第74話 最恐の裏方
朝八時。
まだ空気の冷たさが残る時間帯、クラン《暁ノ追糸》の拠点には、すでに人の気配があった。執務室の中央に据えられたデスクで、三条陽鞠は黙々と端末に向かい、書類を捌いている。
「……提出書類、誤字十カ所。回収品の数量が未記載。日付も前月になってるけど、これは意図的?」
差し出された報告書をめくりながら、三条が淡々と告げる。彼女の声音は決して強くはない。ただ、言葉のひとつひとつに余白がないのだ。
「す、すみません……直します!」
額に汗を浮かべた篠塚が頭を下げ、ファイルを抱えて足早に退室する。
三条は顔を上げず、次の書類に視線を移した。今度は木野が、やや引きつった笑みを浮かべながら提出した報告書だ。
「えーと、こちら木野の分です!こっちは……きっちり確認してますから!」
「そう。じゃあ見るわね」
ページを捲った瞬間、小さなため息が漏れた。
「“魔石らしきもの”って何?種類が曖昧なら鑑定依頼を出すのが規定。それと、回収品リストの総数と記録が一致してない。現場で記録係を任されてたのは……」
「ぼ、僕です……」
「じゃあ、ちゃんと確認して記載を。次回は“見た気がします”じゃなく、“確認しました”で出して」
「はいっ!」
三条が声を荒げることはない。だが、言葉の一つひとつが正確すぎて、受け手にはナイフのように刺さる。
部屋の隅にいた穂積は、報告書を胸に抱えたまま、そっと後ずさりして扉の影に消えた。
「ひえ……」
羽鳥が小声でつぶやく。
「三条さん、マジで怖……いや、ありがたいけど、怖い……」
それを聞いた真壁が、椅子にもたれたままぼそっと返す。
「三条さんは怒ってない。あれは“責任を教えてる”だけだ」
「え、あれでですか?」
「“できない子”を見限るなら、何も言わずに仕事増やして自分でやるだろ。ああやって返すのは、まだ期待してるって証拠。
ちなみに……三条さんを怒らせるのは、お勧めしない」
真壁の言葉にはどこか実体験がにじみ出ていた。
羽鳥は納得しかけたが、「……でもやっぱり怖い」と呟き、席に戻っていった。
指導を終えた三条は、ひと息つく間もなく、別の端末画面を開いた。ギルドからの通知、クランの資材在庫、来月分の装備申請リスト。すべての数字と期限が頭に入っているのか、ほとんど確認するような仕草すら見せずに処理を進めていく。
ユニークスキル《思考速度上昇》と、コモンスキル《速読》、《速記》が、存分にその効果を発揮していた。
そこへ、再び扉がノックされた。
「……提出、お願いします」
おそるおそる顔を出したのは篠塚。先ほどの報告書の修正版を手にしていた。
三条は受け取り、目を通す。しばし沈黙が続き、篠塚の喉が鳴る。
「……全部修正されてるわね。数字の整合性も問題ない。構成も読みやすくなった」
「ほ、本当ですか……?」
「当然のことをしただけよ。でも、私が言ったことがちゃんと伝わってるのがわかった。次は、自分で見つけられるようになって」
「……はいっ!」
三条は小さく頷いた。口調に変化はない。だが、去っていく篠塚の背は、来た時よりも少しだけ伸びていた。
それを遠巻きに見ていた木野が、ぼそっと呟く。
「……今のって褒められてた?」
「たぶん」と穂積。「あと五回ぐらい見ないと分からないけど、褒めてた気はする」
その様子を横目に見ながら、三条は端末の通知欄に目を移した。
一件の新着。ギルド補助課からの封書形式の通知だ。
「……来たわね」
クリックすると、画面に支給予定金額の数値が浮かび上がった。
一目で分かる。少ない――明らかに、暁ノ追糸と同等のクランが昨年度支給された金額よりも二十%以上減額されている。
「この内容で、同等の活動を求めるつもりかしら」
眉一つ動かさず、端末を切り替えてデータの集約に取りかかる。
羽鳥が通りかかり、その様子に気づいた瞬間、背筋を凍らせた。
「……スイッチ入った……?」
隣にいた澪がぽつりと答える。
「怒ってないよ。怒るときは、資料揃えてから本番だから」
***
午後の陽が差し込む拠点の執務室。
三条は再び端末に向かい、冷静な動作でデータを並べていた。画面上には、補助金関連の通知に対しての反証資料が次々と開かれていく。
前年の補助支給額、今期の支出報告、物価指数の推移、活動日数と成果の記録……すべてギルドが自ら発表した情報に基づき、構成されたものだ。
