第10話 友人と過ごす休日
都内のカフェテラスに、初夏の柔らかな日差しが差し込んでいる。通りに面したガラス張りの席で、遠野夏希はアイスティーを揺らしながら、目の前の相手に微笑んだ。
「なっちゃん、冒険者なんて正気?」
口に運んだストローを一瞬止めて、夏希は困ったように笑う。
「正気じゃなきゃできない仕事だよ」
「いやいや、そうじゃなくて……。もうさ、高校のときから言ってたじゃん。『私、将来は医療系行く』って。なのに、どうしてこうなった?」
相手はカナ。夏希と同じ高校出身で、今は某私立医大に通っている。背筋の伸びた才女で、成績もよく、家も裕福。夏希とは昔から正反対のタイプと言われていたが、不思議とウマが合った。
「実家、めっちゃ怒ったんじゃない?」
「そりゃ、まあ……」
夏希はスプーンでアイスをすくいながら答える。その仕草は、どこか控えめで優雅だった。
「母は泣いたし、兄は口もきいてくれなかったよ。でも、私は冒険者の道を選んだこと、後悔してない」
「こわっ、信念あるタイプか……」
「うーん、信念というより、覚悟かな」
カナがわざとらしくため息をつく。「まじで正気じゃないわ」と言いながら、どこか羨ましそうに見えるのは気のせいではない。
「でもさ、冒険者って言っても、どんなことしてるの?危険なんじゃないの?」
「まだF級だから、大したことないよ。小型のゴブリン倒したり、素材集めしたり。危険はあるけど……楽しいよ」
「ふーん……で、そのパートナーの子は?一緒にやってるって言ってたじゃん?」
夏希の手がピクリと止まる。話題が来た。
「……うん、湊くん。大学休学して冒険者やってる子」
「え、それってつまり、男の子?」
「そうだけど」
「へえぇ〜〜〜〜?」
カナがニヤリと笑う。その表情に夏希が赤くなる。
「いや、別にほんとそういうんじゃなくて! ほんとに、普通にパーティー組んでるだけだし!」
「なっちゃん、今“ほんと”って2回言ったよ」
「えっ、言ってない……と思う」
「言ったー!」
テーブルの向こうから突っ込まれて、夏希は顔を覆うように両手で頬を押さえた。赤みが引かない。
「もう……からかわないでよ」
「ごめんごめん。でも、表情でバレてるからね。気づいてないの、なっちゃんだけだよ」
「……気づいてるかも」
ポツリとつぶやいたその一言に、カナの目が一瞬見開かれる。
「なっちゃんが、そういうふうに言うの、初めて聞いたかも」
「私も初めて思ったかも」
夏希は少し寂しそうに笑った。けれど、その奥にほんのわずかに灯ったものを、カナは見逃さなかった。
「そっか。……うん、いいじゃん。新しいことに飛び込んだんだし、恋も新しい世界でしてみなよ」
「うーん、どうなるかな……」
夏希は窓の外に目をやる。通り過ぎていく人々の中に、湊の姿を探してしまいそうになる。
(私、あの人の隣に立ちたいって、思ってるのかな)
胸の奥が、不思議とあたたかかった。
その日の午後、夏希とカナは昔ながらの小さな雑貨屋を覗いたり、路地裏の古本カフェに入ったりと、いつも通りの休日を過ごしていた。
「なっちゃん、これ覚えてる?」
古本屋の一角で、カナが手にしたのは、かつて二人で愛読していた児童向けの冒険小説だった。
「懐かしい……。授業中、隠れて読んでたよね」
「先生に没収されて泣いたなっちゃんが、すぐまた同じの買ってきてて笑った」
「本は冒険だったから」
そう言った夏希の言葉に、カナはふっと何かを思ったような顔をした。
「……だから、冒険者になったの?」
「それもあるかも。でも、一番は──」
夏希は言葉を選びながら、指先で古本の背表紙を撫でる。
「“机の上だけじゃ、救えない人がいる”って気づいたから」
それは、誰にも話したことのない、彼女の本心だった。
中学生のころ、友人が突発的な病に倒れた。救急搬送された病院で、母親と兄が手配した最先端の医療が奇跡的に間に合った。
でも、夏希は何もできなかった。そばにいることすら許されなかった。
「医学の知識はすごい。人を救う。でも、現場にいる“手”がなきゃ、その力は届かない」
だからこそ、夏希は“癒す力”を、自分の手に宿すことを選んだ。
「今はまだF級だけど、いずれもっと上に行って……どんな状況でも、目の前の人を助けられるようになりたい」
言い切ったあと、夏希ははにかむように微笑んだ。
「湊くんみたいな人が、そばにいてくれるなら、きっとできると思う」
その名前に、カナが軽く目を丸くした。
「……やっぱり、好きなんじゃん」
「え、今の流れでそこ!?」
「だって言い方がもう、完全に信頼+好意じゃん。ていうかさ、今の私の話、絶対“湊くん”って単語で塗りつぶされたから」
「うわ、ひどい分析……」
そう言いながらも、夏希の顔はほんのり紅潮していた。顔を覆いたくなるほどの自覚が、ようやく芽生えている。
「でも、気になることもあるんだ」
夏希はふと、表情を引き締める。
「彼、たまにすごく遠くを見る目をするの」
「遠く?」
「なんていうか……誰にも踏み込ませないような、孤独な感じ。だから、私なんかが踏み込んでもいいのかなって」
カナは軽く肩をすくめた。
「むしろ、なっちゃんだから踏み込めるんじゃないの? その距離感、大事にしなよ」
