予兆 Count 2
ep.5-2 予兆 Count 2
「Vooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooof!!!」
「あ~もうっ!うっさい牛!おとなしく倒れちゃえ!この牛!あんたなんかさっさと倒して、お腹いっっっっっっぱいお肉食べてやるんだから‼」
己の身丈を遥かに超える巨大な雄牛を前に、フェルネットは自らを鼓舞するように––––あるいは闘争本能に訴えかけるように––––声を張り上げるのでございました。
彼女が何故、『天の雄牛』とも呼ばれるその巨牛と対峙しているのか?
それは、スコーピオン・クイーンとの戦いの後のこと––––
「––––お師匠様。クイーン、殺しちゃったんですか?」
「いいえ。一時的に身体と魂魄を切り離しただけよ。この子は私の飲み友達だもの」
フェルネットの師であるエレシュは、壁にもたれるようにして倒れるスコーピオン・クイーンに一瞥を向けると、あくまで仮死状態である旨を告げます。
「っ!そ、それでは、女王は生きておられるのですね⁉」
「ええ。今は過剰に取り込んだお前たちの精によって肥大化しているけれど、全てを還元すれば元に戻るでしょう。……あれを見なさい」
表情を明るくさせるサソリ十一号––––サソリ人間最後の生き残り––––とは対照的に、一切の感情を窺わせない氷貌のエレシュが指し示した先。
クイーンの蠍の腹部からは、ぽこり……ぽこり……と、蜜瓜程の大きさの半透過の塊––––卵がゆっくり、ゆっくりと産み落とされていたのでございます。
「お前の兄弟、失われた生命は戻っては来ないけれど、新しい命としてまた生まれてくるわ。……全ての卵を産み終えるまでニ、三日といったところかしらね。今度はお前が兄弟たちの上に立つことになるのだから、しっかりとクイーンを支えてあげなさい」
冷淡な態度とは裏腹なエレシュの言葉に、サソリ十一号は感極まった様子で「あ、ありがとうございます!この度はなんとお礼申し上げればよいか!」と、深々と頭を下げるのでございますが……
「お礼ならフェルネットにしてあげなさい。不肖の弟子とはいえ、この子が戦っていなければ私は間に合わず、お前も取り込まれて手遅れになっていたかもしれないのだから」
膝までもある長い白銀の髪を揺らし、フェルネットへと視線を向けるエレシュ。
「––––!そうでした!大丈夫ですか、フェルネットさん⁉大分ご無理をさせてしまったようで……」
次いでフェルネットに目を向けた十一号は、驚愕に目を見張ります。
預けていたローブを返してもらい、恥ずかしそうに羽織った彼女の身体は、限界を超えた魔術の連続使用によって至る所が焼け焦げ、立っているのもやっと、といった有様だったのですから。
「あー……うん。だいじょぶだいじょぶ―。アタシもクイーンのあの態度にムカついただけだし。火傷もアタシが未熟だっただけだから」
だから気にしないで、と軽く手を揺らしながら言うフェルネットでございましたが、ふらふらになりながらも微笑を浮かべるその姿を見た十一号は、男泣きに溢れ出る熱い雫をグイ、と腕で拭うと––––
「くっ!そのようなお姿になられてまで我らのためにっ!かくなる上は我らサソリ人間、貴女様がお困りの折には何をおいても馳せ参じ、必ずやお助けすると誓いましょう!さぁ、これを!」
そう言って彼が差し出したのは、首飾りのように銀鎖の付いた、ロケット(?)のような形をした装飾品。
「……ナニコレ?」と怪訝そうな顔で受け取ったフェルネットに、十一号は––––
「そちら、ペンダントトップが笛になっておりまして。それを吹けば、笛の音を頼りに我らが即座に駆けつけ––––」
「マ〇マ大使⁉」
胸を張って説明をする十一号でございましたが、それを聞いていたフェルネットは消耗した我が身も顧みずにツッコミを入れてしまうのでございました。
––––––––––––
「……え~と、お師匠様。こちら、おみやげ、です」
「あら。ご機嫌とりだなんて、少しは賢しくなったのかしら?」
スコーピオン・クイーンの一件が終わり、クイーンの寝所に蓄えられていた『生命の水』を分けてもらって回復を済ませたフェルネットは、師の館に着くなり平伏すようにしておみやげを差し出しておりました。
「これは……お菓子?」
「あ!間違えた!そ、それは後で食べようと思ってた『超者の山』!え、えっと……あ、あった。ホントはこっちの髪留め、です」
「そう。でも、こちらのお菓子も貰っておこうかしら。食いしん坊のお前が選んだのだもの、味に間違いはないでしょう」
慌てて荷を探り、改めて本命のお土産を渡して、師の顔色を窺うようにそぉっと視線を上げるフェルネットでございましたが、あわれ彼女のおやつは取り上げられてしまうのでございました。
