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第39話 訪問者

 夕方のリビングには、煮込みの香りと、まったりした空気が漂っていた。


 「湊くん、テーブル拭いた?」


 「今やってる。っていうか、毎回俺が拭いてるな」


 「それは……湊くんが一番手が空いてるから、ね?」


 苦笑しながら夏希が台所に戻ると、澪が冷蔵庫から食材を取り出している。その様子はすっかり日常の風景になっていた。湊も、特に何の違和感もなく、ダイニングテーブルを拭きながら小さくあくびを漏らす。


 そこへ――


 「ピンポーン」


 電子音のチャイムが鳴った。


 「……ん?誰か来た?」


 「こんな時間に?」


 湊がタオルを置いて玄関へ向かうと、インターホン越しに見えたのは、どこか少し緊張したような顔をした少女だった。


 「羽鳥……?」


 玄関を開けると、羽鳥が勢いよく頭を下げてきた。


 「こんばんは、神谷先輩!」


 「よ、お疲れ。どうしたんだ?何かあったか?」


 「い、いえ!これっ、ギルドからのお届けです!……明日以降のダンジョン攻略について、藤堂さんからっ」


 小さな封筒を差し出す羽鳥の声はいつもより少しだけ早口だった。湊が受け取って封筒を眺めていると、ふと、香ばしい出汁の匂いが風に乗って玄関まで届いた。


 「……晩飯、まだだったりする?」


 「……えっ?」


 「よかったら、うちで食ってくか?今ちょうど、夕飯作ってるところだし」


 その言葉に、羽鳥の瞳がぱっと見開かれた。


 「えっ……えっ!?そ、そんなっ、でも――お邪魔じゃ……」


 「別に構わない」


 後ろから澪の声が聞こえ、続いて夏希が台所から顔を出して微笑んだ。


 「ちょうど一人分くらいなら、増やせるから。」


 羽鳥は一瞬だけ立ちすくんでから、嬉しそうに頷いた。


 「……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて、ちょっとだけ……!」


 その頬はほんのりと染まっていた。


***


 テーブルには、味噌汁・焼き魚・小鉢の煮物・炊きたての白米という、見慣れた食卓。


 「いただきます!」


 四人分の声がそろい、食卓に箸がのびる。羽鳥は湯気の立つ味噌汁をすするなり、感動したように目を丸くした。


 「……すごい、普通のご飯なのに、なんか……めちゃくちゃ美味しいです……!」


 「それ、普通じゃなくて澪の腕だな」


 「でも、お味噌の合わせ方は夏希の担当でしょ?」


 「うん。湊くん、合わせ味噌苦手だったから、ちょっと甘めにしてるの」


 湊が「そこまで考えてたのか」と呟くと、羽鳥がこっそり手元の味噌汁を見下ろした。


 (……甘めの味噌……好み、覚えておかないと……!)


 羽鳥は、緊張と嬉しさの混じった表情で黙々とご飯を食べながら、どこか遠慮がちに3人のやりとりを見つめていた。


 家庭のような、仲間のような、けれどどこか温かい空気。まるで、すでに“形になっている関係”の中に、自分がちょっとだけ入れてもらったような。


 「……こういうの、いいな」


 ぽつりと漏れた言葉に、向かいの夏希が箸を止めて、ちらりと視線を向けた。


 「何が?」


 「……えっ、あ、いえ、なんでも!」


 慌てて首を振る羽鳥に、澪が冷静な口調で呟いた。


 「この生活に混ざりたいなら、相応の覚悟がいる」


 「……が、がんばります……!」


 思わず立ち上がりそうになる勢いで返した羽鳥に、湊が苦笑した。


 「まあ、気楽にいこう。堅苦しいのは、俺たちに似合わないしな」


 (……それは、今の生活があるから、言えるんですよ……)


