第13話 E級昇格
調布第七迷宮の入り口を前に、湊は深く息を吸った。春の終わりを告げるような風が吹き、街路樹の葉がさらさらと鳴る。
これで、五回目。
初めて夏希と共に潜ってから、ほぼ間を空けずに挑み続けてきたF級ダンジョンも、いよいよ大詰めだった。
「今日こそ、ホブゴブリンのところまで行こうね」
隣で夏希が軽く笑いながら言う。冒険服の上から装着された軽装の防具はすっかり身体に馴染み、髪も邪魔にならないように後ろでひとつにまとめられていた。
「ああ。最短でクリアして、次に進む」
湊は短く返すと、肩にかけたショートソードの柄を確かめるように握った。
五回目の挑戦とはいえ、緊張がないわけではなかった。ホブゴブリンはF級の中でも明確な“壁”として扱われる存在であり、攻撃力・耐久力共に単なる雑魚のゴブリンとは格が違う。
だが、恐れはなかった。
リピートの使用感にも慣れ、型の精度は確実に向上している。夏希の《癒糸》も実戦での使いどころが定まり、支援として機能し始めていた。
二人はギルドの受付で探索申請を済ませ、慣れた足取りで迷宮へと入っていく。
静かな洞窟のような空間。天然の岩壁に埋め込まれた発光石が、微かに通路を照らしていた。
第一層――
すでに見慣れた地形だ。軽く警戒をしつつ、出現した単体のゴブリンを湊が処理。リピートによる強化はまだ感じづらいが、型の完成度が高くなっているのは実感としてある。
「前より早く倒せたね」
「ゴブリンが弱すぎるだけだろ」
そう言いつつ、湊の剣筋は以前より鋭くなっていた。夏希の癒糸も戦闘前に巻かれており、筋力や反応速度を微弱ながら補強してくれている。
第二層――
ここでは複数体のゴブリンがまとまって出現する。だが、湊は慌てない。複数の敵を想定した型の反復を何度も繰り返していた。
「夏希、右から二体、バフ優先」
「了解!」
癒糸が素早く絡まり、湊の身体能力がさらに一段階引き上げられる。斜めから飛びかかってきたゴブリンを一太刀で薙ぎ払うと、体勢を崩さず連続斬りに移行。リピートの補正は徐々に積み重なり、湊の剣撃は鋭さを増していく。
「よし、二層終了」
「やっぱり安定してるね、最近」
「次が本番だ」
第三層――
ついに、ホブゴブリンが待ち受ける階層に到達した。
広間のように開けた空間。床は踏みならされた土で構成され、中央には黒鉄の棍棒を持つ大型のゴブリン――ホブゴブリンが鎮座していた。
「……でかいな」
湊が小さく息を吐く。
身長は優に二メートルを超え、全身の筋肉は岩のように膨れ上がっている。F級とは思えぬ威圧感だ。
「でも、勝てるよ。私たちなら」
夏希が静かに言った。湊も頷く。
「行くぞ。初手から全力で行く」
湊が剣を構え、ホブゴブリンの懐に踏み込んだ。
──戦いの幕は切って落とされた。
ホブゴブリンは巨体に似合わぬ俊敏さで、湊の初撃を難なく受け止めた。
ごう、と風を切って振り下ろされた棍棒。それを湊は最小限の動きでかわす。側頭部を狙う鋭い一撃は紙一重で掠め、湊の髪が風圧に揺れる。
「っ、速い……!」
夏希が即座に癒糸を湊の四肢に展開する。繊細な魔力の糸が体の軌道を整え、わずかに反応速度を補う。
「ブースト!」
「助かる!」
湊はそのまま地を滑るようにホブゴブリンの側面へと回り込み、斬撃を叩き込む。
──だが、浅い。
敵の皮膚は異様に硬く、斬撃が深く入らない。棍棒で反撃に出てくるホブゴブリンを、湊は再び半歩でかわし、離脱。
「夏希、バフもう一段階!」
「分かった!再強化するね!」
癒糸が重なり、湊の反応がまた一段階鋭くなる。呼吸、視線、重心、すべてが最適化されていくのが自分でもわかる。
だが、ホブゴブリンの猛攻も止まらなかった。
──ぐああああッ!
