第52話 澪の異変
その夜、部屋の照明が落ちたあとも、静けさの中に小さな気配があった。
布団に入ってからしばらくしても、澪は眠れなかった。湊の隣の布団に寝るという小さな勝利は、彼女の内心を静かにかき乱していた。湊の気配、布団の擦れる音、それだけで落ち着かず、何度も寝返りを打っては浅い呼吸を繰り返す。
やがて澪は小さく布団を抜け出した。湯冷ましの冷たい空気に身を晒し、障子を静かに開けて廊下へと出る。
「……ちょっとだけ」
自分に言い聞かせるように呟き、ふらりと、部屋を後にした。
そのことに、誰も気づいていなかった。
――翌朝。
「おはよう……」
澪が部屋に戻ってきたのは、朝の光が障子を通して差し込んできたころだった。
「澪ちゃん……どこ行ってたの?」
夏希が声をかけると、澪は少し間を置いて、「散歩」とだけ答えた。
その言葉は特に不自然ではなかったが、どこか返事が上の空だった。湊も気になって澪の顔を覗き込むが、いつもの無表情とは微妙に異なる。ほんの少しだけ、目が合わない。反応が遅い。まるで、身体だけが戻ってきたかのような、そんな印象だった。
「……変だな」
心の中でそう呟きながらも、問い詰めるには早すぎると判断し、湊は様子を見ることにした。
***
朝食後、三人は予定通り別府観光へ出発した。名所を巡り、足湯に浸かり、地元の土産店を冷やかす――そんな普通の観光客としての時間が流れていく中で、澪の言動はやはりどこかぎこちなかった。
「澪ちゃん、何か気になることある?」
夏希が隣で訊ねても、澪は「別に」と短く答えるだけだった。けれどその横顔には、明らかに普段とは違う影が差していた。
湊は何度か澪の様子を観察していたが、特に怪我をしている様子もなく、体調が悪いわけでもなさそうだった。ただ――何かが、ずれている。
まるで、本人ではない何かが、澪の内側に入り込んでいるかのような。
旅館に戻った頃には、陽もすっかり傾いていた。湯けむりの立ち込める坂道を登りながら、湊はふと後ろを振り返る。澪は少し離れた場所を、ゆっくりと歩いていた。歩幅が小さく、目線もどこか彷徨っているように見える。
「やっぱり……いつもと違う」
心の中でそう確信しながらも、それを言葉にすることはまだできなかった。根拠があるわけではない。けれど、普段一緒にいるからこそ気づく、微かなズレが、湊の中に確かな警告として残っていた。
***
その晩、夕食を囲んだときも、澪の食事の進みは明らかに遅かった。箸が止まりがちで、味の感想もなければ、いつもなら敏感な気配にも無反応。夏希も明らかに気を揉んでいたが、場を壊すまいと話題を選んでいた。
「明日は、どうしようか……どこか観光する?」
「……私はどこでも」
ぽつりと漏らされた澪の返事は、まるで遠くから響いてくるような、空虚な響きを持っていた。
そしてその夜。三人はまた、並んだ布団に潜り込む。けれど湊の胸の内には、はっきりとした不安が渦巻いていた。
(何かが、起きてる……)
「ねえ、湊くん」
夏希が小さな声で囁いた。
「……やっぱり、澪ちゃん、おかしいよね」
「……ああ。一応、気を付けて見ておこう」
湊は強く頷き、決意を込めて言った。
***
部屋に敷かれた三組の布団。湯上がりの余韻が残る中、三人はそれぞれの布団に入り、灯りを落とした。
その夜は、外から風の音もせず、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
そして――時刻は、丑三つ時。
障子の外から漏れ入るわずかな月明かりの中、湊はごく微かな音に気づいて目を覚ました。
ごそっ。
布団が擦れる音。寝返りにしては不自然に長く、何かが起き上がるような動き。
湊は布団から半身を起こし、静かに首を巡らせて隣の布団を見る。そこにいるはずの澪の姿が、ない。
(……いない!?外か!?)
