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第53話 旅館ダンジョン

布団に戻ってからも、湊と夏希はほとんど眠れなかった。


旅館の地下にダンジョンがあったという現実。そして、そこから現れた幽霊のような存在。

そして何より――澪のことが、心配でたまらなかった。


湊は腕枕をするように頭を乗せたまま天井を見つめ、夏希は布団の中で膝を抱えていた。


「……ほんとに、どうしちゃったんだろ。澪ちゃん」


「わからない。でも、あれは……普通じゃなかった」


ぽつりぽつりと交わされる言葉の間にも、夜は静かに過ぎていった。


――そして、午前五時すぎ。


障子が微かに揺れ、ぴたりと止まる。


ふと、湊が顔を上げた。次の瞬間、畳を踏むような小さな足音が聞こえる。


「……澪」


部屋に入ってきたのは、確かに澪だった。けれどその歩みは異様に静かで、まるで夢の中を漂っているような足取りだった。


「澪ちゃん……!どこ行ってたの……!」


夏希が慌てて声をかける。けれど、澪はまるでその声が届いていないかのように、黙ったまま布団に入り、背を向けるように丸くなる。


「澪……?」


湊も恐る恐る呼びかけたが、返事はなかった。


すぐ隣で眠っているはずの彼女からは、わずかに魔力のようなものが滲んでいた。ダンジョンで感じた、あの冷たい魔力に似た気配。


(やっぱり……ダンジョンの影響だ)


そう確信しつつ、二人は彼女の背中を見つめたまま、朝を迎えることになった。


***


朝食の時間になっても、澪はまったく会話をせず、表情も硬いままだった。湯呑を持つ手も震えており、目線も定まらない。


朝食後、湊と夏希は女将のもとを訪ね、昨夜見たすべてを報告した。


女将は最初こそ驚いた様子だったが、しばらく黙り込んだ後、ぽつぽつと話し始めた。


「……そうですか。とうとう、出たんですね」


「やっぱり、あの地下……何かあるんですね?」


「確証はありませんが、私の祖母が生きていたころから、この旅館には『夜、部屋を出てはならない』という言い伝えがありました。由来までは分からないのですが、何代にもわたって守られてきた約束ごとです」


女将は茶器を手にしながら、懐かしむように語る。


「子どもの頃に祖母から聞いた話です。昔、この旅館に泊まっていたお客様が、夜中に地下に降りたまま戻ってこなくなったそうです。見つけた時には……もう、人の形はしていなかったとか」


「それって……」


「本当かどうかはわかりません。ただ、旅館の地下に異常があるという話は、それ以来口にしてはいけないとされてきました。祖母は、そこに“封印”があるとも言っていました」


封印。その言葉に、湊の背筋がぞわりと粟立った。


「つまり、封印されていた何らかの存在があり……それの封印が今、綻びていると?」


女将は深く頷く。


「おそらくは。封印は目に見えるものではありませんが、当時封印を施した方が残していった陣のようなものが、あの地下にはあったそうです。今はもう、誰も見に行ってはいませんが……」


夏希が小さく呟く。


「昨夜……澪ちゃんが戻ってくる前に、あの場所に私たちも入りました。でも、朝になったら痕跡がなかったんです。もしかして――」


「夜しか開かないダンジョン……?」


湊の言葉に、三人の間に沈黙が流れた。


***


その晩、湊と夏希は再び覚悟を決めていた。


澪の様子は依然として改善せず、朝からずっと虚ろな目をしたまま、旅館の中をゆっくり歩くだけ。時折、窓の外を眺めている姿が、まるで誰かの帰りを待っているかのようにも見えた。


(……時間が経てば経つほど、深く取り込まれていく)


そう湊は感じていた。すでに澪は、完全に自分の意思を持たず、あのダンジョンと同調しかけている。


「今日の夜……もう一度、行こう」


「……うん」


夏希は震えた声で頷いた。昼間からずっと、怖い怖いとぼやいていたが、それでも逃げずに同行する意志を示してくれた。


夕方には最低限の装備を整え、他の客に悟られぬよう、こっそりと準備を進めた。剣と軽装、防御符、光源、魔力探知具。そして、夏希がこっそり持ってきた“ぬいぐるみ型のお守り”。


