第79話 帰還
国際模擬戦の全日程が終わり、閉会式が終わった香港の空は、どこか物憂げな曇天だった。
優勝旗が掲げられ、各国代表が整列していく中、湊はそれを遠巻きに見つめていた。
肩口の包帯がまだ微かに締め付ける感覚を残していたが、気にする素振りはなかった。
上級の部では日本代表の藤崎リラが決勝に進出し、惜しくも準優勝という成績を収めた。
決勝戦の相手は、イギリスのA級アタッカーで、元王立近衛の魔導剣士だったらしい。
「リラ先輩、マジでバケモンだな……あの人と同じ国でよかったって思えるくらいには」
真壁が小声で言い、澪も小さく頷く。
「彼女が敵だったら、勝つイメージが持てない」
「っていうか、あの人と湊くん、同じ日本代表なんだよね……」
そう呟いた夏希の声には、少しだけ笑みが混じっていた。
だがその直後、ふと真顔になる。
(なんで、出なかったんだろう……“聖属性”)
(あれだけ混乱して、たくさんの人が傷ついてて……絶対に出るって思った)
夏希は、自分の両手を見つめる。
掌には、今は何の魔力の気配もない。
けれど、あの瞬間確かに感じた――自分の中に“聖なる何か”が潜んでいるという感覚。
それがなぜ、あの混乱の中で発動しなかったのか。
(もしかしたら――発動には、単なる危機感や願いだけじゃ足りないのかもしれない。もっと深いところで、縋るような切実な想いが必要なのかもしれない)
香港の空は、どこまでも灰色だった。
***
帰国した翌週の午後。
《暁ノ追糸》の拠点二階、資料室を兼ねた静かな部屋に、湊・夏希・澪、そして三条陽鞠が顔を揃えていた。
テーブルに湯気を立てるハーブティーと、整然と並べられた書類。
いつもと変わらない空間のはずだったが――そこに座る三人の顔は、少しだけ固かった。
三条が、カップを置く。
「わざわざ“四人だけで話したい”って、何かあったんですよね?」
湊は息を整えると、真っ直ぐに三条を見た。
「……これは、今までクランの他のメンバーにも伏せてたことなんですが、元ギルド職員で、クランの中でも一番頭が切れる三条さんには伝えておいた方がいいと判断しました」
「聞きましょう」
湊がうなずき、夏希へ視線を送る。
彼女は小さく頷いた。
「……わたし、《癒糸》が……“聖属性”に変質したんです。理由はまだ分かってないんですが」
静寂が落ちた。
三条は瞬きもせずに夏希を見つめ、次に湊と澪へ視線を移した。
「……それは、確かな話ですか?」
「はい。まだクランを作る前、ゴースト系のダンジョンを攻略するときに発現しました」
三条はしばらく黙っていたが、ふと目を閉じて、小さくため息をついた。
「……正直に言わせていただくと、三人とも、甘すぎます」
「……」
「黙ってたことは責めません。確かに、情報をどう扱うかは難しいですし、聖属性の意味を考えれば慎重になるのは当然。
ですが、もし私が“事前に”それを知っていたら、絶対に夏希さんを香港には連れていきませんでした」
テーブルに置いたカップが、わずかに揺れる。
「教会系クランには、感知系のスキル持ちがいます。香港大会に“セントエデン”と“セレスティア”の両方が参加してましたよね?」
「……はい」
「だったら、あの混乱時にもし聖属性が発動してたら――“即日で拘束されて”ましたよ」
三条の声には、怒りというより、焦燥に近い熱があった。
「私の他にこれを知っているのは、あなた方三人だけですか?」
「ギルドの藤堂さんは知っています。依頼関連で話して、そのときに絶対に秘匿しておくように念を押されました」
「では、今後は私がギルドと連携して対応します。万が一の備えと、情報管理も含めて」
「すみません……わたしたち、本当にそこまで考えていなくて……」
夏希が頭を下げる。
「……今回は、何も起きなかった。癒糸は光のままで、波長の揺らぎもなかった。けど、それは“結果論”です。もし発動してたら、今ここにこうして座ってはいられなかったかもしれない」
三条は、眉間を押さえた。
「もう一つ、気になってることがあるんですが」
「……なんですか?」
「――なぜ、今回発動しなかったんですか?」
誰も、即答できなかった。
夏希は、少し口を開きかけたが、また閉じた。
「……わかりません。たくさんの人が傷ついてたのに、どうしてか……」
「わかりました。今は“わからない”でいいと思います。
でも、わからないままにしておくには、あまりに危ういので、
夏希さんは、自分の力にもっと敏感になってください。今後、教会が再び動いてくる可能性は決して低くありません。“聖属性”とは、彼らにとってそれほどのことなんです」
全員が無言で頷く。
三条は最後に立ち上がり、資料の山に手をかけた。
「聖属性は、決して“奇跡”じゃありません。