ちなみに、『超者の山』というのは、水の豊かなオアシスの街で作られる、水ようかんの中にぎゅうひが入ったような小判型の水生菓子で、水の貴重な砂漠地帯ではちょっとした『ごちそうお菓子』として知られるものでございます。
「まずはお茶にしましょう。ドゥムジ、お茶の用意をして頂戴」
「かしこまりました、義姉上様」
傍に控えていた、従者を兼ねる義弟は深々と一礼を執ると、お茶の準備のために下がってゆきます。
「あれ、ドゥムジさん?あの、お師匠様。妹さんは……」
「あの子なら、また私のものをねだりに来たから、反省させるためにそこで仮死状態にしているわ」
「……………………」
実の身内にも容赦のないエレシュに、ただただ慄くばかりのフェルネットでございました。
「それで––––」
小卓に着くフェルネットの対面、カップを傾けてお茶を一口飲んだエレシュは、僅かに瞳を鋭くさせると口火を切ります。
「修行が嫌だと言って––––あまつさえ封環の解除式まで勝手に持ち出して逃げ出して」
––––ビクリ!と肩を震わせるフェルネット。
「その上、自己研鑽と真理の探求が本分の魔術師であるにもかかわらず、冒険者などというやくざな稼業に身をやつし––––」
––––ビクリ!
「挙句の果てには、エロトラップダンジョンなんていかがわしい迷宮に赴いて」
––––ビクビクッ!
「自業自得にも自分の至らなさと無力さを思い知らされたお前が、一体何をしにここへ来たのかしら?」
「……お、お師匠様、全部わかってて言ってる……」
冷淡に、淡々と、けれども罪状を突きつける審問官のように連ねられる師の言葉に、蛇に呑み込まれそうなヒヨコのように身を小さくさせていたフェルネットは、たまらず呻くような声を上げます。
「当然でしょう?お前の様子は全て、その封環を通じて把握しているもの」
「うえぇっ⁉じゃ、じゃあなんで聞いたん……」
「それでも、お前の口から直接聞かなければ意味がないわ。何を、どうしたいのか。どれだけの覚悟を以て臨んでいるのか。姑息な小細工などではなく、ね」
これまでの行いも、おみやげの企みも全てお見通し。そう告げられたフェルネットは、もはや至誠をもって正直に頼み込む他にないことを悟り、座っていた椅子から床へ降りると、真っ直ぐに師を見つめ、願いとともに頭を下げるのでございました。
「アタシは、ルビィ……友達の力になりたい。みんなを守れるだけの力が欲しい!だから、お願いします、お師匠様!封環を解除する許可をください!」
––––何を言われようとも、必ず力を手に入れる。色よい返事を得られるまで何日でも頭を下げ続けてもいい。そんな思いで土下座をするフェルネットでございましたが––––
「いいわよ」
「……へ?」
思いもかけずあっさりと下された許しに、フェルネットが呆気に取られておりますと。
「だから、良いと言ったのよ。そもそもその封環は、お前の中に眠る『神吏の魔獣』を封じておくためのもの。正式に解除するには、お前が力を示し、その者を従えるしかないわ」
「マジですか⁉」
「もっとも、その力を得るための修行から逃げ出したお前に、示すだけの力があれば、だけれど」
平坦に、表情の一筋さえも変えることなく述べられる師の言葉。
けれどもその内には、為すべきことに背を向けておきながら、安易に力を求めて自分の許へ戻ってきた弟子の厚顔を咎める響きが込められているのでございました。
––––逃げ出したお前に、その資格があるのか見せて見ろ、と。
「それでも良いというなら、試練を受けさせてあげる。ただし……」
言葉を切り、優美な手つきで小卓に置かれたのは、白銀に輝く首輪。
それは、フェルネットに施されている封環と同じ意匠のもの。
「もしも失敗したなら、封環をもう一つ追加して、一から修行のやり直しね」
「ぅぐ……」
言葉を詰まらせたフェルネットは、与えられた選択肢に懊悩します。
もしも試練に失敗したなら、ルビィ達と共に行くことは叶わなくなるでしょう。
けれども、勝手に飛び出してしまった師への不義理を詫びるには、試練を受けるよりほかはなく。
「………………………………やります。試練を、受けさせて、ください」
彫像となってしまったかのような苦悩の時を経て––––その間、微動だにせず彼女を見つめていた師と瞳を合わせ––––フェルネットは決断を下したのでございます。
「……いいでしょう。では、お前はこれより六日と六夜の間、魂魄を肉体から切り離され––––」
「……え」
「魂のみとなって『神吏の魔獣』と闘い、これを打ち破りなさい」
「そ、それってどういう––––」
困惑を浮かべるフェルネットに構わず、エレシュは言葉を続けます。
「お前の内に眠るのは、旧き暴虐の天の雄牛の魂。これを従えるために、お前は等しく魂のみとなって天の雄牛の四肢を砕き、その頭を縊り取らなければならない」
「––––っ!」
「今回は、そうね……脚の一本ももぎ取ることが出来れば合格としてあげましょう。その代わり、もしも期限内に結果を出すことができなかったら、修行のやり直しよ」
