第54話 最終日の夜
翌朝、湊たちは部屋で静かに座り込んでいた。
澪の布団は、昨晩からそのままだった。敷き直されることもなく、ひんやりと冷えたままの掛け布団が、そこに彼女がいないという現実を突きつけてくる。
「……昨日の澪ちゃん、完全に意識がなかったよね」
夏希が、手元の湯呑みを見つめながらつぶやく。
「攻撃も……本気だった」
湊は昨夜の戦いを思い出す。短剣の鋭さ、間合いの読み、無駄のない動き。あれは確かに、澪の技だった。
(本人の意思がないのに、あそこまで動けるのか――それとも、潜在意識の中で戦っているのか)
どちらにせよ、直接戦うことの怖さを感じた。敵としての澪は、あまりに手強い。
「……でも、次で決めなきゃ。もう長くはもたない気がする」
「うん」
夏希の返事も、真剣そのものだった。
***
朝食後、女将から預かった古い帳面を二人で広げる。それはこの旅館に古くから伝わる「記録簿」であり、数代前の女将が記したと思われる手書きの文言が残されていた。
虫食いも多く、ところどころ文字が掠れている。だが、ページの端にかすかに読める一文があった。
『亡霊ハ 聖ニ弱シ。神域ノ光ニ触レレバ、影ハ霧ト消ユル』
夏希が指でなぞりながら読む。
「これ……聖属性が有効ってことなのかな」
「ゴースト系だしな。だとしたら、俺たちの持ち物じゃ通じない。でも……」
湊が小さく口にする。
「癒糸って、分類で言えば“光属性”だけど……聖属性に近い気がしないか?」
「え?」
「昨日、戦闘中に一瞬だけ光った気がしたんだ。敵と接触したとき」
夏希は目を見開く。思い返せば、確かに癒糸がぼんやりと発光したような気がした。だが、あの時は必死で、気のせいかと思っていた。
「……やってみる」
夏希はそう言って、浴衣の袖をまくり上げると、旅館の裏庭に出た。竹垣に囲まれた小さな空間。人目もなく、魔力の操作にはちょうどよかった。
「《癒糸》」
両手を広げ、魔力を指先へ集中させる。糸がふわりと空中に広がり、光がほのかに揺れた。
(聖、聖、癒しじゃなくて、浄化……)
意識を変えて魔力の通し方を少しずつ変える。すると――
「……光った」
夏希の声に、湊が顔を上げる。癒糸が、はっきりと、今までにない金色の光を帯びていた。優しく、暖かく、でも触れると確かに何かを祓うような力が感じられる光。
「これ……今までと違う気がする!もしこれが聖属性なら、澪ちゃんを傷つけずに助けられるかも……!」
湊も頷く。
「回復は、ある意味で“命”に触れる力だ。それが、霊的なものに干渉できるなら――武器になる」
夏希は糸をほどきながら、決意を込めて頷いた。
「うん、やってみる。絶対に、取り戻す」
***
その日の午後、二人はダンジョン再突入の準備を入念に行った。物理攻撃に対して通じにくい相手に備え、神聖符や封魔札、光石のたぐいも用意する。
湊は旅館の一角で剣を構え、素振りを続けていた。澪の動きに合わせるための予習。避け方も、攻め方も、彼女を知っているからこそ、対応できると信じていた。
「澪ちゃんのこと、信じよう」
夏希の声が背中越しに届いた。
「絶対に、取り戻そう。今度こそ」
湊は剣を納めると、小さく頷いた。
「今夜、決着をつけよう」
旅館に漂う魔力が、夕暮れとともに再び濃くなっていく。決戦の夜は、もうすぐそこだった。
***
夜が再び、静かに訪れた。
旅館の廊下には誰の気配もなく、ふすまを閉める音すら吸い込まれるように響かなかった。湊と夏希は、澪を救うための最後の戦いに向け、足音を忍ばせながら地下への階段を降りていった。
封印の解けかけた地下空間は、昨日以上に冷たく、肌を刺すような気配を漂わせていた。魔力の濃度が高く、空気はどろりと重い。歩くたびに床板が軋み、誰かがこちらを見ているような感覚が背筋を撫でた。
湊は剣を抜き、夏希は癒糸を指に纏わせる。
「……行こう」
その一言を合図に、二人は再びダンジョンの最奥を目指す。
途中、またしても霧のようなモンスターたちが姿を現すが、今日は違った。夏希の癒糸がそれらに触れた瞬間、ほのかな金色の光が広がり、霧のような体を揺らがせた。
「効いてる……!」
夏希の目が見開かれる。湊がすぐに敵に斬り込み、光で弱体化した霧影を断ち切る。
「これは……いけるかも」
慎重に敵を排除しながら進んでいくと、最奥のあの空間が見えてきた。中央には、変わらず魔力の渦。そして、その周囲には再び澪と宿泊客たちの姿があった。
「……また、あの状態……」
「でも、今日は違う」
湊が剣を構える。夏希も、震える手で癒糸を展開する。
澪が、ゆっくりと振り返った。
だが、今回はその動きに、ほんのわずかな“迷い”が見えた。
(澪……!)
