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第42話 オークウォーロード

 焦げた鉄の匂いが、鼻を突いた。


 風が変わる。空気が、重く濁っていく。 


 その中心に、黒く巨大な影が立っていた。


「……なんだ、あれ……」


 湊は声を漏らす。


 それは確かに、オークの系統に属する魔物だった。だが、今まで見てきたどの個体とも違う。


 全身に金属片のような鎧をまとい、肩から背中には棘のような骨の突起が並んでいた。両手に握られた大剣は、鉄ではなく骨と魔石の融合体。呼吸するたびに肩がうねり、地を踏むたび、空間がきしむように揺れた。


「……オークウォーロード、で間違いないと思う」


 澪が低く呟く。


 スタンピードが呼び出した異常個体――D級ダンジョンには本来存在しないはずの、超格上のボス。


 湊は唇を噛みしめ、剣の柄を握る手に力を込めた。


「澪、夏希を頼む」


「了解。あの敵は任せた」


 いつもよりも、少しだけ真剣な澪の声。


 湊は無言で頷いた。


 オークウォーロードが、こちらを見据えて動く。重い足音が地を打ち、火花のような魔力の揺れが鎧から立ち上る。


 その眼光は、まるで人のような知性を帯びていた。


 湊はその視線を、まっすぐに受け止めた。


「……行くぞ」


 踏み込む。距離を詰める。


 オークウォーロードが大剣を振りかぶった。その動きに、一切の無駄がなかった。


 咄嗟に身体をずらす。地を滑るように回避した瞬間、剣が振り下ろされる。


 ――轟音。


 避けたはずのその一撃が生み出した風圧だけで、頬に裂けるような痛みが走った。剣が叩きつけられた床は、瓦礫と化して砕ける。


 湊は跳ねるように間合いを取った。


(……一撃の質が、今までと違う)


 剣を握る手に、じわじわと汗がにじむ。


 これはただの“強敵”ではない。生半可な攻撃ではびくともしない。


 だが、だからこそ――このスキルがある。


 湊は静かに呼吸を整えた。


 《リピート》――自分の行動を繰り返すことで、効果が高まっていくスキル。今の自分に与えられた、唯一の武器。


 その力を、今こそ最大限に使うときだ。


「……繰り返す。何度でも」


 小さく、そう呟いた。


 背後に意識を集中させる。澪が夏希の側に立ち、気配を完全に消しているのを感じ取る。


「俺一人で、やる」


 オークウォーロードが吠えた。耳をつんざくような低音がダンジョン内に響き渡る。


 応じるように、湊も走り出した。


 この戦いは、逃げられない。逃げるべきでもない。


 守るべきものがあるから。


 目の前のこの化け物を――絶対に、倒す。


 剣が、弾かれた。


 鋭く斬り込んだつもりの斜めの一撃は、オークウォーロードの肩鎧の湾曲に沿って滑り落ち、かすり傷すら残さなかった。


 だが、湊は眉一つ動かさず、即座に二撃目へと移る。


 続く一太刀。今度は膝を狙った水平斬り。だがそれもまた、金属と骨の混成装甲に阻まれ、わずかな火花を散らすだけで終わる。


 三撃目、四撃目、五撃目――。


 湊の剣が次々と振るわれるたび、空気が震えた。鋭く、的確に、殺意を込めて。


 けれど、傷は深まらない。


「……なるほど。簡単には、通らないか」


 苦笑のように吐きながら、湊は踏みとどまる。


 オークウォーロードの剣が唸りを上げて迫ってきた。


 湊は背を低くし、足元へ滑り込むように回避。そのまま振り返りざまに斬りつけるも、腰部の鎧に防がれる。


 咄嗟にバックステップ。すぐに次の構えへ移行。


(……でも、これでいい)


 手応えは薄い。だが確実に、湊は自分の中で“何か”が変わりつつあるのを感じていた。


 それは力ではない。スピードでもない。


 ――精度。


 剣の軌道が、身体の動きが、どこか“自動化”されたかのように洗練されていく。


(今の一撃、回避からの反転が自然に……いや、それだけじゃない)