宗教的なシンボルではありますが、祈れば世界が救われる魔法でもありません。……これは、信仰と権力の問題なんです」
「……はい」
「宗教を、甘く見ないでください。本当に、気をつけて」
その言葉が、部屋の空気を真っ直ぐに貫いた。
***
場所は変わって、ヨーロッパ某国。
香港から帰還して約一か月後。教会系クラン《セレスティア》の本部地下、外界と隔絶された石造りの会議室では、十数名の幹部たちが定例報告のために集まっていた。
「――では、改めて報告を。国際大会・香港大会における“対象の追跡調査”について」
前列に立つのは、感知部門の責任者。神官服の袖から魔導式のログ記録端末を掲げ、静かに読み上げていく。
「大会期間中、全体で三件の回復系高出力魔力反応を確認。しかしいずれも通常の光属性域。
“聖属性の波長”と断定できる高位の揺らぎは、確認されませんでした」
会議室に沈黙が走る。
「つまり、いなかったと?」
「東南アジアで感じた三度の微細な波長――あれも、感知側の誤認という可能性があるのか?」
「……もしくは、“隠されていた”か」
幹部の一人がそう付け加えた瞬間、室内の温度がわずかに下がったような気配が走る。
「隠されていた?」
「波長の微弱さ、発動のタイミング、周囲の遮蔽環境……いずれも条件が重なれば、感知は難しくなる。
なにより、会場全体に対して魔力遮断結界が幾重にも張られていた。
“誰かが、それを意図的に仕込んでいた可能性”も否定できない」
その一言で、議論の空気が一変した。
「対象は既に特定されており、守られているということか?」
「断言はできません。ただし……可能性はあるかと」
「つまり、次に動くべきは――」
その時、別の神官が、部屋の端から小走りに近づいてきた。
「失礼いたします。緊急報告が」
幹部の一人が眉をひそめる。
「会議中だ。後に――」
「いえ……内容が、“神の器に関する情報提供”です」
一瞬で、会議室が静まり返った。
「……誰だ?」
「日本の冒険者、とのことです。すでにこちらの窓口へ直接訪問しており、面会の希望を示しています。
情報の真偽は不明ですが、“内容が内容ゆえに、末端へ話すつもりはない”とのこと。
すでに、複数の幹部が予備面談を試みましたが、本人たちは“もっと上の人間と直接話せないなら帰る”と譲らず――」
「……どこにいる?」
「第二控室にて待機中です。すでに三日目ですが、動く気配はありません」
「ほう……執念深いな」
座していた幹部の一人が、静かに椅子から立ち上がる。
漆黒のローブを纏い、銀縁の眼鏡をかけた中年の男――セレスティア副僧正、ゲイル・アルザード。
「では、副僧正の私が会ってやろう。もし嘘なら、その場で処理すれば済む話だ。今から一時間後に私の部屋に通せ」
***
副僧正の部屋の扉が重く開き、衛兵に先導されて現れたのは、二人の日本人冒険者だった。
一人は蛇島恭介――元リーダー。長身で褐色の男、無精髭に隠れた目つきは鋭く、皮肉げな笑みを浮かべている。
もう一人尾上卓也――元副リーダー。やや痩せた長身、髪を後ろで束ねた寡黙な男。どちらも、服の隙間から鍛えられた筋肉と魔力の痕跡が覗いていた。
「ふう……やっと通してくれたか。あんたら、全然信用してくれねえんだな」
蛇島が伸びをしながら歩み出ると、壇上に座る副僧正ゲイルが冷たく目を細めた。
「言っておくが、無価値な雑談に付き合う暇はない。貴様らの命は、ここでは紙切れほどの価値もない」
「そりゃ光栄だね。こっちも、こんなとこで時間だけ浪費して帰るつもりはない」
蛇島はふっと笑いながら、尾上と並んで壇上の前に立つ。
「こっちの要求は、“取引”。あんたらにとっても悪くない話だ。
――神の器に関する情報を持ってきた」
瞬間、空気が変わった。
ゲイルの指が椅子の肘掛けを叩く音が、石造りの空間に響いた。
「……神の器。軽々しく口にするには、余程の覚悟が要る言葉だ」
「もちろん。その覚悟がなけりゃ、こんなとこまで来ない」
蛇島は嘘のない声音で答える。
「して、その者はどこにいる?」
「日本です」
尾上が口を開くと、室内がさらに静まり返る。
「真偽は……証明できるのか?」
「確たる証拠はない」
ゲイルは目を細めたまま、無言で立ち上がった。
階段をゆっくりと降りていき、二人の男の前に立つ。
その眼差しは、獣が獲物を値踏みするそれと変わらなかった。
「嘘だったら、生きて帰れると思うなよ」
「そのときは潔く諦めるさ。ただ――嘘じゃない。あんたらが喉から手が出るほど欲しがってる情報だ」
蛇島が応じると、ゲイルは背を向け、側に控えている者に命じた。
「……僧正に面会を求めよ」
副僧正が去った後、尾上が小声で呟く。
「……これは、火遊びじゃすまないですよ」
「だから面白ぇんだろ?」
蛇島の目には、どこか凶暴な光が宿っていた。




