エールの続き
待ち焦がれた場面が訪れるのをそれとなく意識して、気が付けば熱いものが込み上げてきたりすること。日常とは言いつつも思い描いてきたものとはだいぶ開きがあって、それに慣らされるように慣れてゆくにつれ言いようのない想いが募る。数週間前に見たドキュメント、とある高校の部員数名の応援団の夏が情感たっぷりに映し出される。球場で汗だくになりながらも必死に声援を送る姿、華奢な身体で目一杯響かせていた太鼓の音は間違いなく彼らの青春を物語っていた。すっかり当てられた自分はボイストレーニング(ボーカルトレーニング)の教室に通い始めたが成果はまだまだという感じ。
焦れる夏が過ぎ、風の思わぬ冷たさに世界の別な表情を思い出させられる。そのままでは進んでゆかないものだと知ってはいるものの、賑やかだった音が涼やかな響きに変わってゆけばどうにも名残惜しくなる。通勤の間すれ違う人の様子をなんとなく確かめて静かに息をつく。いつも通りの調子で家に帰ってから夕食後、衛星放送の番組を見る。外国の街並みが映し出され、並木の間を背の高い女性がゆったりと歩いているシーン。落ち着いたBGMも、控えめな光の加減も何かを静かに受け入れるような雰囲気で印象に残った。
どこかしら香りが違う。湿度の関係なのか柔軟剤を入れて洗った洗濯物の香りが爽やかに感じられるとか、そういう話だけではなく世界から漂ってくる情感もたしかに違う。
『明日のレッスンもよろしくお願いします!』
そんなタイミングでボイトレ教室で同じグループになった少し歳の離れた年上の女性からメッセージが届く。同じ時期に教室に通い始めた人で『みんなの前で歌えるくらい歌が上手くなりたいの』と一番モチベーションは高そうで、いつも楽しそうにレッスンを受けている姿に好感を持っていた。
『よろしくお願いします!』
もう少し気の利いたメッセージを送れればとは思ったが、そのときに浮かんだままを送った。
☆☆☆☆☆☆
翌日のレッスン、その人が少し遅れて教室にやってきた。パタパタと小走りで定位置について「ごめんなさい!」と申し訳なさそうに謝ったが、みなとやかくいう人達ではない。何より明るい人柄だから笑顔で迎えられている。
トレーニングも回数を重ねたため、段々と高度なことが要求されるようになってきて『姿勢』や『声の出し方』も常に気を付けるように意識が変わっている。声量は上がったけれど歌声のピッチが安定しないのが自分の課題で、講師からは『力み過ぎ』だと伝えられている。なので例えば自宅でもストレッチを薦められたりしているが、日頃つい忘れがちになってしまう。あの女性、『高柳さん』は声量や音程というよりもリズム感に自信がないようで、課題曲がポップスだから余計に難しく感じているようだ。
その日のレッスンが終了し、教室を出て高柳さん共々ヘトヘトになる。歳は離れているけれどなんとなく馬が合うのかその後ロビーでどこが難しかっただとかの会話する。仕事ではこういう出会いは多くない方だから会話も新鮮で、世代間の交流という感覚もある。高柳さんはしみじみした様子で、
「でも、いい曲ですよねぇ」
と語る。課題曲はかなり最近のヒットソングではあるけれどメロディーも歌詞も広い世代で支持されている名曲…神曲である。
「歌詞も素晴らしいですよね。恋愛歌でもあるし、応援歌でもあるのかな」
「すっかり好きになっちゃったから毎日聴いてます。でも難しい」
ある程度話し込んでしまったのでその辺りで一度外に出ましょうと彼女に告げる。帰路の方向が途中まで一緒なのでゆっくり歩き始め、街路樹のある場所に至る。
「流石にもう蝉はいなくなっちゃいましたね。季節が変わったのを実感します」
「そう。それなの。わたし一度家を出て、途中まで来たところで服装がちょっと薄着過ぎるって思って一度家に戻って着替えてきたの」
「あ、だから!」
「そう、遅れちゃって。でも思ったよりまだ暖かいかも知れないね」
「晴れてるとそうですよね。空の色は若干違うように感じますね」
そう伝えると高柳さんは見上げる。街路樹の木漏れ日に照らされた横顔がなんだか嬉しそうに見えたのは気のせいだったろうか。「本当にいい天気」と呟いてから、こちらの方を向いて何かを言いかけた様子。
「どうかしました?」
「いえ。教室に通うのは色んな理由があると思いますけど、佐久間さんはどうして通おうと思ったのかなって思いまして」
改めて問われるとはっきりした理由を述べるのは難しいということに気付く。応援団の声援に感銘を受けてボイトレというのも即座には繋がってゆかない。ただ、胸の中で同じ熱いものが残響のように鳴り響いているのは確かだった。
「応援したいからですかね。応援歌を届けてみたいんですよ」
「え?応援歌ですか?」
予期していなかった答えだったからなのか不思議そうに見つめている高柳さん。その表情を見ているうちに続く言葉が浮かんだ。
「高柳さんみたいに頑張っている素敵な人達を自分の声で応援したいんです!」
「ええぇ!?」
どうやら驚かせてしまった模様。でも自分にしては気の利いたセリフだったせいか、彼女も喜んでいた。いつか本当にそんな日が来るだろうか。できればそう遠くない日であってほしいなと感じていた。