「……もし、逆にアタシが負けたら……」
「お前の魂は千々に砕かれ、その身体は天の雄牛に支配されてしまうでしょうね。そうなったなら、お前の身体ごと完全に封印するしかなくなるわ。……それが嫌なら、この試練を成功させてみせることね」
そう言って冷笑を湛えたエレシュは、【死の瞳】を煌かせると––––
「さぁ、逝きなさい、フェルネット。願わくば、お前が虚勢だけの愚か者でないことを祈っているわ」
––––こうして、フェルネットの魂は肉体から切り離され、天の雄牛・グガランナとの対決に臨むこととなったのでございました。
––––––––––––
––––––––
––––
「ああもうっ!何なのコイツ!全っ然近づけないじゃん!」
試練が始まってより五日。フェルネットは攻撃の糸口すら見いだせずにおりました。
それもそのはず、神代に語られる天の雄牛とは、吐き出す鼻息一つで数十人もの人が吹き飛ばされ、一度大地を踏みしめれば、何百という人を呑み込む地割れを発生させる力を具えていた存在。
魂のみとなって、魔術を行使することも叶わないフェルネットは、激しく振動する大地に足を取られ、猛烈な嵐の如き噴気に抗いながらも、近寄る機を得ることもできずに攻めあぐねているのでございました。すると––––
『いつまで掛かっているのかしら?フェルネット』
一向に捗らない弟子の様を見かねてか、中空よりエレシュの声が響きます。
「お師匠様!だってコイツ、近づけない!」
『まったく。私はお前に、魔術師たるもの物事の本質を見極めるようにと、くどい程に教えてきたつもりなのだけれど』
駄々をこねるように叫び返すフェルネットに、あきれたように掛けられる師の言葉。
「物事の、本質……」
フェルネットの心によぎるのは、試練を前に掛けられた師の言葉。
––––等しく魂のみとなって『神吏の魔獣』と戦って……
––––その封環は、『神吏の魔獣』を封じるためのもの……
そうして改めて天の雄牛を見てみると、何かに繋がれているかのように、天の雄牛は一歩も動いてはおらず。
また、その攻撃も過去の記憶を再現するかのように、単調に決まった動きを繰り返しているのみだったのでございます。
(そっか。これ、本来の動きじゃないんだ。記憶の欠片……まるで、壊れたアカシック盤みたいに……)
威力にばかり目を奪われ、見えていなかった敵の動き。けれど、落ち着いてみれば一定のリズムで繰り返されるその攻撃に、一点の隙を見出すことが出来たのでございます。
そして投げかけられる、師よりの起爆剤の一言。
『––––早くなさい。もう、三日目あたりから仮死状態にしたはずのお前のお腹が、ぐぅぐぅと鳴ってうるさいのよ。無事に成功したら、ドゥムジがハンバーグ?とスキヤキ?を作ってあげると言っているわ』
「っ!っ‼っ!!!」
その言葉を聞くや、全身を打ち震わせたフェルネットは––––
「アタシの野生が真っ赤に燃えるぅぅぅっ!––––はいぱ―――!もぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉど!!!」
……イメージで言えば、金色の後光を背に、黒から金へと変わった髪を逆立てた状態、とでも申しましょうか。
ともかく、彼女のテンションは、最高潮に燃え上がったのでございます。
「ハンッバァァァァァァァァァァァァァァァァァァグ!」
暴風の如き敵の噴気に飛ばされないよう、身を低く構え。
「ス・キ・ヤ・キィィィィィィィィィィィィィィィィ!」
激動する大地に負けぬよう、しっかと足を踏ん張り。
「––––っ!明日は!」
そうして、じっと目を凝らして機を窺い––––
「ほぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉむらんっ‼」
噴気が止み、脚が地に打ち下ろされるまでの僅かな刹那を見極め、フェルネットはひと息に飛び掛かったのでございます。
「––––––––––––––––––––––––っここぉ‼」
前脚が打ち下ろされる瞬間、最も負担のかかる所を狙って、敵の右前脚を粉砕。
「––––モウ、いっちょー!」
続いて、勢いもそのままに巨牛の下を潜り抜け、バランスを崩して浮き上がった左後ろ脚を、逆関節に搦めとるのでございます。
「Voof!Voooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooh!」
一方、右前脚を打ち砕かれ、更に左後ろ脚に組みつかれた天の雄牛も、これ以上はさせまいと怒りの咆哮を上げ、必死にフェルネットを振り解こうと暴れ狂います。
「わっ!いたっ!こ、このぉっ!」
やたら滅法に振り回される巨牛の脚に、それでも懸命にしがみつくフェルネットは––––
(……お師匠様は、『等しく魂で』って言った。なら、魔術が使えないとか、身体の大小は関係ない。一番大事なのは、精神の強さなんだ!)
