第8話 遠野夏希①
東京・南青山。大通りから少し外れた静かな住宅街に、その建物はあった。
三階建てのモダンな洋館に、銀のプレートが取り付けられている。
《医療法人 遠野総合クリニック》
近隣住民だけでなく、都内の政財界関係者や芸能人までもが通う、完全予約制の医療施設だった。父・遠野征司は外科医として数々の症例を成功に導き、母・遠野千晶は内科の専門医としてTVにも出演する名医だった。
その長女として生まれた遠野夏希は、生まれたときからレールの上にいた。
子どもの頃から家庭教師に医学の基礎を叩き込まれ、食事中には最新の論文が話題となり、寝る前には父親が人体模型を用いて手術の手順を解説するのが日課だった。小学生の自由研究のテーマは「心肺蘇生の正しい圧迫角度とリズム」で、学校の先生に「親御さんの手伝いが過ぎたね」と苦笑されたこともある。
だが、夏希にとってそれは“普通”だった。
兄・颯真は10歳上。幼い頃から神童と呼ばれ、全国模試では常に上位、医学部では主席。卒業後はアメリカに留学し、現在は大学病院の心臓外科チームに所属している。
優秀な兄、医師として名を馳せる両親。夏希は自然とその背中を追うように育った。
――あなたは、遠野家の娘なんだから。
幼いころからそう言われて育った。絵を描きたい、ピアノをもっとやりたい、という些細な願いも「医者になってからでも遅くないわ」と笑顔で封じられた。
反抗する理由もなかった。夏希自身、家族のことは好きだったし、医学という知識の積み重ねにも興味があった。人と話すことも苦ではなく、成績も運動もソツなくこなす。
けれど、ある時ふと、自分の“将来”について考えたとき、心の奥に小さなざらつきを覚えた。
それは中学生の頃、インフルエンザで入院した患者の世話を手伝っていた時のことだった。
「ありがとうね、遠野先生。あんたの娘さんが毎朝笑って声かけてくれるだけで、ずいぶん気が楽になったよ」
そう語った高齢の患者が、涙を浮かべて頭を下げてきた。
夏希はただ、「おはようございます」と言って、お茶を差し出しただけだった。
その時、胸の奥がじんわりと温かくなった。
“知識”や“手技”ではない、“何か”がそこにあると感じた瞬間だった。
その夜、夕食時に何気なく話した。
「ねえ、患者さんに“ありがとう”って言われると、すごく嬉しいよね」
母はにっこりと笑って答えた。
「そうね。でも、感謝よりも結果が大事よ。私たち医師は、間違いを許されない立場だから」
兄はフォークを持ったまま言った。
「患者が何を思っていようと、こっちが最善を尽くしたならそれでいい。感情に流される医師は判断を誤る」
そして、父は静かに付け加えた。
「“助けたい”と思うことと、“助けられる”ことは別物だ。夏希、覚えておくといい」
夏希はその言葉に頷きながら、胸の中に、何かがひっかかるのを感じていた。
(私が嬉しかったのは、あの患者さんの“笑顔”なのに……)
その違和感は、日を追うごとに濁りを増し、やがて自分の中に沈殿していった。
やがて夏希は、自問自答することになる。
“私は、このまま医者になって、本当に誰かを助けられるのだろうか?”
***
高校生になっても、夏希は優等生だった。
テストでは常に学年上位、委員会やボランティアにも積極的に参加し、教師や同級生の評価も高かった。両親からも「順調ね」と笑顔を向けられる日々。
だが、そんな“模範的な日常”に、夏希はある種の息苦しさを感じていた。
教科書に書かれた知識はすべて正しく、過去問を解けば合格に近づく。模試の偏差値が将来を決め、進学先は事前に用意されている。
(私……何をしてるんだろう)
電車の中で、ぼんやりと窓の外を見ながら、ふと浮かぶことが増えた。
父のように手術を成功させ、母のように患者を診断し、兄のように海外で名を上げる。確かに、それは誇らしい道だった。
けれど――その中に、“自分”はいたのだろうか。
ある日、学校の進路ガイダンスで、JDA(日本ダンジョン探査連盟)の出張講演が行われた。講師は一人の“医療系冒険者”だった。
冒険者といえば、体力に任せてモンスターと戦う“戦闘職”のイメージが強い。
だが、彼女は違った。フィールドで負傷者を治療する専門の支援職として、ダンジョンの最前線に立っているという。
「医療と冒険は、一見すると遠い世界に見えるかもしれません。でも、命を守るという意味では、全く同じです」
その言葉に、夏希は思わず前のめりになった。
講演が終わった後、偶然にもJDAが開催していた“体験型ガイドツアー”の告知を見つける。
一般開放されている訓練施設で、模擬ダンジョンの医療班の活動を見学できるという。
放課後、夏希はその施設に向かった。
そこでは、簡易ベッドが並び、応急手当や止血、骨折対応などが現場レベルで行われていた。
スキルを駆使し、患者に寄り添いながら手を尽くすその姿は、彼女の胸に焼きついた。
特に印象的だったのは、負傷者の一人に向けられた、ある冒険者の言葉。
「大丈夫、あなたはもう一人じゃない。俺たちがついてるから」
患者の手を握り、優しく語りかけるその声に、夏希は思った。