雄叫びとともに棍棒を振るい、周囲の土を吹き飛ばすほどの力を見せる。湊はぎりぎりのタイミングで回避を繰り返すが、一撃でももらえば吹き飛ばされかねない。
(……こいつ、これでF級なのか?)
本能が警鐘を鳴らす。
だが、湊は剣を構え直すと、静かに深呼吸した。
《反復》。
繰り返すことで力を増すスキル。今の自分の剣術は、その補正によって完成へと近づいている。
湊は型を一つ深く意識して踏み込む。
一撃目――左の太ももを斬る。
二撃目――右肩へ切り上げる。
三撃目――腹部への水平斬り。
これまでに何十回と練習し、実戦でも何度も繰り返してきた基本三連型。
ホブゴブリンの攻撃を回避しきれず、蓄積がリセットされることもあったが、ようやくリピートの補正が15%まで積み重ったころ――湊の剣はついにホブゴブリンの筋肉を断ち切る鋭さに達していた。
「っ、通った……!」
ホブゴブリンが咆哮を上げ、棍棒を振り上げる。返す刀で湊はその肘を斬りつけるが、ダメージは浅い。腕力は衰えず、彼の背後から唸りを上げて重い一撃が襲いかかる。
その瞬間。
「《ヒール》!」
夏希の詠唱が空気を震わせた。
足元から回復魔法の光が走り、湊の消耗した筋肉を瞬間的に癒す。同時に癒糸が関節の動きをサポートし、回避動作の精度を高めた。
棍棒は、ほんのわずかに湊の頭上を通過した。
「助かった!」
「まだ回復余裕あるよ!」
湊は勢いをそのままに、ホブゴブリンの右脚へと滑り込むように接近し、渾身の斬撃を放った。
──ザンッ!
鈍い音とともに、ホブゴブリンの膝が崩れた。膝の腱を斬ったことで、巨体がわずかにぐらつく。
「今だ!」
湊は地面を蹴り、ホブゴブリンの胸部に跳び上がる。
剣を振りかぶる。
型は基本型、首筋への垂直斬撃。
──ズン。
振り下ろされた剣が、ついにホブゴブリンの急所を捉えた。
「……よし」
巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
湊は着地と同時に息を吐き、汗をぬぐった。
夏希もその場に膝をつき、安堵の笑みを浮かべる。
「……勝った、ね」
「……ああ。これで、F級クリアか」
二人の目の前で、ホブゴブリンが蒸発するように消滅し、代わりに銀色のアクセサリが地面に残された。
「これは……指輪?」
「魔力反応あるね。」
小さな銀のリングには、簡易的な魔力刻印が施されていた。効果は《集中力上昇(小)》。
おそらく夏希のような詠唱・補助を行う支援職に適した装備品だ。
「これは夏希が付けるべきだな」
「……いいの?ありがとう。」
夏希は嬉しそうに頷き、ほんの一瞬だけ、その指を湊に差しだそうとした。
だが、そのまま手のひらを返し指輪を受け取り、自分で指にリングを通した。
ダンジョンの空気が静かに鎮まり、通路の奥へと続くゲートが開かれる。
湊たちはホブゴブリンの残骸が消えた後、開かれた扉の奥へと進んでいた。
ダンジョンには、正式な踏破者向けの帰還通路が設けられており、三層の最奥には緩やかなスロープ状の転送陣が設置されていた。
その床に立った瞬間、視界が一瞬白く染まり、次に目を開けた時には、彼らはダンジョン入口に併設された帰還区画に立っていた。
「転送、成功……か」
「うん……はあー、緊張した!」
夏希が思いきり背伸びをしながら、座り込むようにして崩れる。湊もそれを見て、軽く笑った。
「けっこうギリギリだったな。あいつ、普通に強かった」
「だよね!最初の一撃、見た?あれ、避けなかったら絶対やられてたよ……」
「いや、ほんとに。……夏希の補助がなかったら、たぶん勝てなかった」
「ふふっ……ありがと。私も、湊くんの剣に合わせやすかったよ。ずっと後ろから見てたから、分かる」
一瞬の沈黙が流れたが、それはどこか心地よいものだった。
やがて、夏希が立ち上がり、ギルドカウンターの方を指差した。
「さて、報告しよっか。これで、いよいよ……」
「E級か」
二人は、まだ実感のわかないその言葉を噛みしめるように口にした。
ギルド支部の報告窓口では、普段よりもやや年配の職員が応対にあたっていた。F級ダンジョンの踏破報告は、新人枠から卒業する儀式のようなものでもあり、簡易な実績審査が同時に行われる。
