋭さが宿るのを感じた。
「……遠野夏希です」
勇気を出して話しかけると、彼は少しだけ瞬きをして、静かに頷いた。
「神谷湊です」
その声は落ち着いていて、抑揚は少ないけれど、どこか芯がある。
言葉を交わしたのはそれだけだったけれど、不思議と印象に残った。
自己紹介で名前を忘れることもよくある私が、そのときだけは“湊”という名前を鮮明に覚えていた。
その後、講習が始まる。
ダンジョンの構造、安全手順、モンスターとの遭遇対応……
前に出て説明する講師の話に耳を傾けながら、私はふと隣の湊の様子に視線を送った。
彼は、姿勢を崩してはいたけれど、意外なほどしっかりとノートを取っていた。
***
「ねえ、湊くん。最終日の実地試験、よかったら、組まない?」
その言葉は、私にとっては自然な流れだった。
講習のペアを固定する必要はなかったが、明日から始まるダンジョン実習では、少人数パーティーで行動するのが推奨されている。
湊くんとなら、無駄な気遣いをしなくて済みそうだし、何より落ち着いて行動できると思った。
私が支援に徹し、彼が前線に立つ――役割も明確で、バランスがいい。
「え、俺と?」
返ってきたのは、少し意外そうな声だった。
「うん。まだ誰とも話してないし、湊くんと行けたら安心かなって思って」
私はそう返しながら、少しだけ笑った。
ただ、その後で同期の男子――浅倉という人にも演習でペアを組まないかと誘われて困った。
浅倉くんはいつも仲間と騒いでいて、講師の話もロクに聞かない。
「俺、強スキルきたっぽいんだよね」と大声で吹聴していたのが印象的だった。
正直、私は苦手だった。
できるだけ角を立てないように、でも明確に断る。
すると、浅倉くんは湊くんを馬鹿にするようなことを言い、つまらなそうに踵を返していった。
本当に苦手だ。
***
その後は順調に講習を受け、ついに迎えた最終日。
初めてのダンジョンの入口に立ったとき、私は思った。
(ああ、やっぱり怖い……)
講習でどれだけ安全策を学んでも、“未知の空間”に足を踏み入れるのは、やはり緊張する。
無機質な金属製ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。冷たく湿った風。岩の匂い。ぼんやりとした鉱石の光が、暗闇の中に浮かんでいる。
けれど、その隣にいる彼――湊くんは、全く臆した様子を見せなかった。
指先が自然に腰の剣に伸びていた。斜めに構えた姿勢には、一分の隙もなかった。
(まるで、ずっと前からここにいた人みたい……)
一歩踏み込むたびに、私の緊張は増していくのに、彼の歩幅は一切変わらない。
背中越しに見える彼の姿は、頼もしくて、静かで、まるで“盾”のようだった。
やがて、足音を遮るように、乾いた気配が鳴る。
――ゴブリン
私は息を呑んだ。
講習で見た図鑑には載っていたけれど、実物はずっと気味が悪い。ぬめるような緑色の肌、鋭く尖った牙と短剣。
だけど、湊くんは躊躇しなかった。ふっと重心を落とすと、わずかに地面を蹴って接近し――
「……ッ!」
一閃。
ほとんど音がしなかった。
ただ、風が動いたような感覚のあと、ゴブリンは仰向けに倒れていた。
その動きが、美しいと思った。
攻撃というより、“型”のような。無駄のない動きが、まるで舞いのようで――見とれてしまいそうだった。
***
二度目の探索では、私はもうそれほど怖くなかった。
湊くんの背中を見ているだけで、不思議と気持ちが落ち着いたから。
それに――連携が、すごく上手くいっていた。
私の癒糸も、呼応するように作用していた。
昨日より今日の方が、湊くんの動きが“読みやすい”のだ。
彼の動きが一定だから、タイミングを掴みやすく、魔力の流れが同調しやすい。
(まるで……息が合ってるみたい)
(私、この人のこと、もっと知りたい)
気づけば、戦闘中も彼の背中ばかり見ていた。
彼の立ち姿。
敵に接近する時の重心の落とし方。
斬り抜けたあとの、ほんの一瞬の脱力。
その全部に、目が奪われていった。
そして、ダンジョンを出て地上に戻る頃には――私はもう、自分が“惹かれてしまっている”ことに気づいていた。
けれど、まだそれを口に出すつもりはなかった。
今はただ、彼の隣にいられることが、嬉しかったから。
***
その日の探索も順調だった。
敵の出現パターンにも慣れてきて、湊くんの斬撃はさらに正確さを増していた。
私はその後ろで、癒糸を張ることにも余裕が出てきた。
彼の動きが、目で追えるようになったから。
いつ、どこで、どんな動きをするのか――考えなくても、手が自然に動くようになっていた。
(……もう、私たち、立派なパーティーじゃない?)