師の言葉の真意に思い至ると、目を見開き、脚を捕えるその手に更なる力を込めて。
「い・い・か・げ・ん・にぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
涎を吐き散らし、頭を振り乱して暴れる巨牛に負けじと吠え猛り。
「喰われろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」
ひと際大きく振り回された脚の勢いも利用して、渾身の力を込めたフェルネットは、遂に巨牛のその後ろ脚を折り砕くことに成功するのでございました。
––––
––––––––
––––––––––––
「……………………………………………………っ‼」
長い夢から覚めるようにフェルネットが目を開くと、そこは見慣れた師の館。
「無事に戻ってこられたようね。気分はど––––」
「スキヤキッ!ハンバーグッ!––––いたっ!」
横たえられていた寝台の上。傍らに腰掛ける師の言葉もみなまで聞かず、がばりと身を起こしてゴハンを叫ぶフェルネットの頭に、エレシュの手刀が落とされます。
「ふぅ……目覚めて第一声がソレだなんて。まぁ、お前らしいといえばらしいのだけれど」
「いてて……あ、お師匠様」
ため息交じりに零される師の呟きを聞いて、頭を押さえていたフェルネットはようやく正気を取り戻します。そして数瞬––––
「––––っ!そうだ!お師匠様、試練は⁉」
「安心なさい、合格よ。……見てみなさい」
師に促されて視線を下げると、そこには天の雄牛より折り取った脚と同じ位置、右手と左足に嵌められていた白銀の封環に代わって、牛角の意匠の施された黄金の手甲と脛当てが輝いているのでございました。
「これって……」
「それがお前に施した封環、【酔封環】の本当の姿。先に言った通り、それは本来天の雄牛を封じておくためのもの。お前がやったように無理に開封すると、お前の魂が天の雄牛に蝕まれてしまう恐れがあったのよ」
それ故の封印、お前を守るための封環だったと言うのにこのバカ弟子が!このバカ弟子が‼このバカ弟子がぁぁぁぁぁぁぁ‼という雰囲気を言外に滲ませながら、氷点下の視線をフェルネットに向けて語る東方不––––失礼、マスター・エレシュでございます。
「––––ところで、お師匠様?アタシ、なんで首輪嵌められてるの?」
ふと違和感を覚えたフェルネットが首に手を添えると、そこには硬質な手触りの首輪が。
そう、それは試練に挑む前に師が示した、白銀に輝く第六の『封環』。
「心配はいらないわ。それは、反転・解放した封環を制御するためのものだもの。もっとも、お前が天の雄牛に負けていたらその魂を封じる要となっていたものだけれど」
つまり、フェルネットが無事に試練を成功させていれば彼女の助けとなり、逆に天の雄牛に肉体を支配されたならば、その身体ごと封印する。どちらにせよ必要なものであった、とエレシュは言うのです。
「ええぇぇぇ⁉じゃあ、最初から言ってくれれば……」
「––––言ったわよ?お前が失敗すれば封印する、と。それに、どの道試練に挑むと決めた時点でソレの装着は避けられなかったのだし」
淡々と、平然と言葉を続ける師に、「うぐ……」と言葉を詰まらせてしまうフェルネットでございましたが、そんな彼女に静かな視線を送っていたエレシュは––––
「ともかく。お前は試練を乗り越えた。––––正直言って今回は、脚の一本ももぎ取れれば上出来だと思っていたけれど……よくやったわ、フェルネット」
「お師匠様……ありがとうございます!」
ここで初めて、月下に咲く真白な小花にも似た笑みを浮かべて賛辞を贈る師に、フェルネットは感謝と共に深々と頭を下げるのでございました。
––––––––––––
「よく覚えておきなさい、フェルネット。それの銘は【千物語】。いずれお前が天の雄牛を完全に従えた時、それはお前だけの魔導書になるわ。……そうしたならば、お前は卒業。一人前と認めてあげる」