「全体削減が妥当なら、少なくとも理由は一致していなきゃいけない」
独り言のように呟きながら、指先が滑らかに動く。動きに一切の無駄がない。
扉の外から覗き込むようにしていた穂積が、思わず小声で漏らした。
「うわあ……なんか……あの集中力、怖いくらい綺麗……」
木野がその横で腕を組みながら唸る。
「もう“データで刺す”って感じだよな……」
「刺すって……」
そこへ澪が通りかかり、ぼそっと一言。
「怒るときは、資料を揃えてから。って、羽鳥に言ったでしょ」
木野と穂積が同時に「こっわ……」と呟いたが、そこにはどこか畏敬の混じった響きがあった。
一方で、事務室の空気はぴんと張り詰めたまま。
だが、三条の目の奥にあるのは“怒り”ではない。むしろ、“正しさを伝えることへの責任感”だった。
彼女の手元には、一枚の紙が伏せて置かれている。そこには、篠塚・木野・穂積の3人が先月提出した「予算内での最適装備購入案」のメモがある。
どれも粗削りだが、みんな真剣だった。内容は稚拙でも、クラン全体の費用を抑えようと必死に考えていたのだ。
「彼らが何も考えていないなんて、誰にも言わせない」
その心情は誰にも明かさない。だが、彼女はすでに「若い子たちがちゃんと働ける環境を守るために」戦う準備を始めていた。
ふと、扉が開いて羽鳥が顔を覗かせた。
「……あ、あの、失礼します。報告書、再提出しに来ました」
手には木野と穂積の分も含まれている。まとめて持ってきたのだろう。
「いいわ。そこに置いておいて」
三条は顔を上げずに答える。が、その声色は少しだけ柔らかい。
羽鳥が机にそっと書類を置いたとき、ふと彼女の目が端末の脇にあるカップに留まった。
「それ……朝からずっと、同じの使ってるんですね」
「洗い物を増やすのが好きじゃないの。片付けの手間が増えるでしょう?」
「……手が空いてる誰かが片付けてくれるんじゃないですか?」
羽鳥の口調には、どこか冗談めいた気遣いがある。
三条はようやく顔を上げ、口元にごくわずかだけ笑みの気配を宿らせた。
「じゃあ、あなたがやってくれるのね?」
「えっ、あ、はい……やります!」
「あら、言質を取ったわよ」
ぱたん、と端末のカバーを閉じて、三条は立ち上がった。資料はすでに整った。
あとは、ギルドへ持っていくだけ。
その背を見送る羽鳥の視線が、どこか誇らしげだった。
***
午後二時三分。
東京中央ギルド本部の南棟、五階にある会議室。
窓のない簡素な空間に、三条陽鞠は一人で入室した。手には薄型の端末と、補助金に関する一連のデータを収めたUSBを持参している。
「《暁ノ追糸》所属、三条陽鞠です。通知いただいた件で伺いました」
対応に現れたのは、補助金審査課の係長・志村。四十代半ばの男性で、口調は丁寧だが、その実務経験の長さから、交渉慣れしていることが伺える人物だった。
「ようこそお越しくださいました。ご足労をおかけして申し訳ありません。さっそくですが……今回の支給額の件、ご説明させていただきます」
志村は用意していた資料を広げながら、口早に話を始める。内容は事前通知と同じ。全体予算の見直しに伴い、各クランにおける補助額を調整した。特別な意図はない、という一点張りだった。
「なるほど。つまり、“全体的に減らす必要があったため、例外なく適用した”ということですね?」
「はい。そのように……」
「では、お聞きしますが、なぜ《暁ノ追糸》は、同等クランの前年比で二一・八パーセントも削減されたのですか?他のC級クランの平均は八パーセント未満であるにも関わらず」
志村の手がわずかに止まる。その隙を見逃さず、三条は端末を開き、USBを接続する。
「こちらは、他クランとの支給額比較資料、活動実績の総日数、平均支出内訳、報告書提出率、装備更新頻度。すべてギルドの公開データと我々の提出資料を照合したものです」
画面に次々と映し出される数値とグラフ。それらは“なぜ《暁ノ追糸》が多く削られたのか”という問いに、反論できない形で突きつけられていた。
志村が言葉を探すように口を開く。
「……ただ、その、物価変動の影響も加味したうえで……」
「でしたら、物価指数連動型の調整項目を記載いただけますか?」
三条の声は穏やかだった。だが、その奥には冷徹な正確さがあった。