そう思っていた矢先のことだった。
帰り道――帰還しようとすると、誰かの叫び声が聞こえた。
急いで声のする方へ向かうと、案の定――いた。
数体のゴブリンに囲まれて、パニック寸前のパーティー。
その中心には、浅倉くんの姿があった。
「っくそ、なんでこんな数が……!」
彼は振るう剣の重さに任せて敵を薙ごうとしていたが、動きが荒く、狙いも定まっていなかった。
「夏希、後衛を治療。俺が敵を引きつける」
湊くんの声は、短く静かだった。
彼は二歩で間合いを詰め、剣を振るう。
迷いのない一閃。
まるで視界の“ゴミ”を払うかのように、ゴブリンが切り伏せられていく。
私はすぐに《癒糸》を展開し、後方の冒険者のひとりの傷口を包み込む。
ゴブリンを全て片づけ、静けさが戻る。
(このスキル、使えるな……)
ようやく呼吸を整えた浅倉くんが、何かつぶやいたような気がした。
その目に、私ではなく《スキル》を見ている気配があった。
(あ、また……)
講習の時も、ダンジョンの話をした時も。
彼はいつも、私の“性能”を見ていた。
「俺が勝ったら、この女は俺たちのパーティーに入ってもらう」
浅倉くんが突然とんでもないことを言い出した。
湊くんは一度だけ小さく息を吐いたあと、
「いいよ、受けてやる」
静かにそう言った。
勝手に私のことを賭けないで欲しいという気持ちの一方で、湊くんが私を賭けて決闘することに胸が少し高鳴った。
***
決闘は翌日の午後、模擬演習場で行われた。
告知は簡易掲示板に出され、周囲には見物目的の冒険者が集まっていた。
私は観客席の後方から、湊くんの姿を目で追っていた。
(……大丈夫。絶対、負けない)
そう信じていた。
だって、私には見えていた。
彼の剣が、どれほど静かで正確で、美しいか。
剣術Lv4のその技術が、ただの飾りではないことを。
対する浅倉くんは、冒頭から《脚力強化》を使って距離を詰め、続けざまに《腕力強化》で力任せの縦振りを叩き込んできた。
「うおおおおッ!」
派手な気合と共に振り下ろされる打撃。
地面が振動し、空気が震える。
けれど、湊くんはただ、静かに半歩下がるだけでその攻撃をいなした。
一合、二合、三合。
観客席からも徐々に驚きの声が上がり始める。
「……全部、見切ってる……?」
湊くんの動きは、無駄がなかった。
ただ基本の型をなぞるだけ――そう見えた。
でも、繰り返される剣筋の中に、明らかに研ぎ澄まされた精度があった。
(リピート……)
あのスキルの名前を思い出す。
地味だと評されたそれが、ここまで美しく磨かれるなんて、誰が想像しただろう。
決着の瞬間は、一瞬だった。
浅倉くんの動きが焦りから崩れた、その一拍の隙。
湊くんは静かに踏み込み、肩へ一閃。
木剣の打突が“有効”と判定されたと同時に、浅倉くんが膝をついた。
「──これにて決闘終了。勝者、神谷湊!」
ブザーが鳴り、観客がざわつき、拍手が起きる。
私は胸に手を当てたまま、少し震えていた。
(やっぱり、この人は……)
戦う姿が格好いいから?
勝ったから?
私を守ってくれたから?
違う。
そうじゃない。
勝ち負けじゃない。
この人が、私のために剣を振るってくれた、その気持ちが嬉しかった。
初めて出会ったあの日から、どこか影のある人だと思っていた。
だけど、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも他人を見ている人だった。
「……好きかも」
私は観客の喧騒の中、誰にも聞こえないように小さく呟いた。
それはまだ恋とも呼べないほど小さな芽だったけれど、確かにそこに芽吹いていた。




