第51話 温泉旅行
「一区切りしたし、ちょっと一息ついてもいいかもな」
C級冒険者に昇格して数日後、ギルドでの報告を終えた帰り道、湊がぽつりとそう口にした。春とはいえ風はまだ冷たく、肩にのしかかるような疲労が、その言葉に重みを加えていた。
「温泉とか、どう?」
真っ先に反応したのは夏希だった。目を輝かせて振り向いた彼女の表情は、連日の依頼で積もった疲れを、少しでも癒したいと切に願っているようだった。
「……癒されたい」
澪も、小さく呟く。淡々とした口調ではあるものの、その言葉には確かな本音がにじんでいた。
「じゃあ、三泊くらいで探してみるよ。場所は、別府温泉とか?都市間転送陣で福岡まで行って、そこから移動すればすぐだし」
湊が端末を操作しながら言うと、夏希が頷きながら声を弾ませた。
「昇格祝いも兼ねて、ちょっと豪華にしようよ。旅館とか!」
「……旅館、いい」
「だな。たまには羽伸ばそう」
その日の夜、湊は実際に旅館をいくつかピックアップし、評価と空き状況を確認した。選ばれたのは、別府でも老舗の格式高い温泉旅館。口コミも抜群で、料理も地元食材中心。風情のある木造建築で、部屋には専用の露天風呂がついているという。
「この宿、良さそうだったから予約するよ」
端末の通話ボタンを押し、女将と思しき年配の女性と穏やかなやり取りが始まる。丁寧で落ち着いた口調。空室の確認もスムーズだったが、ひとつだけ問題が発覚した。
「……はい。スイートルームは一部屋のみの空きがございます。もう一部屋となると、通常の和室となりますが」
通話を終えた湊は、リビングに戻って夏希と澪に報告した。
「スイートと、普通の部屋なら取れるってさ。俺が普通の部屋でいいから、二人はスイートでいいよ」
当然のようにそう提案する湊に、夏希が即座に首を振る。
「ダメダメ、なにそれ。湊くんだけ普通の部屋って、昇格祝いなのにさすがに不公平じゃない?」
「……しかも、三人一緒に住んでるのに、今さら別にする意味ある?」
澪の冷静すぎる一言に、湊が少しだけたじろぐ。
「え、いや……でも一応、男女だし……」
「気にするなら最初から同居しないよ」
「……うん、まあ、そうか」
夏希のにっこりとした笑顔に押されるようにして、湊は観念したように息を吐いた。
「じゃあ、スイート一部屋で」
こうして、三人の“ちょっと豪華な三泊四日”の旅行が決定した。慰労と祝福、そしてほんの少しの非日常を求めて――。
***
その後の準備もスムーズに進んだ。出発日は三日後、移動は都市間転送陣で東京から福岡へ一瞬。そこから電車で別府まで移動するだけという計画だった。
「荷物どうする? 浴衣は向こうにあるだろうけど、バスタオルとか持ってったほうがいいのかな」
「化粧水忘れないようにしなきゃ……でも旅館のアメニティにあるかも」
夏希と澪が珍しく女子っぽいテンションで荷造りをしているのを、湊は少し微笑ましく思いながら眺めていた。いつもダンジョンでは冷静な二人が、旅行前になるとこんなにも素直に楽しげになるのだ。
「……ちゃんと楽しんでくれるといいな」
ふと漏れた独り言は、他の二人には届いていなかったが、確かに湊自身の本音だった。
こうして――新たな冒険ではなく、束の間の休息を求めた三人の旅が、静かに始まろうとしていた。
***
都市間転送陣の光が収まったとき、三人はすでに福岡の空気を感じていた。転送の余韻が微かに残る中、湊がバッグのストラップを肩にかけ直し、周囲を見回す。
「福岡、初めて来たかも」
「私も。食べ物がおいしいって有名だよね」
夏希と澪が並んで話しながら歩く姿は、ダンジョン探索とはまるで別人のようだった。次の目的地、別府までは電車を使ってのんびりと移動する予定だ。現地に到着したときには、すでに午後だった。
別府の町は、どこか懐かしさを感じさせる温泉地独特の風情が漂っていた。路地に立ち上る湯けむりや、硫黄の匂い、古びた看板と新しい観光案内所が混在する景色に、三人はしばし無言で見入ってしまう。
「旅館、こっちだな」
湊が地図を確認しながら歩き出すと、二人も後に続いた。坂道を少し上がった先に、目的の旅館が現れた。重厚な木造建築に、手入れの行き届いた前庭と黒塗りの門構え。どこか異世界のような静けさが漂っている。
「すご……なんか時代劇に出てきそう」
夏希が目を丸くする。
「雰囲気、ある」
澪も頷いた。
女将らしき女性が玄関に出迎えに来ており、挨拶もそこそこに、三人は中へと案内された。廊下を進みながら、女将がふと立ち止まり、後ろを振り返る。
「お客様方は、初めてのご利用でございますね。どうぞ、夜はなるべくお部屋でお過ごしくださいませ」
「え? 何かあるんですか?」
湊が訊くと、女将はやんわりと首を振った。
「いえ、お気になさらず。ただ、昔から“夜は出歩くな”と申しますので……」
それ以上は語らず、女将は再び廊下を進んでいった。