湊はその一瞬の揺らぎに賭け、夏希に目配せする。夏希は頷き、癒糸を広げると、一気に澪へと向けて放った。
「――っ!」
金色の糸が、柔らかく澪の身体を包み込む。瞬間、彼女の動きが止まり、宙を舞っていた短剣が手から滑り落ちた。
(……なんで、ここに……)
澪の脳裏に、微かな疑問が浮かぶ。誰かの声が聞こえる。誰かの手の感触がある。温かい、光に似た、やわらかいものが――自分の中に流れ込んでくる感覚。
魔力の渦が、微かにうねりを強める。空間全体が震え、気温が数度下がったような錯覚すら起きる。
「湊くん……まだ、完全には……」
「もう一度……!」
夏希が再び癒糸を集中し、澪の胸元へ向けて力を送る。今度は糸が淡く発光し、まるで聖なる光が魔力の穢れを浄化するように、澪の身体を包んでいった。
「澪ちゃん――!戻ってきてっ!」
その叫びとともに、澪の肩がびくりと震えた。目がかすかに揺れ、光を取り戻しつつあるように見える。
だが――次の瞬間、魔力の渦から巨大な霊体がせり上がるように出現した。
「……ボスか!」
その存在は、人型の影を濃縮したような形をしており、手にした槍のような武器を振りかざしてくる。怒りの咆哮に似た気配が空間全体に響き渡り、空気が凍りつく。
「くっ……すごい圧力……!」
夏希の癒糸がそれに触れると、確かに反応はある。が、澪のときのような決定的な浄化には至らない。力の密度が違う。
「まだ……まだだ。あいつを倒さないと、澪は……!」
湊が踏み込み、剣を構えてその霊体に挑む。澪の瞳が、ほんの一瞬だけ、湊の背を見つめたように揺れた。
その一瞬の光が、確かに希望につながる気がして、湊は歯を食いしばった。
霊体の槍が振り下ろされた瞬間、湊の剣がそれを真っ向から受け止めた。
金属のぶつかる音はしない。まるで力と力、意思と意思がぶつかり合っているような衝撃だけが、空間を震わせる。
「うおおおっ……!」
湊が踏み込みながら、剣を押し返す。その一撃が霊体の身体を裂き、光の火花が飛び散る。聖属性の癒糸による弱体化もあってか、攻撃は確実に通っている。だが、相手も引かない。
「夏希、今だ!」
「《癒糸》――!」
夏希が強く糸を走らせる。先ほどよりも強く、神々しい光が霊体全体を覆い、明らかに霊体の動きが鈍る。
その上から湊が剣を一閃し、霊体の胴を斬り裂いた。
怒号のような咆哮とともに、霊体がのたうち回る。その波動により、澪や宿泊客たちの身体が倒れ込み、結界のように張られていた魔力の圧が急激に収縮していく。
「今、湊くん……!」
湊が最後の力を込めて跳び上がり、霊体の胸元を目がけて剣を突き立てる。
「終わってくれ――っ!」
霊体が崩れた。黒い霧となって空間に溶け、やがて跡形もなく消えていく。
静寂。
空間に漂っていた魔力は霧散し、あれほど重苦しかった空気が、まるで早朝の森のように澄み渡っていく。音のない風が通り抜けたような感覚の中、湊たちはただ、無言でその余韻を感じていた。
中央で、澪がゆっくりと目を開けた。
「……湊……夏希……?」
その声に、夏希がぱあっと顔を輝かせ、駆け寄って抱きつく。
「よかった……!本当に、よかったぁ……!」
「う……ん……私……?」
澪の目にはまだ少しの混濁があったが、意識ははっきり戻りつつある。宿泊客たちも、次々と意識を取り戻し、倒れたままの姿勢で戸惑ったように辺りを見回していた。
湊はほっと胸を撫で下ろすと、腰から力が抜けてその場に膝をついた。
「……ようやく終わったな」
***
夜というよりは、もう明け方に近い時間帯だった。空にはかすかな薄明かりが差し始めている。
湊は一人、露天風呂の縁に肩まで浸かり、湯気の中に深く息を吐いた。しんと静まり返った空間に、ただ湯が揺れる音だけが溶け込んでいく。
(澪を……ちゃんと、取り戻せたんだな)
ようやく実感が追いついてきた。
澪が操られていたときの目、澱んだ表情。――あれが戻らなかったらどうしよう、と途中で何度も思った。戦いの最中は動きに集中していたが、今になって心が揺れていた。
(……正直、危なかった)
夏希の癒糸がなければ、あの霊体の圧に押し切られていたかもしれない。
(俺一人じゃ、無理だった。それに、普段は澪が感知してくれるけど、今回はボスまでにも何度も奇襲をかけられて危なかった。あの二人がいたから、ここまで来れたんだ)
改めて、仲間の大切さを認識していた。
――そのとき。
「カラッ」
露天風呂の扉が開く乾いた音が響く。