直感的にそう思った湊は、すぐに隣の夏希を起こそうとした。そっと肩に手を置き、近くで名前を呼ぶ。
「……夏希。澪が――」
その瞬間。
「……え?」
ぱち、と目を開けた夏希が見たのは、自分のすぐ近くに顔を寄せた湊だった。
肩を抱き布団の上から覗き込まれるようなその姿勢は、まさに“覆い被さっている”ようにしか見えない。
そして彼女は、完全に寝ぼけていた。
「――えっ、えっ、ちょ、え、ちょっと待って!? 湊くん!? え!? これって……!? え、えええ!? 嘘でしょ!? なに考えてるのっ!?」
反射的に浴衣の襟を掻き合わせ、布団の中で後ずさる夏希。その顔は一瞬で真っ赤に染まり、言葉にならないパニックを引き起こしていた。
「違う! 違うってば!」
「違うって!? じゃあこの体勢はなに!? 顔めっちゃ近いし、なんか手、肩にあるし!完全にそのつもりだったよね!?」
「違うってば!! 澪がいなくなってる! 起こそうとしただけで……!!」
必死の弁明に、ようやく夏希も目を瞬かせながら状況を飲み込んでいく。布団の左側、澪がいたはずの布団は乱れており、そこには誰の姿もなかった。
「……ほんとにいないじゃん……って、もう……!!」
夏希は布団から抜け出しながらも、まだ頬が熱いまま口を尖らせる。
「まぎらわしいことしないでよ……ほんと、心臓に悪い……!」
「こっちだって、濡れ衣きせられてビビったよ……」
ひと悶着の末、二人は声を潜めて部屋を出る準備を整えた。障子を静かに開け、冷えた廊下に踏み出す。
ひたり、ひたり。
先を行く足音が微かに聞こえる。旅館の照明が届かないその奥へ、澪の細い背中が消えていこうとしていた。
「……ほんとに、夢遊病みたいだ……」
夏希の声が、どこか怯えたように震えていた。
廊下の先を、澪がゆっくりと歩いていく。まるで足元を気にせず進むような、意識の外にある動きだった。
湊と夏希は距離を保ちつつ、慎重に後を追った。旅館の廊下はやけに静まり返っており、畳に足を下ろす音さえ響いてしまいそうで、息を飲むように進んでいく。
(どこに向かってる……?)
澪は何度か角を曲がり、やがて館内の裏手、関係者用と思われる通路へと入っていった。暖簾の奥は使われていない物置や、古い階段が続いている。
そして、その階段の先――。
澪は、重そうな木製の引き戸を、何の抵抗もなく開けた。微かな唸り声のような風の音が、地の底から湧き上がるように漏れてくる。
「こんなところ……」
夏希が小さくつぶやいた。湊も、戸口から覗いた先に目を見開く。
それは――明らかに、ダンジョンだった。
薄暗く湿った通路に、青白い苔のような光。異様な魔力の流れが、足元から肌を這うように伝わってくる。
(旅館の地下に、こんな場所が……?)
驚きと疑念を抱えたまま、二人は澪のあとを追うように足を踏み入れた。
「うっ……」
入った瞬間、夏希が小さく呻く。
「この空気……気持ち悪い。頭の奥が、ざわざわする……」
「気を張って。もしかしたら、モンスターが――」
その言葉を遮るように、前方の闇がわずかに揺れた。風もないのに、そこだけがもやもやと揺れている。
そして、現れた。
人の形をした、半透明の影。目も口もなく、ただ人間のような姿を保ったまま、宙を漂っている。
「で、出た……!」
夏希の声が上ずる。影は音もなく滑るように近づいてくる。
湊は咄嗟に前へ出たが、剣も何も持っていない。浴衣の裾を翻しながら、拳を構えるしかなかった。
「くっ……!」
気合いを込めて拳を振るう。だが、手応えはない。影はぐにゃりと形を歪ませながら攻撃を吸収し、そのまま背後に回り込んだ。
「まずい、まともに効かない!」
「む、無理無理無理無理っ!!」
叫んだ夏希が、突然湊の腕にしがみつく。
恐怖に突き動かされて、全身を預けるように身を寄せ――結果、柔らかい感触が、ぐいっと湊の二の腕に密着した。
「わっ、ちょ、夏希、胸、当たって――」
「そ、そんなの今どうでもいいのっ!! こわいのっ! 無理なのっ!!」
涙目の夏希がさらに力を込める。浴衣の襟元がずり落ち、艶やかな肩があらわになった。
「うわ、ちょっと、はだけてるってば!」
「!?!?見た!? 今、絶対見たでしょ!? 湊くん、変態! ちがっ、違うけど!! でも今はそんなのどうでもいいからほんと無理ぃぃ……!!」
パニックのまま湊の腕にまとわりつく夏希と、それにどう対応していいか分からないまま煩悩を必死に封じる湊。
だが、影の動きは止まらない。
「もう、逃げるぞっ!」
湊が叫ぶと同時に夏希の手を握り、二人は一気に来た道を駆け戻った。後方からは、影がじわじわと追ってきていたが、不思議とそれ以上近づいてこない。一定の距離を保ち、ただ“見ている”。
(……何かを、試してるような……)
そう思った瞬間、異様な冷気が背中を撫でた。二人は慌てて階段を駆け上がり、木戸を閉めて、そのまま部屋へと戻った。
「はあ……はあ……っ」
息を整えながら、湊が振り返る。澪の布団は空っぽのままだった。
「……戻ってない……」
夏希も、黙ったまま頷く。
ただ事ではない。
疑念が、確信に変わった夜だった。




