第16話 密談
澪が湊たちのパーティーに加入する一週間前の午前二時。都内の人気のないビルの一室に、浅倉誠士は背中を椅子に預けたまま、虚空を見つめていた。
スーツ姿の男たちが左右に立ち、無言で室内を警戒している。カーテンは閉められ、室内灯だけが無機質な白い光を放っていた。テーブルの上には、未開封のペットボトルと、簡素な書類の束。
向かい側には、ひとりの男が座っていた。三十代半ば、背筋を真っ直ぐに伸ばし、洗練された物腰。黒いシャツに細身のパンツ。胸元には、銀のクランエンブレムが煌めいている。
中級クラン《ヴァルグラン》副リーダー、尾上卓也。
浅倉は視線を男に向ける。怒りとも、屈辱ともつかぬ感情が胸を焦がしている。
──なぜ、あの場で負けたのか。
思い出すのも忌々しい。あの決闘の日。あの場での敗北が、すべてを変えた。
湊の、あの淡々とした眼差し。地味なユニークスキル。剣術スキルが高いというだけで、俺が勝てなかったという現実。
「いいか。俺たちは、戦力が欲しいだけだ。感情の問題じゃない」
尾上の指が、テーブルの上で小さく鳴る。背後の護衛が一歩前に出た。だが威圧の意図ではなく、何かの資料を差し出してきた。
「遠野夏希。癒糸というユニークスキル。支援・治癒両面において極めて高いポテンシャルを持つ。E級の今の時点でも、既に希少な存在だ」
書類には夏希の戦歴、スキル構成、交友関係、ギルド記録、さらには学歴まで記載されていた。
浅倉は無言のまま、手元の資料に目を落とす。
──癒糸、ヒール、ブースト。
いずれも支援寄りのスキル構成。戦線維持能力に長けている。中級以上のクランにとって、補助スキルは高く評価される。火力職と違い、替えが利かないからだ。
「支援と治癒の両方に長けているスキル持ちの冒険者は、周りで確認されている中でも十数名程度。うち、冒険者を継続しているのは半分以下だ」
尾上は続けた。
「我々としては、是が非でも味方に引き入れたい。──だが、本人は既にチームを組んでいる」
「……神谷湊」
浅倉はようやく口を開いた。苦々しげな声音だった。
「剣術が多少できるだけの地味男だ。どうして夏希が、あんな奴を」
「理由を問うな。それが感情だ」
尾上の目が細くなる。表情にほとんど感情はなかった。ただ、無慈悲な合理性がそこにあった。
「お前は、遠野夏希と同じ訓練コースだった。少しの接点はある。……お前を通じて彼女に接触するのが、もっとも自然で、もっとも制約が少ない手段だが、どうだ?」
「……あの女、俺のことは眼中にない。」
「……では我々のクランから、澪を使う。斥候職、暗殺系スキルの持ち主。あの男のパーティーに食い込ませる」
「……なるほど」
浅倉が苦笑する。
「スパイってわけですか」
「その通り。澪は善人だが、事情がある。……我々は、彼女の弱みを握っている」
尾上が指でテーブルを叩くと、背後の男がもう一枚、ファイルを差し出してきた。
そこには、澪の個人情報とともに、「親族の借金」「債権者リスト」などの文字が並んでいた。
「彼女を使い、湊たちを罠に嵌める。最終的には、遠野夏希が“居場所を失う”状況を作り出す。──そのとき、我々が“救いの手”を差し伸べればいい」
「……強引ですね」
「だが、効果はある」
尾上は静かに言った。
「君は神谷湊を憎んでいる。遠野夏希を奪われたと思っている。──ならば、協力しろ。すべては回って、君に返ってくる」
沈黙が落ちた。
やがて、浅倉は息を吐きながら言った。
「……分かりました。あいつには、なんとしても一泡吹かせたい」
「それでこそ」
尾上が薄く笑った。
***
二日後の深夜、澪はとある路地裏のカフェに呼び出されていた。
閉店後の店内は、明かりが消え、ガラス越しにネオンサインの色だけがぼんやりと映っている。店の奥、観葉植物の影に、尾上が立っていた。
「来たか。座れ」
澪は無言で頷き、椅子に腰を下ろした。
「君の親族が抱えている借金については、すでに調査済みだ」
