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熱狂に包まれたコロシアムの中、俺様は砂の大地に降臨する。
司会の男を消し、変わるように大猪が巨体を揺らし迫ってくる。
獰猛な牙が、鎖を引きちぎる怪力が、その大きさが、俺を威圧する。
だが、そんな程度では怯まない。
巨人でも、竜でも、悪魔でもない。
所詮、たかが獣。
守護神と呼ばれる俺様の相手じゃない。
小指一本でも倒せる相手を前に、俺様は余裕の笑みを浮かべた。
俺様の表情が癪に障ったのか、大猪は耳を塞ぎたくなる程の大きな声を出す。
肉に飢えた獣のように一直線に迫り来る大猪を前に、俺様は黄金に煌めく大振りの剣を生み出した。
常人では持つ事の出来ない重さだが、俺様は片手で扱える上に、鉄さえも紙を切るようにスッパリと正確無比に切り刻める。
自分の背丈程ある、巨大な剣を軽々と肩に置き、
「いくぜ、クソイノシシ! でりゃああああああああああ! 奥義! ファニマ・アニマ!!」
観客へのアピールの為にダサい掛け声を出す。
大歓声の中、俺様は大剣を振り被り、突進してきた大猪の頭蓋目掛け振り下ろした。
肉を掻き分ける剣の感触は一瞬で過ぎ去り、大猪を縦に二つに分け、切られた事にも気付かないまま、大猪はズシリと体を倒れた。
「リャクシェロン! リャクシェロン! リャクシェロン!」
歓声という名の雨が、俺様に降り注ぐ。
俺様は両手の拳を突き上げ雄叫びを上げる。
「この世全ての異能を得た、この俺様に、敵はいないぃぃぃ!」
「金も女も命さえも、思うがまま! 誰も俺様の歩みを止めることは出来ないのだァァァ!」
「ダァーハッハッハッハ!!」
暑苦しい太陽を雲で隠し、シャワーのように雨を降らせる。
俺様は、その雨を金にお菓子に、風船に変化させる。
それもこれも、凡ゆる異能を持っているが故。
永久不滅の俺様だけの特権。
「リャクシェロン様! 後ろ!」
「あぁん?」
聞き覚えのある声が急に耳の中に入り、咄嗟に振り返る。
目の前に広がっていたのは暗闇へと続く赤。
生温かい液体を纏った生気を感じる半円と、それを彩る不揃いの白い四角。
頭脳を素早く回転させ、辿り着いた答え。
「口?」
それは今、真っ二つに引き裂いたはずの大猪の口。
その正体を察したが、既に時遅し。
為す術もなく、体は大猪の口に吸い込まれた。
◇
「うぉぉぉっ!」
大きな歯に擦り潰されそうになった瞬間。
大声と共に別の景色が映し出された。
視界に広がったのは、両手を広げてもまだ余裕のあるフカフカの天蓋付きのベッド。
そして。
「リャクシェロン様?」
「……ジーン、か」
さっき俺に危険を伝えた馴染みのある声が耳に入る。
ベッド周りのカーテンが開かれ、金髪の騎士服の男が姿を見せた。
「すみません。無礼だとは思いましたが、いつまで経っても起きられぬので、お声を掛けさせていただきました」
「そうか……さっきのは夢、か」
大猪を大剣で両断したことも、観客の拍手喝采も、自身を食らった大猪の口も。
夢であり虚構。
「昨日はお疲れ様でした……しかし、まさか、大猪に突き飛ばされ気絶なされるとは……どこか、お身体の調子が悪かったのですか?」
そう、これが現実。
謎の無機質な声が脳に響いたかと思うと、次の瞬間には大猪に轢かれた。
そして、目の前の男が言うには、今は翌日。
つまり昨日の昼から今日の昼にまでかけて、眠っていたことを意味する。
そして、その普段なら起こり得る事の無い事実は、あの時無機質な声が伝えてきた言葉の意味を分からせる。
「リャクシェロン様、顔色が優れませんが、やはり何か問題でも?」
「あ、あぁ。昨日は……観客達を盛り上げようとばかり考えてたら、力を振るうのを怠っちまったみてぇだ」
「あぁなるほど、そうでしたか。そう、ですよね。リャクシェロン様は無敵であらせられますから、具合が悪い程度で、あんな獣に負けるはずがありませんよね?」
「はっ、馬鹿も休み休み言え。ウードラエッタの守護神である、この俺様があんなクソ猪如きに膝を付く訳ねぇだろうが」
訝しんでいたジーンも納得したのか、安堵した表情を浮かべる。
「次からは気をつけて下さいね。貴方様は、この国の守り神。どんな状況であろうとも敗北は許されないのです。そのことをお忘れなきよう。それでは私は、他の者に仔細を伝えてきますので、失礼致します」
そう言うと、ジーンは部屋の扉を開け出て行った。
「……」
俺様は咄嗟にベッドから飛び出し、忍足でジーンが出て行った扉に耳を当てる。
ジーンの足音が遠ざかり、何一つ音が無いことを確認する。
そして、再度ベッドに戻り、カーテンを閉める。
「あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない! この俺様が、全てのスキルを持っている、この守護神リャクシェロン様が、異能を失ったなんて、そんなはずあるわけがねぇ!」
いつもより声を抑え、枕に向かって、思いを吐き出す。
だが、そう思うだけの理由は揃っている。
無機質な声が伝えた有効期限の意味。大猪に負けたという現実。
ベロンベロンに酔っていたとしても、寝ていたとしても、風呂に入っていたとしても、あの程度の攻撃なら、俺様の異能が俺を守るはず。
なのに気絶したということは、異能が使えなかったということ。
決して覆らない事実が俺様に襲い掛かる。
「……試してみるか」
躊躇気味に、恐る恐る右手に力を込める。
「【水の初級魔法】」
声に出さなくても良い、スキルの発動だったが無意識に呟いていた。
【水の初級魔法】は手の上に水の球体を生み出すスキル。
「……出ねぇ」
待っても、両手に力を込めても、水は生み出されなかった。
「おいおい、本当に俺様は異能を失っちまったってのか! クソ! 何がどうなってやがる! そんな馬鹿な話があるかよ! 異能が無きゃ、ただの人になっちまうじゃねぇか!」
この世全てが敵に回ったような感覚に愕然とする。
到底受け入れることが出来ず、その後もいくつかのスキルを試したが、何一つとして特殊な力は現れなかった。
「いや、待てよ。スキルを失ったのに、なんで俺は生きていられる。普通なら、あの大猪に突き飛ばされたら無傷とはいかないはず……もしかして、【身体強化】のスキルは残ってる?」
思い出したのは、もう一つの事実。
スキルが無いという前提なら、只の人に堕ちた俺様があの大猪の攻撃を受けて生きている理由が分からない。
「ふぅ…………【身体強化】」
大きく息を吐き出し、全神経を総動員させ、一縷の望みを発動させた。
「……ッチ! 何も起こんねぇじゃねぇぇか!」
が、結果は同じ。
枕に思い切り腕を突き立てる。
突如として力が漲る訳でもなく、鍛えることをしなければ、今ある筋肉も次第に落ちていく。
普通のことだが、俺様にとっては異常事態。
「だが、なら何故、俺は生きているんだ……【身体強化】以外のスキルが残っている? 【致命巻戻】や【超回復】等の常時発動させているスキルの可能性もあるか」
保有していた無限にも近い異能群の中には、勿論、大猪の攻撃から身を防ぐものも大量に存在する。
いくつかのスキルを失ったと理解せざるを得ない、この状況で、残ったスキルの把握は必要不可欠であったが、【不死身】を試そうにも、自傷する勇気などは無かった。
引き出しから取り出したナイフを壁に投げる。
少なくとも【溢れ出す勇気】という異能は無くなっているようだ。クソッタレ。
現実から逃げるように呆然と時を過ごしていたが、程なくして扉を何度も叩く音が耳に入ってきた。
「入れ」
「失礼致します……おや、リャクシェロン様、また眠っておられるのですか?」
「起きてはいる。今は瞑想中だ。カーテンは開けるなよ」
声から察するにジーン。
ジーンは再度カーテンを開けようとした素振りを見せたので、止めた。
今、カーテンを開けられたら、今の疲弊した表情を見られてしまう。
いつもなら、このような時も異能でポーカーフェイスを作り出していたが、今の俺様には、それすらも出来ない。
「それは失礼致しました。ただ、どうしても、お伝えせねばならないことがありまして、よろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
「王からの伝言でございます。『昨日のセレモニーの、やり直しを明日行う。今日は念の為、養生し、明日に備えるように』と」
昨日のセレモニー、つまり、それは大猪との再戦を意味する。
「なんだと!」
「ん? 何か不都合でも? お元気そうでしたので、何も問題はないと思いますが……」
不思議そうな声。
顔は見えないが、きっと俺様の言葉に困惑しているに違いない。
言っている事は、おかしいことではない。
守護神として力を民に知らしめる催し物なのだ。守護神が負けっぱなしであってはならない、という王の考えは理解できる。
普段ならの話だが。
だけど今はマズイ、今の俺様は異能を失った凡人なのだ。
あんな大猪に勝てるわけがない。
「いや、なんでもない」
そう、何度目かの嘘を吐くしか無かった。
ジーンは勿論、今いる城の中にいる者、この国に住む住人誰もが俺の異能が消失したことを知らない。
国の守護神である俺にスキルが無いことが知られれば、国がひっくり返るだろう。
「どうか、ウードラエッタの守護神として、その責務を全うして下さい」
ジーンは言葉と共に深々と頭を下げた。