通されたスイートルームは、想像以上だった。広い畳敷きの和室に、障子越しに見える部屋付きの個室露天風呂。天井が高く、心地よい木の香りが漂っている。三人とも思わず声を上げた。
「布団なんだ……ベッドじゃないの、逆に新鮮!」
夏希が部屋の奥を見回しながら声を弾ませる。
「この縁側……夜にここで風呂上がりとか、最高だな」
湊も感嘆の声を漏らす。
澪は既に浴衣を手にしていて、小さく頷いたまま、「……あとで入りたい」と呟いた。
夕食もまた、評判に違わぬ内容だった。大分の郷土料理がずらりと並び、魚、野菜、肉、どれも丁寧に仕立てられていて、三人は会話も忘れるほどに箸を進めていた。
「うわ……この豊後牛、やばい……」
「甘くてとろける……」
「……うまい」
旅館の魅力を堪能し、部屋に戻った三人は、それぞれ布団を並べて横になった。
「明日は朝から観光するんでしょ?」
夏希が眠そうに言う。
「うん、ちょっとした地獄巡りと、足湯も行きたい」
「……朝風呂も」
澪が控えめに口を挟む。
一通り明日の予定を立てたあと、明かりを落として就寝。
しかし――その夜。
廊下の外から微かにざわめきが聞こえてきた。
「……誰かいない?」
「さっきまでここにいたんだけど」
囁き声。くぐもった足音。襖の向こうで、誰かを探しているような気配。
湊は起き上がり、そっと扉を開けた。
廊下には数人の宿泊客が立ちすくみ、何かを探すように顔を見合わせていた。やがて一人が、湊に気づいて話しかけてきた。
「あの……すみません、友達が……夜の散歩に行ったっきり、戻ってこなくて」
「え……」
思わず言葉を失う湊。心当たりはなかったため、少し話した後、そのまま静かに襖を閉め、布団に戻った。
だが、妙に気になったため、やや眠りの浅い時間を過ごした。
翌朝。
その“友達”は、まるで何事もなかったかのように朝には部屋に戻っていたらしく、朝食処の席に座っていた。
けれど――その目の奥には、明らかに何かが宿っていた。
***
翌朝、別府の町はやわらかな朝霧に包まれていた。路地裏から湯けむりが立ち昇り、石畳を濡らした湯の香りが、旅情をいっそう濃くする。
三人は朝食を終えると、街の名所を巡ることにした。
「ここ、血の池地獄って名前……ちょっと怖いね」
「色だけで言えば、トマトスープに見えなくもない」
湊の冗談に、夏希が笑い、澪は無言でカメラを構えてシャッターを切った。地獄巡り、足湯、地元のお菓子店。特別なことはしない。ただ、日常とは違う空気の中、三人で歩く時間が心地よかった。
夕方近くに旅館へ戻ると、疲れが一気に押し寄せた。
「先にお風呂、入ってこようかな」
夏希が言うと、澪も黙って浴衣を手に取った。部屋付きの露天風呂は、木の湯船に湯気が立ちこめ、岩や植え込みが周囲を囲むように配置されている。まるで隠れ家のような静けさ。
「じゃあ、俺は部屋でのんびりしてるよ」
湊はそう言って障子を閉め、湯上がりのドリンクを取りに出ていった。
露天風呂には、二人だけ。
「……外、気持ちいい」
「ほんと、最高……」
肩まで湯に浸かりながら、夏希が湯面にふわりと浮いた髪を指ですくう。澪は隣で、じっと空を見上げていた。
「ねえ、さっきの“地獄”……怖くなかった?」
「……怖くない。でも、ちょっと気持ち悪かった」
「うん。なんか、ぞわってした」
夕焼けが差し込む中、二人の肌は湯気に濡れて、ほんのり紅潮していた。首筋から肩、そして鎖骨まで、湯にあたためられた肌が、ふわりと桃色を帯びている。
部屋に戻ると、湊がテレビをつけたままごろごろしていた。
「湯加減どうだった?」
「最高。……ちょっと入りすぎたかも」
夏希が頬を抑え、澪もわずかに息を整えながらうなずく。二人とも髪から滴る水滴が浴衣の襟元に落ち、そこが少しだけ湿って透けているのが、湊には直視しづらかった。
「じゃあ、俺もあとで入るよ」
湊がそっと視線を逸らしながら立ち上がると、澪がチラリと夏希を見た。
「……じゃんけん、しない?」
「……え? ……あ、いいよ」
湊の入浴を待つ間、夏希と澪が静かに布団を並べ始めた。部屋には三人分の布団が敷かれていたが、真ん中を誰が取るか、という無言のやり取りが始まる。
「最初はグー……」
二人の声が重なり、じゃんけんの手が宙を舞う。
「……よし」
静かにガッツポーズを取る澪。ほんの一瞬だけ、勝ち誇ったように笑って、澪は迷いなく真ん中の布団を選んだ。
「なんか……すごく自然だったね」
「……たまには」
夏希は小さく肩をすくめ、仕方ないとでも言いたげに笑った。
***
その夜、月が上がる頃。湊が布団に入ったとき、いつもより少しだけ近い距離に澪がいたことに、少しだけ緊張を覚えた。
けれど、その夜は何も起きなかった。起きるはずもなかった。
布団を敷いたまま、湊は天井を見上げていた。湯上がりの香りがまだ空気に残っていて、ふとした瞬間に隣から澪の寝息が微かに聞こえる。
「……明日も、いい日になるといいな」
心の中でそう呟いて目を閉じた。
けれど、その夜、まさかの出来事が三人を待ち受けていたことを、誰もまだ知らなかった。