 羽鳥は心の中でそう思いながら、何も言わず、静かに湯飲みに口をつけた。


 夕食が終わる頃には、外はすっかり夜の気配に包まれていた。

 窓の外に広がる住宅街は、街灯の明かりがぽつぽつとともるだけ。羽鳥は時計を見て、わずかに肩をすぼめた。


 「……あ、もうこんな時間……」


 湊は食器を下げながら何気なく言った。


 「ここから羽鳥の家までって、1時間くらいだったか?」


 「そうですね……いつもは帰り道でいろいろ考えるのが好きなんですけど、今日はちょっと疲れてて……」


 そう言いながら羽鳥は、普段よりほんの少しだけ慎重に言葉を選んでいた。

 それを感じ取った夏希は、お茶を注ぎながらそっと澪と視線を交わす。


 ――まさか、とは思うけど。


 「羽鳥」


 「は、はいっ!?」


 「よければ、今日は泊まってくか?無理に帰らなくてもいいし」


 羽鳥の目が一瞬まん丸になる。そして、すぐに口元を手で隠して――


 「……えっと、ほ、ほんとに、いいんですかっ……!?」


 「部屋、空いてるのは俺のだけど、まあ布団は貸せるし」


 その瞬間、リビングの空気が――ぴき、と音を立てた気がした。


 「……湊くん?」


 夏希がにっこりと笑いながら問い返す。その声のトーンに、湊が「あっ」と何かに気づいたように振り返る。


 「いや、別に俺の部屋って意味じゃなくてな。客間がないから空いてる部屋っていうと……」


 澪は黙ったまま席を立ち、さくさくと洗い物に向かった。その背中が、妙に静かで怖い。


 一方、羽鳥はそんな空気にも気づかないふりをして笑顔を作る。


 「はい! お言葉に甘えて、今日は泊まらせてもらいますっ!」


 ***


 シャワーを済ませた羽鳥は、澪から借りたオーバーサイズのTシャツに身を包んで、湊の部屋の前に立っていた。

 髪は半乾きでふわりと肩にかかり、手には折りたたんだタオルと洗い立ての服。

 何度かノックしようとして、やっぱりやめて、深呼吸する。


 (……ちょっとだけ……お礼言うだけ……それだけ)


 コンコン、と控えめにノックする音。


 「ん?どうぞ」


 湊の声がして、羽鳥は意を決してドアを開ける。


 「す、すみません。まだ起きてますか?」


 「起きてるけど……どうした?」


 湊はTシャツに短パンという寝巻きスタイルで机に向かっていた。

 机の上にはノートとペン。最近の探索記録をまとめていたところだった。


 「えっと……今日は、ご飯も泊まりも、本当にありがとうございます」


 「礼を言われるようなことでもないけどな。こっちも久々に賑やかで楽しかったよ」


 そう言われて、羽鳥の胸がちょっとだけくすぐったくなる。


 「……あの、もう少しだけお話、しても……?」


 「まあ、少しくらいなら」


 羽鳥はおずおずとベッドの端に腰を下ろす。湊は椅子の背もたれに体を預けながら、少し視線を横にそらした。


 (……完全に後輩と接してる感じだったけど、女子が自分の部屋にいる、っていう状況になるか……しかも羽鳥だしな……)