「……アタシだけの……魔導書……」
熱砂の海に、燃え立つ深紅の日が沈む頃。
館の一室でエレシュと差し向かいに座っていたフェルネットは、師の言葉を噛みしめるようにその文言を繰り返します。
「そう。ただし、天の雄牛はまだ、その身体の支配権を諦めてはいない。もしもお前が主に相応しくないと判断したのなら、いつでもお前の魂を砕こうとするでしょうね。精々気をつけなさい」
「…………………………お師匠様」
師の忠告に、何事かを考え込むように押し黙っていたフェルネットは、おもむろに口を開くと––––
「……ハンバーグは……まだでしょーか」
フェルネットは、やはりフェルネットなのでございました。
「……まったく、お前ときたら。––––ドゥムジ」
「はい。支度はできております、義姉上様」
エレシュが呼びつけると、彼女の義弟兼従者の男性が、丁度湯気の昇る皿を乗せた銀盆を手に入室してきたところでございました。
「まずはこちら、ハンバーグでございます」
卓に並べられるのは、焼けた石板の上でじゅうじゅうと音を立てるハンバーグにサフランライス、それと、小鉢に盛られたみずみずしい生野菜。
「わぁい♪やったぁ!それでは、いっただっきまーす!」
満面に喜色を湛えたフェルネットが、手を合わせるなり自らの顔ほどもある肉塊にナイフを入れ、遂に念願のハンバーグをINした口元は、蕩けるような喜悦に緩んでいるのでございました。
「おいし―♪じゅーしー♪ぐっじょぶだよドゥムジさん!」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
巨大なハンバーグを瞬く間に半分ほど平らげたフェルネットの称賛にドゥムジがお辞儀を返しておりますと––––
「––––ドゥムジ。来客よ」
フェルネットの食事をとる様を見ているだけで胸やけがする、と葡萄酒のみを口にしていたエレシュが、静かに杯を置いて告げます。
「はて、このような時間に……?では、失礼して見て参ります」
「……なんか、フラグっぽいこと言ってったけど、大丈夫かなぁ(もぐもぐもぐもぐ)」
––––数分後。
「義姉上様。サソリ人間の方が先日のお礼と、後はフェルネット様にも関わりがあるやも知れぬ重大事についてお知らせしたいとのことで面会を求めておられます」
「そう。通して頂戴」
告げられた来訪者の名に、僅かに片眉を上げたエレシュが許しを与えると、ドゥムジに促されて入室してきたのは、やはりと申しましょうかサソリ十一号。
そしてその背には、彼のものとは違うほっそりとした蠍の尾がちらちらと見え隠れしております。
「––––エレシュ様におかれましてはご機嫌麗しく。まずは過日の一件、改めて御礼申し上げたく存じます」
「気にすることはないわ。あれは私にも益のあることだったのだから」
先日のようなお調子者な態度ではなく、慇懃に首を垂れる十一号に、鷹揚に応えたエレシュは更に言葉を重ねます。
「それで。お前が一緒に訪ねてきたということは、先の件に思い当たることがある、ということかしら?サヴァ」
声を掛けられ、十一号の背からおずおずと姿を現したのは、身の丈四フィートほどのサソリ人間の幼女でございました。
「……うむ。世話になったのじゃ。わらわからも礼を言わせてもらうぞ、エレシュ」
「……え~と、お師匠様。この子、誰?」
「何を言っているの?お前はこの子と闘ったのでしょう?この子はサヴァ。スコーピオン・クイーンよ」
「っえええええええええええええええええええええええええっ⁉」
そう。以前の十分の一ほどの大きさになってはいるものの、その幼女こそがフェルネットと闘った、スコーピオン・クイーンだったのでございます。
「おぬしにも迷惑をかけたのう。じゃから、これはわらわからの詫び代わりと思うて聞いてもらいたい。わらわを狂わせ、破滅に導き、わらわの身体を乗っ取ろうとした者の話じゃ」
そう言って彼女、サヴァは語り始めるのでございました。