尾上は早速本題に入った。手元のタブレットを操作し、澪にスクリーンを向ける。そこには「負債総額:一千三百万円」の文字が踊っていた。名義人は澪の父親。地方の零細企業の社長だったが、数年前に倒産し、借金だけが残った。
「これは“提案”なんだが……」
尾上は穏やかに笑った。だが、その笑みに情はない。
「我々がこの債権を買い取った。君の家族に対して、返済を迫るつもりはない。代わりに──君には、一時的にクランを離れ、別の任務についてもらう」
「……任務?」
「E級の新人チームに加入してほしい。神谷湊、遠野夏希という二人だけのチームだ。君の斥候スキルと暗殺系のユニークスキルは、彼らの今の構成に不足している。受け入れられるのは間違いない」
「……何をさせるつもり?」
澪の声は、驚くほど冷静だった。尾上はただ静かに続けた。
「最終的な目的は、神谷湊を排除し、遠野夏希を我々のクランに加入させること。君の役割は、まず内部からの情報提供だ。戦術、行動傾向、スキルの詳細……可能な限り収集しろ」
「スキルの詳細は……教え合わないのが普通」
「奴らはまだ初級冒険者だ。しかも如何にも甘そうな性格をしている。パーティーに加入すれば問題なくスキル情報が開示されるだろう。それに、情報とは、言葉だけではない。気配の揺らぎ、動きの癖、行動の反復……全てを探れ」
澪は黙り込んだ。長いまつ毛が伏せられ、その表情は読み取れなかった。
尾上はテーブルの下から、書類とUSBスティックを取り出し、彼女の前に置いた。
「これは、最終段階の作戦だ」
「……最終作戦?」
「E級ダンジョン内に設置された旧式の転送装置がある。まだ正式なマッピングに載っていない場所だ」
USBの中には、ダンジョンの未公開ルートの詳細な図面と、転送装置の設置位置が記されているらしい。
「これを使って、神谷湊たちを孤立させる。場所は第四層。下手をすれば──」
「死ぬかもしれない」
尾上は口元を歪めた。
「だからこそ、君は“止めた”という形を取ることも許す。『私も知らなかった』『気づいたときにはもう遅かった』──そう言えばいい。我々も手は出さない。魔物が彼らを襲うだけだ」
「……」
澪の瞳が、鋭く尾上を射抜いた。
だが尾上は動じない。
「そうすれば、君は家族を守れる。……君が沈黙を守り、任務を果たせば、家には督促一つ届かない」
「もし……拒否したら?」
「それでもいい。すぐにでも債権は他の回収業者に譲る。我々の手を離れたら、もう“融通”は利かない」
静かな脅しだった。だが、そこには非情な現実の重みがあった。
澪は、しばらく俯いたまま動かなかった。
──家を、守りたい。
それだけだった。冒険者になったのも、そのためだった。ただ、入ったクランが悪かった。
人を裏切ることが、家族を守る手段だというなら……
「分かった。受ける」
その言葉は、掠れるように小さな声だった。
「ただし、私は……命までは奪わない」
尾上の目が細くなる。
「好きにしろ。奴らが生きて帰れるかは──運次第だ」
澪がカフェを去ったあと、尾上はその場に残っていたもう一人の男に視線を向けた。
「……どうだった?お前の目から見て」
壁際にいたのは浅倉だった。フードを被っていたが、その下の表情には、どこか苛立ちの色が滲んでいる。
「チョロいですね、あの女。借金ちらつかせりゃ黙って従う。つまんねえくらいに単純だ」
「だが“役目”は果たすさ。あの性格じゃ、良心が邪魔して完全に従順とはいかんだろうが……肝心なのは、罠に誘導するまでだ」
尾上は涼しい顔でそう言い、指先でグラスを弾く。
「神谷湊ってガキ、あれが厄介なんだろ? 剣術Lv4は、なかなかE級では突出している」
「まあ。地味な野郎ですけど」
スキルのレベルというのは、単に戦いの多寡で上がるものではない。経験値、技術、実戦を通して蓄積された“本物の力”の証だ。
新人冒険者でLv4──極めて稀だった。
「……普通なら手出しを避けるレベルだな」
「だからこそ、です」
浅倉の目が細くなる。嫉妬と屈辱。決闘での敗北、夏希の拒絶、それらすべてを裏返すような鋭い視線。