(ああ……これだ。これが、私のやりたかった“医療”だ)
診断結果や手術成功率ではなく、“誰かの命に直接触れること”。
知識だけでは救えないものを、心で支えるという行為。
夏希の心に、小さな決意の火が灯った瞬間だった。
***
体験ツアーの夜、夏希は初めて「医学部以外の道」について真剣に考えた。
誰かの命を救う手段は、医師免許だけではない。
“冒険者”というフィールドにも、確かに“医療”はあった。
それから彼女は、こっそりとJDAの支援職採用情報や、スキル適応制度について調べ始めた。
医療知識や人体理解に優れていれば、治癒や支援系のスキル適応率が高いという統計。
冒険者適応者は訓練を経て、正規のギルド認定を受ければ合法的な活動が可能――。
(今の自分でも、何かできるんじゃないか)
それは、反抗ではなく“確信”だった。
夏希は、人の役に立ちたかった。目の前の誰かに「ありがとう」と言われる、そのために。
ある夜、夕食の席で、彼女は口を開いた。
「私、冒険者になることにしたの」
リビングに、ピンと張り詰めたような沈黙が落ちた。
父・征司が箸を置く音が、やけに大きく聞こえた。
「……冗談だろう?」
母・千晶が静かに問いかけると、夏希は首を横に振った。
「真剣だよ。私は“誰かを助ける”仕事がしたい。医者になるより、冒険者の支援職の方が、私には合ってると思う」
「馬鹿を言うな」
と、父が低く言った。
「遠野家の人間が、蛮族まがいの真似事をするなど、聞いたことがない」
「“蛮族”じゃないよ」
夏希は言葉を選ばず、正面から反論した。
「本気で命を守ってる人たちだよ。私が見た冒険者の医療班は、誰よりも真剣だった。誰かを助けたいっていう、強い気持ちがあった」
兄・颯真が、呆れたように笑った。
「そういう感情論で進路を決めるやつは、何も長続きしないよ」
夏希はじっと兄を見返した。
「じゃあ、兄さんは、心で動いてる患者の顔を見たことがある?
苦しんでる人の手を、ちゃんと握ったことがあるの?」
兄は何も言い返さなかった。
代わりに、父の声が鋭く響いた。
「……ならば、出て行け。遠野家の名に泥を塗る覚悟があるなら、もはや家族ではない」
その言葉に、母の顔がわずかに曇る。
しかし、彼女もまた反対はしなかった。黙して肯うという沈黙の同意。
夏希は立ち上がった。
その足取りに迷いはなかった。
「ありがとう。今まで育ててくれて」
そう言って、彼女は遠野家を出た。
玄関を閉めたとき、心の奥がざわめいた。涙が浮かんでいたかもしれない。
けれど――後悔はなかった。
(私は、私の道を行く)
制服のポケットに、折りたたんだJDA適応者申請書が入っていた。
***
遠野家を出た夏希は、都内の小さなアパートに引っ越した。
築年数は古いが、駅から近く、ギルド支部にもアクセスがいい。
最低限の家具と家電を揃え、家賃と生活費は、貯めていた奨学金や一部の親戚からの援助で何とかなるよう調整した。
最初の夜、硬いベッドの上で天井を見上げていたとき、不思議な静けさに包まれていた。
(これで、本当に“私の人生”が始まったんだ)
その実感は、恐れではなく清々しさに近かった。
数日後、夏希はJDAの適応センターに向かった。
適応者判定とは、“スキルの種”を持つ可能性がある者に対して、その資質と適正を測定し、スキルを顕在化させるための制度だ。
判定のためには、精神の集中、過去の経験、目指す信念――あらゆる記憶と感情が必要とされる。
カプセル状の装置に横たわり、意識を内側に沈めていく。
流れるのは、これまでの人生。
無数の学習ノート、白衣を着た家族の姿、患者からの「ありがとう」、そして、医療班の女性が語ったあの言葉。
「命を救いたい。あなたはもう一人じゃない」
そう言える人になりたい――。
その祈りにも似た想いが、心の中心で確かに結晶化した瞬間――
彼女の脳裏に、白銀の糸が浮かんだ。
《ユニークスキル──癒糸》
レベル:1
・回復効果+25%
・バフ効果+25%
・対象指定による持続回復(毎分HP5%)
そして、同時に表示されたコモンスキルが二つ。
《ヒール(Lv2)》――基本的な小回復魔法。
《身体能力向上(Lv1)》――対象者の反応速度・筋力をわずかに強化。
端末を見たスタッフが一瞬だけ目を見開き、すぐに淡々と記録を取る。
高ランクではないが、非常にバランスが良く、支援職としてのポテンシャルは高い構成だった。
「おめでとうございます。適応者として正式に登録されました」
その一言を聞いた瞬間、夏希の胸に確かな実感が走った。
――私は、私の足で立ったんだ。
その夜、一人の小さな祝杯をあげた。コンビニで買ったスパークリングウォーターと、安いチーズ。
それでも、今までにないほど、美味しかった。
そして数日後。
冒険者としての本講習が始まる。
夏希はその会場で、黒髪の青年と出会う。
隣の席に座ったその人は、妙に静かな眼差しをしていた。
「……神谷湊です」
ほんの短い挨拶。だが、妙に記憶に残った。
(悪い人じゃなさそう)
その時は、ただそれだけだった。
――この出会いが、自分の人生に何をもたらすかなど、まだ想像もしていなかった。