 「先輩って、部屋……すごく整ってるんですね。ちゃんと片付いてるっていうか、シンプルで」


 「家では散らかってたけどな。冒険者になってからは、いつ何が起きてもいいようにしてる」


 「そういうところ……やっぱりかっこいいです」


 さらりと出た羽鳥の言葉に、湊が肩を揺らした。


 「お、おう……ありがとう」


 静かに流れる数十秒。ふと、羽鳥がベッドの上で足を組み替えた。


 「……ここって、いつも神谷先輩が寝てるところ、なんですよね」


 「まあ、そうだけど……」


 「……すごい。なんか、変な気分です」


 その目が、少し潤んで見えた。その時――


 「羽鳥さん?」


 突如、背後から声が響いた。


 振り返れば、そこには――タオルを手にした夏希が仁王立ちしていた。


 「……そろそろ遅いし、私の部屋に戻ろうか?」


 「えっ、あっ……はいっ……!」


 弾かれたように立ち上がる羽鳥を、夏希が静かにエスコート――いや、ほぼ連行するように部屋を後にした。


 「お、おやすみなさいっ!!」


 羽鳥がぴょこんと頭を下げて、廊下の向こうに消えていった。


 湊は机にひとり残されて、天井を見上げる。


 「……なんだったんだ、今の……」


 返事をする者はいない。ただ、どこかほんのり甘い香りが、まだ部屋に残っていた。


***


 朝の陽が差し込むキッチンに、トントンと包丁の音が響く。

 夏希はエプロン姿で淡々と調理を進め、隣では澪が目玉焼き用のフライパンを温めていた。


 「お湯、沸かすわね」


 「うん。味噌汁はあと3分で火止めて」


 いつもの朝。数ヶ月前までは想像もつかなかった、3人での生活が当たり前になっている。

 けれど――今日は、そこに“ひとつだけ違う空気”があった。


 「……お、おはようございます……」


 控えめな声とともに現れたのは、澪の大きめのTシャツを着た羽鳥だった。髪は寝癖まじりで、どこかまだ眠たげな表情。


 「……あ、おはよう、羽鳥さん。ちゃんと眠れた?」


 夏希がにこやかに尋ねるが、その笑顔には明らかに“監視”の色が混じっていた。


 「は、はいっ。すっごく、ふかふかでした……あの、神谷先輩は……?」


 「まだ寝てる。私が起こしてくる」


 澪が無表情のままスッと立ち上がると、静かに湊の部屋の方へ消えていった。


 「……あの、夏希さん……」


 「うん?」


 「……昨日、私……ちょっと図々しかったかもしれません」


 夏希は味噌汁をかき混ぜながら、一瞬だけ目線を逸らす。


 「ううん。泊まったのは仕方ないし、来てくれたのも本当なんだよね?」


 「……はい」


 「じゃあ、そこは素直に感謝してるよ。でも……」


 「……でも?」


 「“ちょっと”というか、“けっこうがっつり”に見えちゃったから。……次はもう少し控えめにね?」


 羽鳥が縮こまるように肩をすくめたところへ――


 「……おはよう……」


 湊が寝ぼけた声とともに現れた。寝癖が跳ねた髪に、Tシャツとハーフパンツ。完全にいつもの姿。


 「あ、おはようございますっ!」


 羽鳥が反射的に立ち上がる。


 「おお……羽鳥、もう起きてたのか。おはよ」


 湊が軽く手を上げて朝の挨拶を交わす。その姿は、どこかまだ夢の中のように自然体だった。


 「おはよう。パンよね?」


 夏希がいつの間にかトーストを出していた。湊は「ありがと」と手を伸ばし――


 「えっ、神谷先輩、朝はパンなんですか?」


 「たまに。基本は味噌汁とご飯だけど、澪がトーストうまく焼くから」


 「へ、へぇ……すごい、みなさん家庭的で……」


 朝食の準備が整っていく中で、羽鳥も手伝おうと立ち上がる。


 「私、お茶注ぎますねっ!」


 そう言って湊の湯飲みを手に取った、その時――


 「あ、それ私がやるわよ……」


 夏希が小さく呟き、すぐにごまかすように笑った。


 「い、いえ、すみません!先輩の好みって、薄めでしたっけ?それとも濃いめ……」


 「湊くんは味見せずに飲むから、あんまり気にしてないよ」


 「……でも、気にしてあげた方がいいかも。最近、朝からちょっと疲れてるみたいだし」


 澪がさらりと、しかし鋭く釘を刺すような台詞を添える。

 