 かつての自分なら、もっと無駄があった。読み違えも多く、力に頼っていた。


 だが今は違う。


 敵の動きを読み、最も薄い防御箇所へ打ち込む――その判断と実行が、ほとんど同時にできている。


 スキルレベルという数値では示されない“実感”。


 確かに、自分は進化している。


「よし……繰り返すぞ」


 湊は再び踏み込み、六撃目、七撃目と剣を重ねていく。


 同じ動作、同じ狙い、同じ意図。


 《リピート》のスキルが、湊の中で静かに、しかし確実に蓄積されていく。


 このスキルは、単なるバフではない。繰り返した行動にこそ意味がある。


 目の前の敵を――ただ、この敵だけを攻撃し続けることで、《リピート》の“力”は確かに蓄積されていく。


 特定の対象に連続して攻撃することにより最大で25%、攻撃の繰り返しにより最大で25%、さらに――


 湊は背後を一瞬だけ振り返った。


 疲労と怪我で既に意識のない夏希が、戦闘開始前、自らの回復よりも優先し、少しだけ回復した魔力を使って、震える手で湊に《ブースト》を数度重ねがけしてくれていたことを、思い出す。


 彼女の魔力の軌跡が、いまだ湊の体に染みついているようだった。


(夏希のブースト、5回分……俺の身体強化は3回か)


 追加で8%。細かい数字だが、《リピート》はそういう積み重ねをものともしない。


 この戦いの中で、湊の攻撃はすでに十数回を超えていた。


 無駄な攻撃はない。すべてが布石となり、すべてが“最終の一撃”のために蓄積されていく。


「……あとは、狙いどころだ」


 湊は静かに、オークウォーロードの動きを見極める。


 その全身はほとんど鎧に覆われているが、関節部や首元、武器の持ち替え動作時には、わずかな隙が生まれる。


 澪が後衛で動きを止めるか、気を引くタイミングがあれば――その瞬間こそ、最大威力の一撃を叩き込むべき時。


「湊、まだいける!?」


 澪の声が、かすかに聞こえた。


「あと少し……」


 湊は短く答えた。


 そして剣を再び振るった。


 十四撃目、十五撃目――。


 重ねる。迷わず、ただ繰り返す。


 全身が痛む。筋肉が軋む。呼吸が浅くなる。


 それでも止まらない。


 この敵を倒すために、自分のスキルがある。


 自分の剣が――ここにある。


 オークウォーロードが咆哮を上げ、剣を構え直した。


 次の攻撃は、明確に湊を“優先目標”と捉えた動きだった。


 湊は深く息を吸い、両足に力を込めて構えた。


 そして思う。


(――もう少しだ。まだ倒せない。でも、確かに届いてきてる)