「ホブゴブリン討伐を確認。第七迷宮、踏破ですね」
「はい」
湊が淡々と答えると、職員が少しだけ頷いた。
「ではお二人には正式に“E級冒険者”の認定が下されます。おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
夏希が元気よく返し、湊も小さく頭を下げる。
認定処理は淡々と進み、E級冒険者証の交付がその場で行われた。
「本日より、お二人は独立したE級冒険者としての活動が可能となります。F級向けの同行講習や講師の補助はもちろん不要です。単独探索・素材換金・依頼受注が認められます」
「素材の換金もですか?」
湊の問いに職員は頷いた。
「はい。F級まではギルド管理の安全重視でしたが、E級以上では持ち帰り素材の換金が可能になります。価格はギルドの査定によって決まりますが、ある程度の目利きも必要ですよ」
「なるほど……」
夏希がやや難しい顔をして頷く。湊はむしろ、そこに関心を示している様子だった。
「あと……報酬って、どれくらいになるんでしょうか」
「正直、E級では一日に一回ダンジョンに潜ればなんとか生活はできるといったところでしょうか。」
「なるほど……」
つまり、冒険者で食べていけるかどうかの境界線が、ここにあるということだ。
「依頼については、追って一覧が出ます。E級になったとはいえ、最初は安全な任務からのスタートになりますから」
そう言って職員は、二人に薄い依頼書の束を手渡した。
「……ありがとうございます」
湊が小声でそう言い、夏希と顔を見合わせた。
「……とりあえず、ここからがスタートだね」
「だな。やっと、一区切り」
ふたりはスキルカードと認定証を手に、ギルドを後にした。
外に出ると、夕方の光が街を赤く染めていた。
昇級の実感はまだ曖昧だったが、それでも胸の奥に、確かな“変化”が灯っていた。
***
ギルドの階段を降り、湊と夏希は並んで歩いていた。
道行く人々の中には、彼らと同じようにE級認定証を手にして喜んでいる冒険者の姿もちらほら見えた。
「……E級か」
湊がぽつりと呟くと、夏希が横から覗き込むように顔を向けた。
「湊くん、なんか実感ない?」
「まあな。思ったより、あっさりだった」
「あれだけ苦労して、やっとホブゴブリン倒したのに?」
「……あいつ、強かったけどさ。なんだろ、終わってみたら“もう終わりか”って」
夏希はくすっと笑った。
「それ、ちょっと分かる。たぶん、もう次のこと考えてるんだよ」
「次のこと、か」
湊は首を傾げつつも、その言葉に妙な納得を覚える。
確かに、今の彼の頭の中は、ホブゴブリンではなく、今後の探索や依頼のことで埋まっていた。
自分たちはどんな冒険者になれるのか。もっと強くなれるのか。
そしてこのスキル──《リピート》は、どこまで通用するのか。
「それにさ、まだお祝いしてないよ。F級クリアとE級昇格のお祝い」
「……お祝い?」
「そう!せっかくだから、甘いものでも買って帰らない?ダンジョンもクリアしたし、今日はカロリー気にしない!」
「……そうだな。じゃあ、付き合うよ」
笑いながら、湊は小さく頷いた。
***
その日の夜。夏希は自室の机に向かっていた。
手帳に今日の出来事をつらつらと書き連ねていく。
ホブゴブリンの体の動き。湊の反応速度。自分の補助の精度。
そして、戦いの最中、湊が一度だけ彼女を振り返ったあの瞬間──
「……“信頼”って、言葉だけじゃないんだな」
そう思った。
剣を構える背中から伝わってきた“安心感”は、たぶん湊の無意識が生んだものだ。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
手帳の端に、小さく“E級昇格”と書き加え、夏希はゆっくりとペンを置いた。
「……明日からも、頑張ろう」
そしてまた、湊と一緒に歩いていこう。
その距離が、今よりほんの少しでも近くなることを願いながら──
こうして、F級ダンジョンの踏破と昇級という一つの区切りを越え、
湊と夏希の冒険者としての物語は、“新人”から、本格的な“初級”という世界へと踏み出していった。




