呪怪
「森から、なんか来る」
森。さっきまで自分がいた場所。
ついさっきまで畑に近い方で、香草を採っていた。
何か野生動物がいるだけであれば放っておけばいいのだが。
ただならぬ気配に、それは絶対に放ってはいけないものだと悟った。
両親は森のもっと、奥の方へ進んでゆく。アリナも数歩分後ろに続いた。
(もし野生のドラゴンだとか、持ち手を失ったゴーレムなんかがいても。……たぶん大丈夫だよね)
そう言い聞かせる。
(だってほら、父さんは風魔法の名手だし、追っ払うのなんて簡単だもん。母さんの使う花魔法はあったかくていい香りがして、きっとどんな生物でもうっとりするような。
だから襲ってなんてこない。だから平気、なんてことないんだから。怖くなんて)
「アリナ、逃げろ!」
サイモンの、叫ぶような呼びかけが聞こえる。
はっと前を向くと。
ドラゴンやゴーレムなんかよりずっと、でかくて恐ろしくて禍々しい怪物がいた。
奴が、いたのだ。
まだ小さい頃、幼馴染から聞いたことがある。
漂う想呪を集めて、広がらないようにする物質の呪玉を造った科学者が居たって。
それで想呪症候群は殆ど見られなくなったけど、野生動物が呪玉を飲み込んで、怪物化するようになったって。
それはきっと、奴だ。
その怪物の名を、「呪怪」という。
そんな、不意に忘れてしまうような記憶がぐるぐると思考を飽和する。
呪怪はどろどろとした体をしていて、動物の原型をとどめきっていなかった。
強いて言うならば鹿のような形をしていた。
鹿はそこまで人間を嫌う性格ではないはずだが、自分達に対し異様に攻撃的に見えた。
怖い。
ただそれの恐ろしさに震えることだけしかできなかった。どうにもできなかった。
サイモンは有らん限りの魔法で呪怪を遠ざけようとしていた。
確かに、彼は強く優秀な風魔法の使い手であった。
が、妻も娘も失いたくないという恐怖にとらわれて、本領を発揮できないようだった。
全ての攻撃は呪怪の餌となり、状況を悪化させていた。
ぶくぶくと膨れ上がる呪怪を見て、攻撃を諦め来た道を戻ろうとした。
今は逃げて命を守るべきだと。
その決断は、マーガレットも同じでようあった。
とにかくこいつから離れなくてはならない、と。
必死に脚を動かしたが、その間にも呪怪はどんどん成長してゆく。
何かに、脚がとられるのを感じた。
慌てて下の方を見ると、己の脚が喰らわれるように、呪怪の体にのまれていることに気づいた。
激しい痛みの後から、徐々に脚の感覚が失われてゆく。
(……これは多分もう、駄目だ。アリナだけでいい、助かってくれ)
「あああああああああああああアリナ! 逃げろアリナ! ああああああ」
はっとした。
目の前の惨状を再度認識した。
両親共に、呪怪の体の中で苦しんでいる様子だった。
悪化し続ける状況に、恐怖よりも怒りが勝った。
「……このクソ野郎」
訳もわからず、駆け出す。
両親を助けたい。
上着のポケットから杖を出し、怒りに任せて魔法を繰り出す。
「消えろこの野郎! 返せ! うわあああああああああああ!」
杖先から水の柱が噴き出し、呪怪を直撃する。
僅かではあったが、呪怪の体が溶けて消えかかった。何度も何度も魔法を放つ。
少しずつ魔法の効果が大きくなり、何とか両親の手を掴んだ。
(やった、あと少しでなんとか)
ほんの少しの安堵を抑え、また攻撃を続ける。
「え」
先程まで効いていた攻撃は、突如効果をなくした。
呪怪の溶けた部分はまた再生し、アリナの右腕と頭をのみ始めた。
怖くなって手で押しのけようとするも、どれだけ力を込めても離れない。
右目の視界が遮られ、ひどい頭痛で思考が完全に停止する。
と、その時。
腹部に強い力が加わった。
鈍痛を認識した時にはかなりの勢いで、森の外側まで飛ばされていた。
ひゅうと、木々が風をきる音が聞こえた。
何が起こったかわからないまま、畑の柔らかい土に叩きつけられる。
ひとまず呪怪からは逃れられた。
それだけは認識できたが、吐くような頭痛で視界が歪んでいて何も分からない。
母の花魔法の芳香を嗅ぎ、そこで意識がすうっと消えた。