誰かが来た。まさかとは思いつつ振り返った湊の目に、蒸気の向こうから現れた影が、音もなく迫ってくる。
「っ……!」
息を呑む。
視線が、思考より先に身体の反応として固定された。
湯気の中に立っていたのは、タオル一枚をまとった澪だった。
黒髪が艶やかに肩を滑り、ほの白い肌が月明かりと湯気の相乗で、幻想めいて見えた。しっとりと光る鎖骨、タオルの下から覗く足首、ふくらはぎ――そして、ぎりぎりまで肌が露出する絶妙な布の位置。
「……な、なんでっ……!」
喉が詰まったように声がうわずる。
「迷惑かけたから。湊の背中、流しに来た……お礼の気持ち」
言葉は淡々としていたのに、その姿の破壊力がまるで伴っていなかった。
その次の瞬間――
――ふわり、と。
突風でもない、ただ空気が動いただけなのに、タオルがそのまま滑り落ちた。
一瞬、時が止まる。
白い肌が湯気に映え、胸元の滑らかな起伏が露わになる。そこに
――鮮やかな、紐状の水着が張りついていた。
「っっ……!」
目に飛び込んできたのは、隠されていたはずの曲線。
ほんのわずかに食い込む布地、細いウエストと柔らかな腰のライン、湯気のベールを越えて確かに主張してくる形。
(やば……これ、マジでダメなやつじゃ……っ)
湊の思考がバチバチにショートする。
「ふふ。ちゃんと着てるよ?」
いたずらっぽく微笑みながら、澪がタオルを拾い直す。
「……ドキッとした?」
「……するわ……!」
全力で視線を外したまま答える湊に、澪が小さく笑う。
「それなら……よかった。ちょっとしたサービス」
そっと近づいて、背中に手を伸ばす。その細く冷たい指先が、湯に火照った肩に触れた瞬間――全身に小さな電流が走る。
「……背中、流すね」
「……からかうのはやめてくれ……理性がもたない……」
わずかに震える声を背中で聞きながら、澪は言葉もなく微笑んだ。
湯気と月明かり、そして寄り添う吐息が夜空の下に溶けていく――。
***
澪が露天風呂の方に向かうのが見えたのは、湊が先に風呂へ向かった十数分後のことだった。
澪の手にしっかりと巻かれたバスタオルと、水音のしない慎重な足取りを見たとき、夏希は――察した。
(……湊くんのところ、行ったな、あれ)
その瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。
同時に、澪の内心を推し量る。
(……今回はいろいろあったし……多分照れ隠しだろうし……)
我慢しよう、と思った。
大変だったのはみんな一緒だし、澪が動いたなら自分がどうこう言う筋合いじゃない――そんな“いい子な理屈”を一生懸命頭で繰り返す。
***
湊と入れ替わりでお風呂の準備を整え、部屋の露天へ向かった夏希は、扉の向こうから聞こえる微かな水音に、ふと足を止めた。
「……澪ちゃん?」
扉を開けると、そこには先に湯に浸かっていた澪の姿があった。月明かりと湯気の中、少しだけ頬を赤らめながら、彼女は静かにこちらを振り向いた。
「……待ってた」
「え?」
「……一緒に入りたくて」
いつもどおりの無表情。でもその言葉には、確かな気持ちがこもっているように聞こえた。
夏希は微笑んで湯に足を入れ、澪の隣に腰を下ろした。
しばらく、湯の音と虫の声だけが二人の間に流れる。
「……ありがとう」
ぽつりと、澪が口を開いた。
「え?」
「夏希が、私を助けてくれた。癒糸で……あの時、あれがなかったら、戻れなかったと思う」
「……ううん。私も湊くんも、一緒だったから頑張れたの。澪ちゃんを助けたいって、心から思ったし……」
言いながら、夏希は自分の胸のあたりをそっと押さえた。
「あの時の目……怖かったよ。でも、信じてた」
「……怖がらせて、ごめん」
「ううん。謝ることじゃない。だって、澪ちゃんは、何も悪くなかったんだから」
再び沈黙。でも、それは居心地の悪いものではなかった。心がぽかぽかと温まり、湯の温度と溶け合っていく。
「……あ、そうそう。今日、湊くんの露天に突入した件は――」
一瞬、澪の肩がぴくりと揺れる。
夏希はくすっと笑って、わざとらしく目を細めた。
「今回は、見逃してあげる。いろいろあった日だったし、特別ね」
「……うん、ありがとう」
澪は静かに頷いた。
「……ちょっと、ずるかったかも」
「ふふ。ずるさでは、私も負けてないと思うよ?」
そう返した夏希に、澪が珍しく声を漏らして笑った。
「次は、譲らないから」
「……お互い様」
ぴちゃりと小さな水音が跳ねる。夜空の星が、露天の湯面に揺れていた。