「こちらの推移をご覧ください。昨年度の消耗品価格の上昇率は四・一パーセント。にもかかわらず、当クランへの支給額は二十一パーセント削減。つまり、物価上昇を理由にするのは、根拠が薄いと言わざるを得ません」
志村の同席者が目を泳がせる。もう一人の職員が、控えめに口を挟んだ。
「たしかに、この差は説明しきれないかと……」
三条は続ける。
「私は、単に増額を求めに来たのではありません。“納得できる説明”を求めて来ただけです。結果として妥当な削減であるなら、それに従う用意はあります。ただし――」
一拍の間。
「理由が不明瞭な削減は、“ギルドが現場の実績を正当に評価しなかった”という記録として残ります。それが、この先どんな影響を及ぼすか、よくお考えください」
志村は眉をしかめ、言葉を選びながら頭を下げた。
「……再審査を検討いたします。改めて正式な回答を、文書にてお出ししますので」
「ありがとうございます。手間をかけたくなかったので、最初から正当な金額が出ることを期待していたのですが……」
そして、立ち上がりながら、最後に一言だけ付け加えた。
「私たちは、成果に見合う報酬を、ちゃんと受け取りたいだけなんです」
言葉に棘はない。けれど、それは確かな“意志”として場に残った。
***
日が傾きはじめたころ、三条は拠点へ戻ってきた。
街の雑踏から一歩入っただけで、静けさが戻るこの空間は、彼女にとって“戦場の次に落ち着く場所”だった。
「ただいま」
そう呟きながら執務室の扉を開けると、意外な光景が目に飛び込んできた。
室内では、篠塚が掃除機をかけており、木野が書棚のファイルを背の順に並べ替えていた。穂積は脚立に乗って、窓の上のほこりを拭いている。
三条が入ってきた瞬間、3人の動きがぴたりと止まる。振り返って、慌てて頭を下げた。
「お、おかえりなさい、三条さん!」
「な、なんかこう……執務室をきれいにしたくて!深い意味はないです、はい!」
「さ、さっきの報告書、ちゃんと提出用のフォーマットに直しました!」
言い訳にもなっていない慌てぶりだが、その姿勢にはどこか素直さがある。
三条は呆れたようにため息をひとつつくと、自分の席に向かいながら返す。
「私が不在のうちに騒ぎを起こしたら、さすがに怒るつもりだったけど……」
席につき、机の上を見た瞬間、言葉が止まった。
いつもと同じ位置に、いつもと同じ銘柄の缶コーヒーが置かれていた。冷蔵庫から出したばかりなのだろう、まだうっすらと結露している。
……誰が置いたかは、言わなくても分かる。
こういうことに気が回るのは、たいてい木野か羽鳥だ。
「……気が利くようになったじゃない」
誰に言うでもなくそう呟いて、プルタブを開ける。微かな音が室内に響いた。
その音を聞いた3人が、動きを止めて、ちらりとこちらを伺う。
「作業は止めないで。そこだけ中途半端な方が、よっぽど気になるわ」
「は、はいっ!!」
篠塚たちは姿勢を正し、手を動かし始めた。
三条は缶を口に運びながら、端末を開く。その手つきは、いつもよりわずかに緩やかだった。
部屋には掃除機の音、紙の擦れる音、遠くで羽鳥が誰かと話す声――日常の音が、いつも通りに流れている。
それが、どれほど貴重で、守るに値するものか。三条は誰よりも知っていた。
ふと視線を上げると、穂積が高いところの整理棚に手を伸ばしていて、バランスを崩しそうになっていた。
「……足元、ちゃんと見て。もし落ちたら笑うわよ」
「え、えぇぇ、笑うんですか!?」
「そのくらいで済むなら安いものでしょ」
クスクスと木野が笑い、篠塚も釣られて吹き出す。
三条は口元だけでわずかに笑った。それは、他の誰にも見えないほど小さな、けれど確かな緩みだった。
端末の画面には、ギルドからの通知がまだ“確認中”のまま残っている。再審査の結果が出るのは、数日先だろう。
けれど、三条の中では、すでに答えが出ていた。
――私は、みんなの背中を預かっている。
――だからこそ、自分は誰よりも冷静でいなければならない。
缶コーヒーを置き、三条は新たな報告用のドラフトファイルを開いた。
背後からはまだ若手のざわめきが続いている。けれど、それが今は、心地よい雑音だった。
「さて……仕事、始めましょうか」
いつも通りの一日。
だが、その芯には確かに、“仲間たちが見せた一歩”が刻まれていた。