 次で、十六撃目。


 その時。


 ふ、と一瞬だけ、視界の端に光がよぎった。


 それは――澪だった。


 完全に気配を遮断し、オークウォーロードの背後へと忍び寄った彼女が、ナイフを閃かせた。


 狙うは足元。相手の体勢を崩すための一撃。


 湊は即座に理解する。


 これは――決定機だ。


 鋭い閃光が、地を裂いた。


 澪の放ったナイフが、オークウォーロードの足首をかすめるように掠めた瞬間――。


 わずかに、バランスが崩れた。


 その僅差の一瞬を、湊は逃さなかった。


 剣を構え、踏み出す。


 足元が割れたような衝撃の中で、湊はまっすぐに跳躍し、オークウォーロードの懐に飛び込んだ。


「ここだ……!」


 踏み込みと同時に、全神経が研ぎ澄まされる。


 いま、この瞬間。


 攻撃対象はオークウォーロード。繰り返しの対象もオークウォーロード。


 十七撃目、十八撃目、十九撃目……数え切れないほど繰り返してきた斬撃。


 夏希の《ブースト》、自らの《身体強化》。その全てが今、この一瞬のために積み上げられている。


「――っ!」


 二十撃目。湊の剣が、初めて唸った。


 それまでの斬撃とはまったく違う、風圧を伴う一撃。


 剣が閃光となって走る。オークウォーロードの鎧を斜めに裂いた。


 血飛沫が舞う。


 初めて、深く肉へと届いた。


 湊はそこからさらに攻めに出た。剣筋が、淀みなく続く。


 二十一撃目。今度は脇腹。


 二十二撃目。左膝裏を狙って低く斬りつける。


 二十三撃目。下から喉元を突き上げるように突いた――。


 オークウォーロードが、吼えた。


 怒り、憤り、苦痛。すべてを混ぜ合わせたような獣の咆哮。


 だが湊は止まらない。


「このまま、押し切る!」


 自らを鼓舞するように叫び、剣を振る。


 オークウォーロードの骨剣が唸りを上げて振り下ろされるが、湊は滑るように回避し、側面へと回り込む。


 《剣術》によって磨かれた身体が、まるで勝手に動いているかのようだった。


 ここが、好機。


 湊は確信した。


(いまの俺なら――いける)