「これがあると、少しだけ安心するの」


恥ずかしそうに言う夏希に、湊は笑いながら「似合ってる」と一言だけ返した。


そして――深夜。再び、時が満ちる。


部屋を出ると、あの夜と同じ、底冷えのする空気が旅館の廊下を満たしていた。澪の姿はすでにない。先に導かれるように、また地下へと吸い込まれていったのだろう。


二人は無言で頷き合い、地下への階段を降りた。


結界のようなものはない。だが、明らかに外界とは違う“圧”がある。古ぼけた木戸の向こうに立ち、湊がそっと戸を押す。


開いた先――昨日と同じ、青白い光が薄闇に浮かぶ世界。地面には霧が漂い、空気が揺らめいている。


「……はああああ……あぁぁぁ……」


かすかに、誰かの呻き声のような音が聞こえる。夏希は小さく肩を震わせ、手に持った杖をぎゅっと握った。


「だ、大丈夫、大丈夫だから……! 湊くんがいるし、私、頑張れるし……っ」


「う、うん。ありがとう、夏希。でも、ほんと無理そうだったら、すぐ言って」


「だ、だってでも、でもでも……!」


その時、足元を何かがすり抜けた。


「きゃああああああっっ!!」


夏希は突然叫び、思わず湊の腕に飛びつくように抱きついた。


「ちょ、夏希!? また……!」


「わざとじゃないの!! こ、こっちは本気で怖いの!!」


「ご、ごめん、わかった、だから顔近い……!」


「近いのはそっちでしょ!? ああもう、ぬいぐるみ抱いてても無理ぃぃ……!」


夏希の涙目と震える身体に、湊は「もう何でもいいや……」と覚悟を決めて、そのまま彼女の手をしっかりと握った。


そんなやりとりをしている間にも、奥にぼんやりと澪の姿が見える。白い光に包まれたように、ゆらゆらと進んでいくその背中。


(今度こそ、絶対に助ける)


湊は心の中でそう誓った。


***


二人は静かに武器を構え、澪のもとへと歩を進めた。


空気が、明らかに違っていた。


旅館の地下に広がるこのダンジョンは、まるで生きているかのように、夜ごとに姿を微妙に変えているようだった。通路の幅、分岐の角度、天井の高さ――昨日とはどこかが異なっている。


「……やっぱり、澪がいないと、探索が厳しい」


湊が低く呟く。


澪の《感知》と《遮断》は、特にこのような不規則なダンジョンにおいて、どれだけ大きな戦力だったかを痛感する。今は夏希と湊の二人。敵の気配を先に感じ取ることができず、進路の判断も難しい。


だからこそ、戦闘はいつも、いきなりだった。


「来る……!」


夏希の声と同時に、ぼんやりとした霧の中から人影のような存在が現れる。半透明の、幽霊のような姿――このダンジョンの住人だ。


湊が剣を抜く。だが、前方からだけではない。後ろから、横から、まるで音もなく現れる影たちが、ふたりを囲むように現れる。


「三体……いや、四体! 夏希、援護を――」


「《癒糸》!」


夏希の糸が光を帯びながら空中に広がる。とはいえ、夏希が使えるのは、ブーストとヒール。あとは糸を張り巡らしての簡易結界。攻撃に使えるわけではない。


湊の剣は霧を裂き、影を斬り払うが、切り裂いたはずの敵は霧のように形を崩し、すぐに戻ってくる。


「ほんとに……実体があるんだかないんだか……!」


夏希も焦りを隠せず、湊の背を守りながら布陣を整える。


ようやく敵を振り切り、奥の通路へと逃げ込むと、そこにはさらに強い“気配”があった。


湊の足が止まる。ダンジョンの最奥。そこは、まるで地下神殿のような空間だった。朽ちた石柱が並び、中央には魔力の渦が渦巻いている。そしてその周囲に――人影があった。


「……澪ちゃん」


そう呟いた夏希の声が、静寂に沈む。


中央に立っていたのは、確かに澪だった。だが、その表情は虚ろで、魔力の渦に囚われたように、ゆらゆらと揺れていた。


その隣には、見覚えのある顔の宿泊客が二人――やはり同じように、目に光がない。


「……気づいて、お願い。澪ちゃん、帰ろう……!」


夏希が前へ出る。だがその声に反応することなく、澪は右手をすっと前に出し、背中から抜いた短剣を構えた。


「――ッ!」


殺気が走る。次の瞬間、澪が地を蹴った。


湊がすぐさま間に入り、剣で受け止める。短剣と金属がぶつかり合う鋭い音。


「本気だ……!完全に、操られてる……!」


しかも、彼女は澪だ。この空間で最も警戒すべき存在が、今や敵に回っている。夏希も援護にまわろうとするが、他の宿泊客二人が動き出し、通路をふさぐように攻めてきた。


「夏希、下がって!」


「だめ……このままじゃ……!」


膠着状態が続く。澪の動きは本気そのもので、間合いも、癖も、湊は熟知しているからこそ、手加減などできない。


ましてや一撃で無力化など、到底できない。逆に迷いが命取りになる。


「っ……撤退だ!」


そう決断した湊は、夏希の腕を引き、逃げ道を探す。夏希もすぐに後に続き、癒糸で進路を封じるように結界を張る。


敵が追ってくる。だが幸い、距離を詰めてこない。ある一定の範囲から外れると、追撃は緩やかになるらしい。


地上への階段を駆け上がり、ようやく旅館の廊下へ戻ったとき、二人は汗まみれで肩で息をしていた。


「……ダメだったね」


「でも……あれで、はっきりした。澪を取り戻さないと、このダンジョンは終わらない」


湊は剣を握る手に、静かな決意を込めていた。

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