9.苦手意識
ピピッという電子音と共にサジェは人差し指の先の光を消して眼前から遠退いた。また床を蹴ってイスのキャスターで移動したらしい。器用にコーヒーメーカーの前でブレーキをかけると、慣れた手つきでマグカップにコーヒーを注ぐ。湯気の昇るカップを持った彼女は先程よりもゆっくりと、慎重に光人に再接近してコーヒーを差し出した。そっと受け取ると満足そうにうなずく。
「それ、そういえば……貸し借りができるとかって言ってましたっけ。」
「いや君、本当にあの状況でよく覚えとるな。本当にキャパオーバーしてたのかえ?」
「なんとなく、ぼんやり覚えてるってだけです。」
「それでも上等だら。」
コーヒーを一口飲むと、サジェは自身の左手を光人に差し出した。
「この手を握ってくれたまえよ。」
「握手みたいな感じですか?」
「そ。優しく握ってくれりゃ十分ずら。」
言われるがままサジェの手を取る。サジェはよし、と言うとすぐに手を離した。光人には特に変わったところは無いが、サジェは満足そうに頷いている。
「あの、今ので何が?」
「今、私のエフェクトは君の体内に移動した。私の能力を、君に貸したんだ。」
「すみません、全然なにも変わっていないような気がするんですが。」
「おやおや。なんかこう……パワーアップしたぞー、みたいな感覚ない?」
「ありません。」
「おー……。」
金色の前髪を軽く掻きあげるサジェの顔は声とは裏腹に非常に興味深げだった。居心地悪そうにしている光人に気づいたのか、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんごめん。どうしてもこう、研究者の性っちゅーのかな。出てもうてな。まぁなんだ、とにかく今ので私のエフェクトは君の中に移動した。私たちは普段、必要に応じてエフェクトを貸し借りして作戦を遂行する。だが、これにも法則がある。ここまで大丈夫?」
「あー……はい。」
「じゃあ、次に行こうか。……と思ったけど私の用意不足やなぁ。ジェン君呼ぼか。」
「えっ。」
「苦手意識あるかもしれんけど我慢してほしか。現状君が『主人公』だって知ってるの、あの子だけやねん。それに――四番書庫、医務室に君を運んだのも彼じゃ。信用はしていいぜよ。」
サジェはデスクへと足を向ける。ヘッドセットを取ってジェンを呼んでいるのが聞こえたが、思わず光人はぽかんと呆けていた。あれだけこちらを睨んでいた彼が?とジェンの様子を思い出していた。
「じきにジェン君がここに来る。そしたら、続きを話そうか。あ、あといつまでもその服でいさせるわけにもいかん。だもんで、一応君のために用意しておいた服があっから、あれに着替えとき。」
サジェの指差した先にあったのは畳まれたまま無造作に棚の上に置かれた白い衣服であった。それに近付いて広げると――前開きの白い長袖のロングパーカーと、その下にあった黒いTシャツのようなものとスラックス。靴下と少しゴツさのある編み上げのブーツ。一式の衣服がそこには揃っていた。
「我々は白を主にしていれば好きな形の服を着ていいんだけどね。君の好みは良く分からなかったから、サイズが合いそうなのを適当に用意しといたぜよ。あ、更衣室はその棚の隣の箱ね。」
「すみません、何から何まで。」
「いーのいーの。これもお仕事じゃ。」
ニカッ、という擬音が付きそうな彼女の笑顔に、光人は小さく頭を下げた。
――一方、館内に響くサジェの声に呼び出されたジェンは食堂にいた。眼前の席で共に食事をとっていたルートヴィヒと顔を見合わせる。
「サジェさんからの呼び出しとは珍しいな。」
「お、おう。そうだな。」
「……この間の生存者が目を覚ましたのかもしれんな。特殊体質なんだろう?」
「あー、だからなんか当事者の話とか必要なのかもな。……飯もったいねぇ。」
「冷凍保存しておくか?」
「エフェクトの無駄遣いやめろよ……。いっそこのまま持って行くか。」
食べかけのパンとシチューの乗ったトレイを指して冗談めかしてジェンが言うと、ルートヴィヒは頷いた。
「機械類の上にこぼさなければ大丈夫じゃないか?」
「いやいやいや、さすがにやめとくわ。」
「そうか。」
「おう。食堂で保管しといてもらう。」
「わかった。」
「ごめんな、一人にしちまう。」
立ち上がったジェンは、少しだけバツが悪そうにしていた。ルートヴィヒはなぜそうも彼が自分に気を遣うのかがわからない。普段から食事を共にすることは確かに多いが、毎日一緒というわけではない。お互いに一人で食事など珍しくもないのだ。
「構わない。早く行った方がいい。」
「だな。んじゃ、また後で。」
ジェンはその場を後にする。トレイを手に食堂の担当者に声をかけた。後で食べる旨を伝えてトレイを預けると、そのまま食堂を出ようとしてちらりと振り返った。一人で無言のまま食事を続けるルートヴィヒが見えた。
「ごめんな。」
小声でつぶやかれた謝罪は、この場に彼を一人にすることに対してのものだけではなかったのだが――ジェンの心の内を知るものは、まだいない。
●
かくして、サジェの用意していた服は光人にぴったりのサイズであった。服はもちろん、靴までもが驚くほどに軽い。今まで来ていた入院着のようなものを畳んでいると、サジェが小さく笑うのが聞こえた。
「?」
「律儀じゃのう。まぁ、よかことじゃ。その畳んだのは棚の上に置いといてや。」
「はい。」
そうして光人がサジェの指示通りに棚にそれを置いてから座っていた椅子へと戻ると、丁度ドアの外側から声が聞こえた。
「ジェン・フランカです。」
サジェは手動で鍵を開くとジェンを室内に招き入れた。輝くような緑色の瞳は光人の姿を認めると、眉根を寄せた。
「こいつのことですか。」
「そうそう。まぁ君がここに呼び出されるとしたらこの子についてじゃろうなぁ。エフェクトについての説明をしていたわけだけど。セカンドエフェクトを借りておくの忘れちゃってね?事情を知ってる君に助けてもらおうってわけさね。」
「はぁ。って、じゃあオレはまたこいつにエフェクトを貸すってことですか?」
「まぁまぁ、ちゃんと受け渡しができることは分かってるし、頼むよ。」
疑うような眼差しを向けられて光人は少しだけ首をすくめた。やっぱりこの少年に頼むのは間違いじゃないのか、とサジェを見ると彼女はウィンクして見せた。安心しろという意味なのか、仲良くしろと言われているのかは分からないが、どちらにせよ助け舟を出すつもりは無いらしい。仕方がない、こちらも頭を下げるべきか――とジェンを見遣ると、バッチリと目が合った。