 全ての攻撃が、オークウォーロードに対して。逃げず、恐れず、的確に。


 湊は目の前の敵を、ただ敵として、冷静に分析していた。


 無駄な力も、感情もない。ただ、倒すべき目標。


 剣を振るうたび、内側のスキルが明確に反応していく。


 《リピート》の力が、湊の全身に広がっていくのを感じる。


 攻撃速度がわずかに上がり、力の乗り方が明らかに変わった。


 湊自身は、その理由を言語化できていなかった。


 けれど、“積み重ねが形になった”という感覚だけは、確かにあった。


 そして――


 二十五撃目。


 湊は動きを止めた。


 剣を低く構え、深く息を吸い込む。


 オークウォーロードは、わずかに膝を折っている。片腕は動きが鈍く、全身に傷が刻まれていた。


 だが、それでも殺しきれてはいない。


「次で……終わらせる」


 呟くようにそう言い、湊は一歩、踏み出した。


 《リピート》の効果――最大蓄積状態に到達。


 対象:+25%

 繰り返し行動:+25%

 《身体強化》×3:+3%

 《ブースト》×5:+5%

 合計バフ:+58%


 それは、湊がこのダンジョンに入ってから積み重ねた、すべての経験の結実だった。


 身体が、動く。


 風を裂き、剣が閃く。


 オークウォーロードが、咄嗟に剣を構える――が、遅い。


 湊の踏み込みは、その反応を上回っていた。


 全身の筋力を、魔力を、意思を。


 すべてを剣に込める。


「――はぁぁぁっ!」


 咆哮とともに、湊の剣が振り抜かれた。


 刹那、鋼と骨を切り裂く音が轟く。


 剣が鎧を裂き、肉を断ち、骨を砕き――


 オークウォーロードの胸を、深々と貫いた。


 沈黙。


 空間が、凍りついたように静まる。


 次の瞬間、巨体がぐらりと揺れ――


 崩れ落ちた。


 音を立てて倒れるその姿は、まるで建物の崩壊を見るかのようだった。


 湊は、息を切らしながら剣を支えにして膝をついた。


 その身体に走る痛みと疲労は、尋常ではない。


 けれど――やり切ったという手応えが、胸の奥に確かに残っていた。


「……倒した」


 呟きながら、湊は顔を上げる。


 そこには、澪が夏希を支えながら、目を見開いて彼を見つめていた。


「……すごい、倒した……」


「まだ、生きてるか?」


「こっちは大丈夫。夏希はまだ意識がないけど…」


 湊はほっと息を吐いた。


 オークウォーロードの巨体が、鈍い音を立てて崩れ落ちた。


 肉が裂け、骨が砕け、黒い霧が立ち昇るようにして、その姿は次第に消えていく。魔力の奔流がゆっくりと引いていく様は、まるで暴風の去った後のようだった。


 だが――空気はまだ、重かった。


 湊は膝をつき、息を整えながら辺りを見渡す。


「……終わった、の?」


 澪が問いかけるように呟いた。


 湊は、まだ倒れている夏希のそばへゆっくりと近づき、その顔を覗き込んだ。


 その瞬間、かすかに、まぶたが動いた。


「……湊、くん……」


「夏希!」


 呼びかけに応じるように、彼女がか細い声で名前を呼んだ。目の焦点はまだ定まっていなかったが、意識は戻りつつある。


「動かなくていい。いま、終わったところだ」


「そっか……倒したんだね……」


「……ああ」


 安堵が、湊の胸を満たした。


 だがその安堵は長くは続かなかった。周囲に漂う魔力はまだ濃く、ダンジョン自体が落ち着いた様子ではなかった。


「この感じ……まだ、異常が続いてる?」


 澪が辺りを見回す。


 湊も立ち上がり、洞窟の壁に手を当てて魔力の流れを感じ取る。


 それは確かに、まだ“揺れていた”。


(外でも、何か起きている?)


 だが、この空間でこれ以上戦える余力は、もうない。


 湊は決断した。


「――戻ろう。夏希を運んで、一刻も早く治療を」


「了解。私が背負う。湊は警戒をよろしく」


「……ありがとう」


 統率者であるオークウォーロードを倒したことで、他の魔物の動きが鈍り、湊たちはできるだけ戦闘を避けながらゆっくりと地上への帰路をたどった。

 

 幾層もの階層を上がるたびに、魔力の圧も次第に薄れていく。やがて出口が見えた頃には、空気がようやく落ち着いているのを感じた。


 ――地上。ギルド支部前、夕暮れ時。


 空は茜に染まり、あれほど荒れていたはずの空気が、今は静かだった。


 ダンジョンゲートの周囲には、複数の冒険者とギルド職員たちが集まり、何重もの警戒線を張っていた。


 湊たちが姿を現した瞬間、駆け寄ってきたのは、見知った顔だった。


「神谷さん!遠野さんに、久城さんも……!」


 受付の藤堂だった。


 いつもとは違い、戦闘用の簡易装備を身にまとい、緊張した面持ちでこちらを見ている。


「……ご無事で何よりです」


「夏希が負傷しています。治療を優先してください」


 湊の言葉に、藤堂はすぐに無線で指示を飛ばし、待機していた治療班が駆けつけた。


 澪が夏希を背から下ろし、隊員たちに引き渡す。その手を最後まで離さなかった湊の指先が、少しだけ震えていた。


「彼女は任せてください。すぐに医療室へ搬送します」


「……お願いします」


 夏希が運ばれていく姿を見届けたあと、湊たちは藤堂に促されて一歩下がった位置へ。


「……スタンピード、だったんですか」


 湊の問いに、藤堂は静かに頷いた。


「はい。あなた方が潜っていたD級ダンジョンを含め、都内と近郊で計4箇所。A級、B級、C級、D級で各1箇所ずつ、同時多発的に発生しました」


「それで……どうなったんですか、外は」


 「すでに収束しています。A・B級のボス個体は、上級冒険者たちがすでに討伐済み。地上に出てきた魔物についても、各ランクの冒険者が分担して掃討を行い、対応完了との報告がありました」


「……そう、ですか」


 湊は、思わず空を見上げた。


 雲の間から、沈みかけの夕日が差し込んでいた。


 信じられないような静けさだった。


「ただし、被害は……小さくありませんでした。一般市民の避難が間に合わなかった区域も一部あり、C級以下の冒険者たちにも死傷者が出ています」


 藤堂の言葉に、湊は唇を引き結んだ。


 静かに、その重さを受け止める。


「……それでも」


 そう呟いたのは、澪だった。


「三人で戻ってこれた。まずはそれで、いいんじゃない?」


 彼女の目は真っ直ぐだった。戦闘の余韻が残る身体の疲労の奥で、それでも確かに安堵の色を灯していた。


 湊も、微かに頷いた。


 「そうだな。ありがとう、澪」


 「礼なんていらない。湊が、最後まで戦ったからだよ」


 いつもの口調に戻っている。湊は、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。


 そして心の中で、深く思った。


 (まだ、何も終わってない。けど――生きてる)


 その事実が、ただ一つ、胸に残った。


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