30.悪夢
――目を覚ますと、いつもの朝だった。寝ている母の隣から静かに起き上がって、キッチンへ。テーブルに菓子パンが一つ。ビニールを破って甘い砂糖の匂いをかぐ。大して味わいもせずに無感動に咀嚼しては嚥下して、という行為を繰り返す。アパートの一室で静かに朝の支度をする。あまり大きな音を立てると寝ている母を起こしてしまうから。父の姿が既にないのは、今日は出るのが早かったのだろう。
家を出る前に一度寝室へ。母に声を掛ける。
「母さん。行ってきます。」
眠る母の眉間にしわを寄せて唸る。これ以上はいけない。起こしては、いけない。
静かに寝室を後にして「ランドセル」を背負う。――――そこで、気づいた。
「これ、夢だ。」
そう、自分はもう高校生だ。気づいた途端にどんどん視界はぼやけて意識が現実へと急速に引っ張られて行く。ノックだ――ノックの音がする。
「どこへ行くの、光人。」
いつの間にか背後に立っていた母の声が聞こえる。――だめだ、早く起きないと。
体は意識に反して後ろを振り返ろうとする。――見てはいけない。早くまぶたを開けないと。
夢の中では既に開いているまぶたを更に開こうとする。現実の感覚が混じり、開いているのに閉じているまぶたに力を入れる。
「勝手なことをしないで。光人――――。」
振り返った先、母の足が見える。――早く顔を上げなければ。いや、まぶたを。まぶたを開かなければ。
『光人君――――。』
まぶたが、押し上げられる。
――コン、コン、コン。
極限まで目を見開いた。自分の呼吸する音がいやに大きく聞こえる。ノックの音がしていた気がする。これは現実の音のはずだ。
「やっぱり寝てるんじゃねぇか?」
「そうみたいだね……。」
「副書庫長に歓迎会は明日にしてもらうように言うか……。」
ドア越しにジェンとミシュリーの声が聞こえる。光人は起き上がり、ふらつく頭を軽く押さえながらドアまで移動する。その先には、驚いた顔で光人を見る二人がいた。
「ごめん、爆睡してた……。」
「こ、こっちこそごめんね!起こしちゃったかな……?」
「ううん。いいんだ。起こしてくれて助かったよ。」
「そう……?あの、光人君、顔色悪いよ……?大丈夫?汗もかいてるみたいだし……。」
「え……?」
「真っ青だぞ。」
ジェンは厳しい顔で言う。もしかしたら、心配してくれているのかもしれない。
「あー……ごめん、ちょっと夢見が悪くてさ。大丈夫、大丈夫。ていうか、もう夜?」
「おう。シャルロッテさんに呼んで来いって言われて来たんだけどよ。やっぱ別の日にしてもらうか?」
「いや、大丈夫。あ、でも、待って。先にテトラを迎えに行かないと。」
「テトラ?」
「うん。四番書庫に迎えに行かないと。夜に迎えに行くって行ったんだ。」
四番書庫と聞いて、ミシュリーが反応する。
「そういうことなら、行こっか。ジェン君、シャルロッテさんに伝えてもらえる?」
「……おう。」
「ごめん、ジェン。」
「別にいい。ほら、早く行ってこい。」
ジェンは背中越しに手を振ってシャルロッテの部屋の方へと歩いていく。ミシュリーに促されるまま逆方向へと向かう。
「無理してない?」
「うん。大丈夫。心配掛けてごめん。」
「いいのいいの。私たちはほら、それが仕事でもあるし。」
「そっか。」
「うん。」
言葉が切れる。光人は、口の中が乾いていた。まだ、頭が少しふらついている。
「ところで、行こうとは言ったものの……四番書庫のどこに迎えに行くの?」
「あっ……えぇっと。セラさん?っていう人に連れてってもらったんだけど。あ、受付でテトラを迎えに来たって言えって確か言われた。」
「副書庫長に?あ、なんか準備してたのテトラちゃんのためだったのかな……。わかった。受付で聞いてみようね。」
ミシュリーのおかげで迷うこともなく四番書庫にたどり着き、やはり病院や薬局を模していると思われる受付に立つ女性に声を掛ける。
「お疲れ様。テトラさんがどこにいるか分かる?」
「一番の特殊検査室にいますよ。司書がお忙しければ私がご案内しますが、どうします?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。」
こっちだよ、と促すミシュリーに続く。廊下はやはりどこの書庫も似たようなもので、見分けがつかない。
「ミシュリーは人の顔と名前とか、場所とか覚えるの得意?」
「顔と名前はわりとすぐに覚えるよ。でも……えへへ、場所を覚えるのは苦手。ここに来た頃はよく迷子になったよ。光人君はどうなの?」
「どっちもそこまで苦手じゃないと思ってたんだけど、ここに来たら自信なくなった。」
「似たような場所ばっかりだしね……。あ、ここだよ。特殊検査室一番。」
ノックをすると、静かな声が返事をした。テトラだ。
「迎えに来たよ。テトラ。」
「光人。と、そちらはミシュリー・カリーヌ、でしたか。」
「あれ?起きてるときに会ったのは初めてだと思うけど……。」
「スキルの影響で意識はデータとして肉体を離れていました。その間にあなたの姿を発見。名前をセラに聞きました。」
「へぇ……なんだかすごいスキルだね。えっと、じゃあ一緒に歓迎会行こうね!立てる?」
ベッドに腰掛けるテトラにミシュリーが手を差し出す。しかしテトラは小さく首を傾げた。
「歓迎会?」
「え?そのためにお迎えに来たんじゃないの?」
ミシュリーが光人を振り返る。
「ごめん、寝起きで全然言葉が足りてなかった。今、テトラがスキルで精神が肉体を離れるって行ってたでしょ?意識をこっちのこの……端末に移せるんだ。その方が楽らしいから、夜は移してあげようと思って迎えにきたんだよ。」
「そうなんだ?へぇ……。」
光人がポケットから取り出したスマートフォンをミシュリーが不思議そうに眺める。テトラは腕を伸ばしてコードをたぐり寄せると、光人にそれを差し出した。
「どうぞ。お願いします。」
「ありがとう。じゃあ、つなぐね?」
「はい。」
テトラは自身の腕に、光人に渡したものと同じ機械につながっているパッド付きコードを装着する。そのままベッドに横になり、目を閉じた。それを確認して、光人もすぐにスマートフォンにコードをつなぐ。光人の手元をミシュリーがのぞき込む。その間に、テトラは機械とコードを伝って自分の意識を移動させていく。すると、一瞬のノイズの後にスマートフォンの液晶に魚が表示された。
「あ、できたみたい。ほらミシュリー。」
「このお魚さんがテトラちゃんなの?」
「うん。話しもできるよ。」
「すごい!テトラちゃん聞こえる?」
「はい、ミシュリー。聞こえています。」
「すごい!」
両手を胸の前で合わせて目を輝かせるミシュリー。出会った時は頼れる人のイメージだった彼女が、こうしてツインテールを跳ねさせながら喜ぶ姿はどことなく幼くて微笑ましい。実はこっちの方が本当の姿なのかもしれない、と光人は自然と口元をほころばせていた。




