真打登場③
「あら?ルシータ、顔色が悪いけれどどうしたの?」
「......」
わざとらしく心配する素振りをみせるアスティリアに、ルシータは何の感情も浮かばない。
ただただ、自分の胸の内から溢れた言葉が信じられなくて、唖然としてしまっていたのだ。
結婚の相手が決まったと父親から告げられ、しかもその相手がレオナードだと聞いたとき、とても驚いたけれど決して不快ではなかった。
とはいえ素直に受け止められるほど、ルシータは自分に自信を持っているわけでもなかった。
だから戸惑っていた。
当主になって更に精悍さと凛々しさが増したレオナードが膝を突いて、自分の手を取って完璧な求婚の台詞を口にしても、それが悪い冗談かもしれないと疑わざるを得なかった。
それに結婚式でレオナードが自分の隣に並ぶことに申し訳なさすら感じていたし、純白のドレスは自分なんかが着たってどうせ似合わない。笑われるだけだと、拗ねていた。
なのにレオナードが、過去にそういう関係だった女性がいたということを知った途端、自分でもびっくりするほど傷ついてしまった。
ずっとこれまでつっけんどんな態度をとっていたのも、外出に誘ってくれたのに断り続けていたのも、本当の気持ちを見破られないためにそうしていただけ。
ルシータはレオナードのことが好きだった。
いや、今でも好きだ。そして彼の隣で年を重ねることができることが嬉しかった。
でも、それはルシータの一方的な気持ちで、現実は違った。
─── くそっ。知りたくなんてなかった。
笑われることのない爵位を持っているわけでも、高嶺の花と言われる容姿でもないそんな自分が身分不相応な彼に恋をしていることを知られるぐらいなら、いっそそこいらの木で軽く首をくくってしまったほうがマシだった。
そんなふうに髪を掴まれ、無理矢理自分の気持ちに向き合わされている心境になっているルシータは気づかなかった。
レオナードが憤怒を越えた冷たい笑みを浮かべていることを。
たった一つの心の拠り所を失ったルシータの選択肢は、限られたものしかなかった。
「......私、帰ります」
これもまた勝手に口から出たものだったけれど、心からの本心だったので別段驚くことはない。
ただアスティリアは、まだまだ虐め足りないようで、露骨に不満そうな顔をした。けれど、彼女は計算高く、すばやく綺麗に整えられた眉を下げた。
「あら、そうなの?残念だわ。もっと色々お話したかったのに」
アスティリアは口元に手を当て、じっとルシータを見つめる。その姿は、級友との別れを惜しんでいるかのようにも見える。
でも、違う。
アスティリアが優雅な所作で口元を覆ったのは、唇がつり上がるのを止められないからなのだろう。
わかっている。この演技も、何度も目にしてきた。どの角度からも見えないように完璧に自分を隠す技術は、きっと社交界では必須のスキルなのだろう。
だからアスティリアは、学園での成績はぱっとしなかったけれど、きっと貴族社会ではダントツの優等生に違いない。
そんなことを一瞬思ったけれど、どうでもいい。
「気を付けて帰ってね。……でも、良かったわ。今回は出席してくれて」
そう言ったアスティリアは、ルシータだけにわかるように、僅かに口元に当てていた手をずらして意地悪く笑ってみせた。
やっぱりこの女は、かつてのお茶会でドタキャンしたことを根に持っていたんだ。
随分と執念深いなとルシータは思った。正直、そこまで自分に執着を見せる彼女に、ぞっとした。
でも感情を動かしたのは、瞬き2つ分の間だけ。これもまたどうでも良かった。
ルシータの心は今、見えない血をボタボタと垂れ流している。きっとこれが肉体の一部だったら致死量など遥かに超えているほどに。
でも質の悪いことに、心は目に見えない。
だから手で傷口を押さえることもできないし、傷薬を塗る事だってできない。なのに痛みは誠実に自分自身に訴えかけてくる。
─── まったくもうっ。癒す手立てがないのに、どうすればいいのさ。
そんなことを思いながらルシータは、肩に置かれているレオナードの手を振り落とすように、お暇する挨拶を省いて背を向けた。
会場まではレオナードの馬車で来てしまったので、自宅までは徒歩になる。
帰り道も、ちゃんとわかっていない。辻馬車を拾いたくても、所持金はゼロ。お腹もすいているし、ハムだって食していない。履きなれないヒールのせいで、つま先も踵も痛い。
でも、それらを全部ひっくるめても、ルシータが足を止める理由にはならなかった。
けれどルシータは、歩き始めてたった2歩で、足が止まった。いや、力づくで止められたのだ。
レオナードがルシータの腰に手を回して、かなり強引に自身の方へと引き寄せたから。
強引だけれど乱暴でもない大きな手が腰に触れたと同時に、再びくるりと視界が回ったルシータは何が起こったのか一瞬わからなかった。
小さく「へ?」と間抜けな声を上げた途端、視界は暗闇に覆われて気障な匂いだけが鼻に付く。すぐにそれがレオナードが付けている香水の香りだと気付いた。
そして、かなり遅れて自分が今、現在進行形でレオナードにぎゅっと強く抱きしめられていることにも気付いてしまった。
条件反射で、そこから逃れようとするルシータを逞しい腕は逃がすことはしない。
しかもその腕の持ち主は、更に身じろぎするルシータをもっと抱き込み、こんな言葉を囁いた。
「ルシータ、逃げないで。思っていることを全部言うんだ。大丈夫、僕は何があっても君の味方だよ」
驚いて見上げれば、まっすぐ自分を見下ろす紺碧の瞳とぶつかった。
慈愛が籠った優しい眼差しを惜しみなく降り注いでいる彼の瞳には、どんなに目を凝らしても、嘘も偽りもなかった。