その場の空気が一瞬だけぴんと張りつめ、羽鳥は「そ、そうですね……!」と笑ってごまかした。


***


 その後、朝食は静かに、しかしどこか火花のような気配が交錯しながら進んだ。

 湊が一口食べるたびに誰かが「それ、どうだった?」と聞いてくる。


 湊はのんきに「全部うまいよ」と答えていたが、その返答が“誰にとっても決め手にならない”ことで、逆に戦場は静かに燃え広がっていくのだった。


 朝食を終え、食器を流しに持っていった羽鳥は、キッチンの隅でふっと息をついた。


 (楽しかった……けど、やっぱり……空気が、ちょっとだけ、重かった……)


 昨日の夜、あのまま湊の部屋にいられたら。

 あの距離感が続いていたら、もしかして、もしかしていたかもしれない。

 けれど――そう甘くないのが“先輩の周囲”だった。


 「そろそろ行きます。今日もダンジョンに行きますし。」


 玄関口で、羽鳥は上着を羽織りながら、3人に丁寧に頭を下げた。


 「昨日は、本当にありがとうございました。ご飯も、お泊まりも……全部、とっても嬉しかったです」


 「こちらこそ、お疲れ様。気をつけて帰ってね」


 夏希が笑顔で返すが、その目の奥には「次はそう簡単に許さない」という光が宿っていた。


 「忘れ物、ない?」


 「はい。澪さんに借りたTシャツも、ちゃんと畳んでバッグに入れてます」


 「別にそのまま置いていってもいいよ」


 「……洗濯して返したら、また会うきっかけになりますから。」


 湊には聞こえないぐらいの声で呟いたその一言に、夏希の表情が一瞬だけ止まった。


 (この子……思ったより、ずっと本気だ)


 そんな夏希の沈黙に気づかず、湊が自然な調子で言った。


 「じゃあ、また何かあったら来てくれていいからな。……遠慮しなくていい」


 「……っ」


 羽鳥の耳が、さっと赤くなる。言葉は出ないけれど、顔全体が喜びを訴えていた。


 「じゃ、じゃあ、また“泊まり”でお願いしてもいいですか?なんて……」


 冗談めかした口調だった。だが、その目は、冗談ではなかった。


 湊は少しだけ戸惑ったように見えたが――「ま、まあ、必要があれば……」と曖昧に答えた。


 その曖昧さに、羽鳥は逆に希望を見出したらしく、パッと笑顔を咲かせた。


 「じゃあ、“必要があるように”しますねっ!」


 「ちょ――ちょっと、ちょっと待って?」


 夏希の声が裏返る。


 「ふふ、じゃあ、また!」


 羽鳥は夏希を軽やかにスルーし、勢いよくドアを開けて外へと駆け出していった。


 「いってきまーすっ!」


 その声が消えたのち――


 「……」


 「……」


 しばしの静寂がリビングを包んだ。


 「……湊くん、今の聞いてた?」


 夏希がふり返ると、湊はその場で呆けたように立っていた。


 「なんか……今日の朝、やたらとテンション高かったな、羽鳥……」


 「うん、そうだね。テンション、ね。……というか!」


 バンッ、と夏希がダイニングの椅子に両手をつく。


 「湊くん、ちょっとは警戒しようよ!女の子があんな距離感で迫ってるのに!」


 「いや、そうは言っても無下に扱うのも可哀想というか何というか……慕ってくれてる後輩でもあるわけだし……」


 「……ほんと、もう……!」


 呆れと苛立ちと、ほんの少しの悔しさが混じった夏希の声に、湊は澪に助けを求めた。


 「なあ、澪。俺、そんなにまずいことしたかな?」


 「……悪いことはしてない。でも、タチは悪い」


 「そんな……」


 「でもまあ」


 澪は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、ぽつりと言った。


 「“泊まり”を許可するなら、次は一緒に住んでる私たちにも一声かけること。……いい?」


 「……了解です」


 思わず敬語になる湊に、夏希も同意のように頷いた。


 「“同居生活”って、ほんと気が抜けないんだからね?」


 リビングに、再びいつもの空気が戻りつつあった。

 でも、それは確かに“少しだけ揺らいだあと”の、すこし変わった空気だった。


 窓の外には、もうすっかり朝の光が満ちていた。

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