その言葉は、夏希の胸に静かに落ちた。
そうして二人は、買った本を紙袋に詰め、古い路地を抜けて帰路へと向かっていった。
途中、ひとつだけ寄り道をする。
それは、彼女がたまに立ち寄る小さな神社。
境内の片隅、錆びた狛犬の前で立ち止まり、夏希は手を合わせた。
「どうか、あの人が無事でありますように」
誰に教えられたわけでもない、ささやかな祈りだった。
彼のことを、もっと知りたい。
彼の隣に、もう少し近づきたい。
その願いが、彼女の中で確かな形になり始めていた。
***
次の日、夏希はギルドの一角にある訓練場で自主練をしていた。
癒糸の練度を上げるために、静的な操作と動的な発動を繰り返す。魔力糸を指先から伸ばし、対象に絡めて回復を与える練習。空気の揺らぎを感じながら、集中を深めていく。
「……うん、少しだけ、早くなったかな」
魔力の回転効率も良くなってきた。
そこへ、訓練場にひとりの青年が入ってくる。
湊だった。
彼は、いつものように静かに場の隅を選び、剣を構えた。誰に見せるでもなく、ただ黙々と基本の型を打ち込んでいく。
──一打一打が、美しい。
規則的に並ぶ足運び、ぶれない視線、迷いのない間合いと動き。誰よりも静かに、誰よりも鋭く、研ぎ澄まされた剣だった。
(すごい……)
夏希は訓練の手を止め、しばし見惚れるようにその姿を見つめていた。
湊は周囲に無関心なように見えて、実は誰よりも細やかに場を読んでいる。
戦いの最中に、彼女の癒糸を補強するように動いたり、魔力のリズムに呼応するように剣を振るったり。
(あの人と一緒にいると、自分も強くなれる気がする)
そのときだった。
「遠野夏希さん、ですよね?」
背後から声をかけられ、夏希は振り向いた。
訓練場の受付スタッフと、見慣れぬ男性が立っている。男性は明らかに冒険者ではなく、どこかスーツのようなきちんとした服装をしていた。
「はい。……あの、何か?」
「実はですね、夏希さん。あなたのスキル《癒糸》について、上層部でちょっと話が出まして」
「上層部?」
「ええ。現在、医療班とサポート班の再編が進んでまして。もしよければ、Bランクの治療部隊への配属も検討されているのですが……ご興味はありますか?」
夏希は目を瞬いた。
Bランク。自分とは縁のない、はるか遠くにあると思っていた高位の世界。
「……でも、私はFランクの新人で……」
「それは関係ありません。あなたの《癒糸》は、既存の支援系スキルとは一線を画しています。ギルド側としても、早期に適性配置することで成長を促したいと考えているのです」
それは、誉め言葉だった。けれど、同時に夏希の心をかき乱す響きもあった。
──それは、湊と離れることを意味する。
Bランクの治療部隊に移れば、彼とは別の階層、別のルートを歩むことになる。今のように、隣で戦うことはなくなるかもしれない。
「……少し、考えさせてください」
「もちろん。正式な要請ではありませんので」
丁寧に頭を下げると、スーツの男は立ち去っていった。
湊の剣は、変わらず静かに振るわれていた。
──迷っている場合じゃない。
けれど、胸の奥に去来するものを、夏希はまだ整理しきれなかった。
***
その夜、夏希は珍しく眠れなかった。
自室の窓から見える都会の夜景は、どこまでも冷たく、遠い。肩まで掛けたブランケットを抱きしめるようにして、彼女はソファに身を沈めていた。
湊と冒険に出た日々。
癒糸が役に立ったときの彼の笑顔。
決闘で見せた冷静沈着な剣技。
そして、自分のことを何も問わず、ただ隣にいてくれる優しさ。
──あの人と、もっと一緒にいたい。
気づけば、そんな感情が確かに根を張っていた。
冒険者登録の時点では、彼はただの“講習の隣の席の人”に過ぎなかった。
けれど、ダンジョンに入って初めて見た彼の背中。剣を振るいながらも、こちらを信頼し、任せてくれる姿。
そのすべてが、夏希の中に“異性としての意識”を生み出していた。
──たぶん、私は恋をしている。
自分の感情に、ようやく名前を付けることができた。
翌朝、夏希は小さく伸びをして、服を整えると、再びギルドの訓練場へ向かった。
湊は、すでにいた。
一つ一つの型を丁寧に繰り返すその姿は、昨日と変わらないはずなのに、どこか違って見えた。
夏希は歩み寄り、そっと声をかける。
「湊くん、おはよう」
「……おはよう」
彼は微かに笑った。朝の光が、その表情を柔らかく照らしていた。
「昨日のこと、ちょっと話してもいい?」
「昨日?」
「訓練のあと、ギルドの人に声かけられてさ。支援班に移籍しないかって……Bランクの医療チームに」
湊の動きが、わずかに止まる。
「すごいな、それ」
「うん、でも……断った」
「なんで」
夏希は静かに答える。
「今はまだ、私、目の前の人をちゃんと助けたい。ちゃんと戦って、ちゃんと支えて、ちゃんと守りたい」
彼女の声は、揺れていなかった。
「それに、今のパーティがすごく大事だから」
湊はしばし黙り、やがて言った。
「……そうか」
「うん」
「ありがとう」
それは、どちらともなく言葉を交わした、ささやかな約束だった。
まだお互いのすべてを知っているわけじゃない。
けれど、心の奥に灯った小さな火が、少しずつ確かなものになっていく。