「あいつを潰す。あの女も、全部まとめて叩き潰す」
「……執着深いな、お前も」
「そっちだって、夏希を手に入れたいんでしょ?」
尾上は肩をすくめた。
「俺じゃない。リーダーの蛇島だ」
「あいつの狙いは、“ヒール強化系”のユニークスキル持ちを戦術中核に加えることだ。うちは、支援職を上手く“使う”ことで戦術を安定させている。だが、肝心の支援職の人材が圧倒的に足りていない。《癒糸》というスキル、バフ性能も高くてかなり貴重だ」
「確かに、支援してるだけなのに前線が妙に硬くなる。回復も地味に効いてくるし」
「だから遠野夏希を奪う。それが蛇島の目的。そしてお前の復讐も果たせる、一石二鳥だ」
尾上は淡々と話しながら、テーブルの上に転送装置の構造図を広げる。
「問題は、罠が作動する“座標”だ。E級ダンジョン、第三支路の先──ここに設置された旧式の転送陣を使う。特別な仕掛けではない。スイッチを踏ませれば、それで終わり」
「仕掛けの場所は……」
「澪に渡した。彼女の仕事は、連中をそこに“自然に”導くこと。それができれば、あとは時間の問題だ」
浅倉は口の端を吊り上げた。
「転送された先には?」
「我々が待ち構えている。やつらは所詮E級になりたて。しかも前衛が1人だけ。うちのD級2人とお前の3人で囲めば問題ないだろう。遠野夏希は生かして連れてきてもらう必要があるが、そこさえ守ればあとは好きにしろ。加えて魔物もいる。あとは……澪がどこまで“敵”でいられるかだな」
「裏切られても、今さら助けは来ない」
「そう。神谷湊も遠野夏希も、いい子ちゃん過ぎる」
尾上は、グラスを傾ける。
「人を信じ過ぎる連中は──いずれ壊れる」
浅倉は小さく笑った。
「……そうなるのが、今から楽しみで仕方ないですよ」
***
地下カフェを出た澪は、しばらく夜の路地を歩いていた。
街灯の光は明るすぎず、騒がしすぎず、しかし心の中のざわつきを癒すには足りなかった。
手に握らされたUSB──転送陣の構造図——と、クランからの命令書。
『湊神谷と夏希遠野を、第三支路の指定位置へ誘導せよ。転送起動まで立ち会い、以後は離脱可。』
簡潔で、逃げ道のない文面。どこにも、彼らの命の保証など書かれていない。
「……どうして、私が……」
澪は独り言のように呟いた。
親の借金。背負わされた莫大な負債を返すために、ヴァルグランの命令には従わざるを得ない。
けれど。
「もう、戻れないのかな……」
澪は少しだけ、頬に触れた風の冷たさに目を閉じた。
ヴァルグランの命令通りに動けば、家族は守られる。借金も実質的には消える。自分の責任は果たせる。
でも、それでいいのか?
人を裏切って、傷つけて、命の危機に晒して──そんな形でしか、自分の人生は選べないの?
街の喧騒が徐々に遠ざかり、澪は小さな橋の欄干にもたれて立ち尽くしていた。
「……ごめんなさい」
澪は、握りしめていた命令書を強く、指に食い込ませた。
その時、背後から足音が近づく。
「よお、久城澪」
振り返ると、浅倉がいた。さきほどのカフェで別れたはずの男。
「……何の用」
澪は冷たく問い返した。
浅倉は片手をポケットに突っ込んだまま、肩をすくめる。
「念押しに来ただけさ。忘れんなよ。お前が失敗したら、あの家──全部売られるんだぜ」
「……っ」
「親父さんの骨董品、いくらになるか楽しみだな。お前の兄貴も、いいとこに勤めてるみたいじゃん。差し押さえが入ったらどうなるかな」
澪の手が震える。
「……やるよ」
唇を噛みしめ、言った。
「言われた通りにする……だから、これ以上、家族に……」
「いい子だ」
浅倉は背を向け、手をひらひらと振って去っていく。
その背中に、澪は言葉をかけることができなかった。
ただ、夜風に吹かれながら、指先に残る紙の感触を噛みしめる。
「……こんなはずじゃ、なかったのに」
夜空は曇っていた。
星の見えない空の下、澪の小さな祈りは、まだ言葉にならずに胸の奥で凍りついていた。




